信心銘(四)

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本来の一体性に通じていなければ、有とか空とかいう観念の中に本当のことを見失ってしまう。
有を捨てようとすれば有に埋没してしまうし、空にしたがおうとすれば空に背いてしまう。
言葉で語り尽くそうとしても頭で考えつくそうとしても、本当のことを示すことはできない。
しかし、言葉や考えから離れれば本当のことに通じないということはないのだ。

 

解説

真の自己を知らなければ、つまり、世界が自分の心が作り上げられた観念だと知らなければ、その作られた世界の複雑性の中に迷うことになるでしょう。
複雑な世界の中で、何が良いのか何が悪いのかという判断の中に迷い込み、さらには起こっている物事が自分に降りかかってきたと思うでしょう。
また、複雑性に耐えられなくなり、複雑な概念・考えを捨てようとすると、すべての物事には意味がないとして、生きることに関しても虚無感を覚えることになります。
意味や判断、言葉や考えというのは、心の動きであり創造されては消滅するものであり、それを生み出す源泉ではないのです。
本来の自分というのは、心や観念を生み出す源泉なのです。
判断や意味付けをやめ、静かに心の動きが一体何が生み出しているのかを見つめることで、心の源泉であり全体性である真の自己・存在を知ることができるのです。
産み出された概念・世界は一体誰が産み出しているのか、産み出しているものは何か、を常に見つめることです。
私という存在を何が産み出しているのか。

 

原文

一種不通 兩處失功 遣有沒有 從空背空
多言多慮 轉不相應 絕言絕慮 無處不通

信心銘(三)

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考えや感覚の世界である有を追ってはいけない。無為の世界の空の中に陥ってもいけない。
一体性の中に穏やかにあれば、すべての問題は自ら消滅していくだろう。
心の動きを止めて静かにしようとすると、その静かにしようとする働きがさらに心を動かす。
有と空、動と静というようなどちらかの極端にいるかぎり、決して本来の一体性を知ることはできない。

解説

心が作り上げた概念の世界や感覚の世界をいくら追求しても、そこに真実はありません。概念や感覚の世界は自分が作り上げていることを忘れてしまっていると、それを追求することで、さらに複雑性の中に迷い込むだけです。
どんな概念であろうと、どんな感覚であろうと、それらは私とその他という分離です。分離は取捨選択です。どちらかが良くてどちらかが悪いという肯定否定は、調和と全体性から離れます。
全てのことが重要であるという考えも、すべてのことが意味がないという考えも、どちらも自分の心が作り上げたもので、いずれも複雑さや虚無感の中に生きることになります。それはどちらも心が作り上げた幻想なのです。

本来の一体性にあるには、心が作り上げたものから離れなくてはなりません。そこから離れたときには、自ら作り上げた複雑さや虚無感は消え去り、すべての問題は自ずと消滅していくでしょう。
あれかこれか、どちらが良くてどちらが悪いか、どちらか一方を選ぶ限り、本来の一体性に 在ることはできないのです。
あれもこれも、良いも悪いも、どちらも手放した時、本来の一体性・「道」に在ることでしょう。

原文

莫逐有緣 勿住空忍 一種平懷 泯然自盡
止動歸止 止更彌動 唯滯兩邊 寧知一種

信心銘(二)

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これは違うとかそれは合っているとかを争うのは、
それこそは心の病である。
本来の道理を知らなければ、
いくら心を静かにしようとも無駄である。

本来の道理とは虚空のように完全であり、
欠けるところも余るところもない。
まさに良いとか悪いとかの取捨選択のために、
本来の道理から外れてしまうのだ。

解説

これが正しいこれが間違っていると言っているのは、自分の心が作り上げている病です。心は現実を分割し、一方を肯定し他方を否定します。それは全体としてのあるがままの現実ではないのです。あるがままの現実を見ないまま、心が作り上げた世界に生きると心が病んできます。
起こる状況に不平不満をいい、物事をコントロールしようとすれがするほど心は現実を分割し、心は分離の中で喜んだり苦しんだりを繰り返します。
本来の現実をありのままに受け取ることをすると世界の完全性が分かりますが、少しでも心の作り上げた世界にとらわれると、その幻想がさらなる幻想を生み出し、心は自分が生み出した幻想の中で迷うことになるのです。
言ってみれば、取捨選択のない世界・虚空が完全な道理であり、その虚空から生まれ出ては消えゆくものにとらわれないことなのです。

良いとか悪いとか、どちらが良いかどちらが悪いか、そう思った瞬間に心が世界を分割して、本来の道理から外れてしまうのです。全てであること、調和にあることから離れてしまうのです。

 

原文

違順相爭 是為心病 不識玄旨 徒勞念靜
圓同太虛 無欠無餘 良由取捨 所以不如

信心銘(一)

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『道』に至るのはむずかしいことではない。
ただ分別や選り好みをしないことだ。
ただ憎むとか愛するとかの想いがなければ、
すべてが自然と明瞭になるだろう。

ほんのわずかな分別や僧愛の想いがあれば、
『道』からは天と地のように遠く隔たってしまう。
ありのままの世界を現すためには、
良いとか悪いとかの分別を離れなければならない。

 

解説

『道』にあることは、本来は簡単なことなのです。
ただ心が作り出した良い悪いなどの判断、意味付けをなくせばよいのです。
ある物事や状態に対して、良いと判断しているのは自分の心、悪いと判断しているのは自分の心、そこにある意味があるとしているのは自分の心なのです。
物事や状況は自分から意味を付けてはいません。意味付けしているのは自分の心なのです。
意味づけや判断をしている心は、全体と分離しています。全体ではありえないのです。心・判断は、自分と自分を取り巻く世界を分離しているのです。心は自身を一体性・調和から分離し
心による分別、判断をやめると、そこに一体性・調和が現れ流のです。

原文

至道無難 唯嫌揀擇 但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

スッタニパータ 75

75.
人々は自分の利益のために交友関係を結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は得がたい。自分の利益だけを見ることは人々を不浄にする。ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

人は自分が不完全だと思うとき、自分を完全にしようとします。自分の中の空虚を埋めようとします。自分の心が創り上げた不完全性を、自分以外のもので自分を満たそうとしようとするのです。
ところが、それをしたとしても自分が完全になることはありません。常に自分以外のもので自分を満たそうとする経験が永遠と続きます。その経験は永遠に自分が不完全であるという確認をさせているだけなのです。
常に不安でいるので、その不安を解消しようとする行為に陥ります。
誰かの機嫌をとる、何か自分を安心させてくれるものに頼る、酒やタバコや常習的な行為に頼る、宗教や信仰に頼る、同じ不安を抱えている人間と共にいることで不安を忘れようとする、心を麻痺させる過剰な刺激を浴びる、名誉や地位を得ること内面の不安を覆い隠す、その他様々な方法で自分の不完全性を埋めようとします。

本当は、概念で創り上げられた自分という存在はは真の自分ではありません。それは作品にすぎません。描かれた絵なのです。ほんとうの自分は、その自分という存在を創り上げている意識・心そのものなのです。自分という絵を描いている意識・心が真の自分なのです。

創り上げられた世界にこだわらず、世界を創り上げている意識・心、それがほんとうのあなたです。
喜んだり悲しんだり、楽しんだり苦しんだり、そのような経験をしているあなた、それは創り上げられたものなのです。
それを創り上げているものに目を向けてください。

ほんとうのあなたは現れている結果ではありません。
それを創り上げている原因です。
全てを創造する原因なのです。

真のあなたは創造主・原因であり、創造物・結果ではありません。
結果に悩まされる必要はないのです。

ただ一人輝きなさい。そしてその輝きで世界を照らしなさい。

あなたが輝くと、全てが輝くでしょう。

スッタニパータ 74

74.
貪りと怒りと無知とを捨て、諸々の束縛を引き裂き、生命の消滅を恐れることなく、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

意識・心が自分の世界を創っているのを忘れると、自分の完全性を忘れ、自分の存在が不完全なもの欠点があるものだと思い込みます。
自分というのは何かが足りない、もっとあれが欲しいこれが欲しい、それがあったら幸せになれる、と考えます。
自分というのは全体的な存在ではなく小さな存在であると信じて、それが生み出す小さな価値観にこだわり、その小ささに気付いたとき、あるいは他人から指摘されたとき、怒りを覚えます。
自分の完全性から遠く離れ、意識・心が創り上げた世界に迷い込むとき、自分が何も知らないという錯覚に陥ります。

自分という制限された存在を信じていると、それに伴う制限された思いや体験を生み出します。
実は、自分の命、生命という観念でさえ、自分という制限された考えから生み出されたものなのです。観念は波の泡のように生まれては消えていきます。
波によって起こる泡のような自分という観念が、意識・心によって創られたものだと知り、自分という制限された思いから解き放たれたとき、全てが一つである意識・心が現れるでしょう。

スッタニパータ 73

73.
慈しみと、平静と、あわれみと、解脱と、喜びとを、時に応じて修め、世間すべてに妨げられることなく、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

全ては意識が創り出していると知る、自分の存在でさえ意識が創り出しています。
自分の存在が意識が創り出しているなら、その他の自分・身体、つまり他人が自分自身を自分だと思っていることでさえ意識・心が創り出しています。
しかし、それぞれの作り出された個々の自分・身体は、この世界では別々に存在するので他人と見なされます。
自分以外の他人、その他人が自分自身が創造物であることに気づいていない時、自分というのは創造されたものであることを忘れてしまったいる時、それに対する自分の感情は、それでいい、というものになります。
自分が意識から創造されたものであると気づいている時、他人が創り出したものに対しては、それでいい、そのままでいいというものになります。

そのままでいい、全ては意識・心が体験するために創造したものなのだから。
その時、自分が意識・心から創造されたものであると気づいている存在は、そうでない存在に対してさまざまな在り方を表わします。
悲しんでいる存在に対しては、慈しむことがそのままでいいという在り方になり、迷い苦しんでいる存在に対しては平静という在り方を示すかも知れません。
そして、全ては一つである意識・心が全てを創造し体験していることを知る存在に対しては喜びで応えるでしょう。

意識・心という創造主であり、それが自分を創造し、他人を創造していいると知っている時、創造されたものである他人やその他の生物、そして状況にさえ対して、全てはそれでいい、全ては完全だ、という在り方をするでしょう。

スッタニパータ 72

72.
強い歯牙を持つ獅子が、百獣の王として一切を征服して歩むように、辺境の坐臥所に親しみ、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

ライオンが百獣の王たり得るのはその牙の力のためである。
同様に、私たちが全ての王たり得る、つまり、全てを創造したり得るのは、その心の力のためである。

世界は意識が創り出したものです。身体も意識が創り上げたものです。全ては意識・心が創っています。自分という観念でさえ、意識・心が創造しているのです。
創り出した意識が最初です。創り出された世界や自分が最初ではないのです。
身体が自分ではないのです。身体を創り上げた意識が真の自分なのです。
物質の世界、時間の世界、それらは意識が創り上げたものです。

世界・身体をいくら探っても何も分かりません。世界・身体というものを創り上げた意識・心・真の自分というものを見ることです。創り上げている主体こそが真の自分なのです。
「私」とか「自分」というものは、意識が創り上げた一つの作品なのです。
意識が創造主・主体であり、私や自分は作品であり創造物なのです。
作品・創造物を創り上げている意識が真の自分です。
創り上げている意識が真の自分であり、それは全てであるのです。

自分以外のものを見つめるのではなく、自分を見つめてみましょう。
すると、そこに全てが現れるでしょう。

その人はコーヒーが好きでした

その人はコーヒーが好きでした。いつも自分のことよりも他人を気遣い、何一つ不平不満を言わず、穏やかな笑顔で落ち着いて、いるかいないかも気にしなくていいくらい自然な存在でした。

私もコーヒーが大好きでした。普段から自宅でもカフェでも様々な種類のコーヒー豆を購入し楽しんで飲んでいました。私は当時は仕事が忙しく、毎日のように仕事の合間にカフェで次の仕事の準備をしながら様々な種類のコーヒーを飲むのを楽しむのが常でした。

その人と頻繁に会っていました。
会っていても当たり前のように一緒に過ごしていました。
本当に自然に、当たり前のように。

ある日、食事を一緒にした時でした。いつものように普通に話し、笑って楽しい時間を過ごしていました。
食事の後、コーヒーを飲んでいましたが、その人が、「最近、エスプレッソマシンを買ったんだ」と嬉しそうに話してくれました。「あきおくんに美味しいエスプレッソを飲ませてあげたいから、今度マシンを持ってくるね」と。
私もコーヒー好きなのですが、そんなマシンまで持ってきて飲ませてくれるなんて、そこまでしなくてもと思いましたが、楽しみにしていると軽く返しただけでした。

そして、
次の週、その人は亡くなりました。
最初、その人の死を知った時、私は何も感じませんでした。
全く、何も、感じなかったのです。
何も感じないようにしたというのが本当でしょう。
心を麻痺させました。
一ヶ月は心が何も感じなくなりました。
コーヒーは飲まず、コーヒーを見ると、さらに心を麻痺させました。
一ヶ月ほどコーヒーというものから離れました。
カフェにも行きませんでした。
何も感じませんでした。
何も感じたくありませんでした。

その人の死から一ヶ月後くらいに、カフェに行きました。
コーヒーを飲んだら、心が溶けました。
硬くなっていた心が、柔らかくなりました。
カフェで、周りの目をはばからず声を震わせ泣きました。
涙が止まりませんでした。
涙が枯れるまで泣きました。

その後も数ヶ月は心を麻痺させ、カフェに行けませんでした。
失ったもの、失う前は全く意識していなかったもの、どれだけ大切なものだったのか。

当たり前のものなど無いと知ること。
当たり前なものほど大切だと知ること。
当たり前なものほど大切にし、愛を送ること。
どんな時でも、どんなものにでも愛でいること。
伝わっても伝わらなくても、いつも愛でいること。
それが最高の在り方なのだから。

手放すと大切なものが分かる

失ってみて初めて物事の有り難さが分かる、と言われます。
失ってしまったものはもう元には戻りません。失った物事からどれだけ自分が恩恵を受けていたのかを知り、戻らないがために悲しみ後悔します。
物事の有り難さを知るために、多くの人が失うという経験をしているようです。
しかし、そんな無駄なことをしなくても良いのです。
今ここ感謝に在り、全てのものを手放すことをすれば、実際に失ったと同じことを経験するのです。

失う前に手放してみましょう。
すると、失わないで済みます。
自分を傷つけるような経験をしなくて済むのです。
あらゆる物事が自分のものではないと、自分から手放すのです。
もちろん、最初は簡単なことから始めます。
まず要らないものを捨てることから始めます。これは簡単です。

次に、自分との関係が密接でないものを手放します。
これは少々自我が抵抗します。
今自分が使っているもの、真に大切なものだけを残します。

しかし、これでも不十分です。
最後には、全てを手放すのです。心の執着を手放すのです。その意識になれば最後に残っているものは、借りているもの、預かっているものという意識があるので、もうすでに感謝の心で接しています。

結局、全てを手放すという意識が、借りているものに対する感謝を導き、本当に大切なものだけが残るのです。

それは、一人の人間かも知れません。
一つのものかも知れません。
一つの地位かも知れません。
一つの考えかも知れません。
あるいは、関わっている全てかも知れません。
それは自分自身の在り方によります。

大切なものが周りに残ることによって、自分の人生自体が大切なものになります。
世界と自分は映し鏡なので、モノに対する感謝が人生の充実感につながるのです。

手放してから、すべては自分の上を流れるものであった、すべては変化する自分であったと気づくでしょう。
そして感謝という経験だけが残るでしょう。

ありがとうございます。