私は誰か?(23)

23.
解脱を願うものにとって、本を読むことにはどんな価値があるでしょうか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが聖典の最終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問い続けるべきである。この探究がどうして書物の中でできるだろうか?人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は五つの鞘の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物の中に求めるのは無駄なことである。いずれは学んだことすべてを忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

訳注5  
五つの鞘:パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘
 アンナーマヤ・コーシャ、身体の鞘。
 プラーナーマヤ・コーシャ、生気の鞘。
 マノマヤ・コーシャ、心の鞘。
 ヴィジーニャーナマヤ・コーシャ、知性の鞘。
 アーナンダマヤ・コーシャ、至福の鞘。


解説
全ての聖典の共通する目的は、自分自身の心を静かにさせ、世界が想念であると知ることだ。
世界が実在と感じ、想念に振り回されている時には、聖典を読むことは価値があるだろう。世界が想念であると知り、自分の体や考えが私ではないと知れば、聖典の役割は終わる。
様々な想念が消え去り、最終的に「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」という問いに至れば、書物は必要がない。
聖典は言わば、梯子のようなものだ。登り終わった後には梯子は必要がないのと同様に、世界が想念であることを知れば聖典は必要がない。
目的地にいる人に地図が必要がないように、聖典も実在である真我にある人には必要がない。

原文
Is it any use reading books for those who long for release?

All the texts say that in order to gain release one should render the mind quiescent; therefore their conclusive teaching is that the mind should be rendered quiescent; once this has been understood there is no need for endless reading. In order to quieten the mind one has only to inquire within oneself what one’s Self is; how could this search be done in books? One should know one’s Self with one’s own eye of wisdom. The Self is within the five sheaths; but books are outside them. Since the Self has to be inquired into by discarding the five sheaths, it is futile to search for it in books. There will come a time when one will have to forget all that one has learned.

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

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