信心銘(十八・最終回)

スクリーンショット_2015_07_20_23_05

在ることも無いことも同じであるということが分からなければ、それにこだわってはならない。
一つはすべてであり、すべては一つである。
そのようであるならば、完成していないことは気にしなくてよい。
心の本分を信じることが本来の一体性に在ることであり、本来の一体性に在ることは心そのままを信じることなのである。
これは言葉で表現することはできない。過去や未来や現在ということでもない。

解説

在ることも無いことも、結局は意識(心)が生み出したものであるのだか、それが分からなければ、それでいいのです。分からないのを生み出しているのは意識であり、分からなくても、すべては一つなのです。
意識が作り出したあなたがどんな存在であろうと、作り出されたものにこだわらなくてもいいのです。あなたという「自分」は作り出されたものであり、作り出した意識はいつも一体性のなかに在るのです。

今ここで現れている全てのことは、自分がそうしていると気づくこと。それが本来の意識に戻ることになります。本来の一体性にあることなのです。

全ての観念を造り上げているのは何か。あなたという存在を造り上げているのは何か。自他という観念を造り上げているのは何か。すべてはあなた自身を生み出している意識(心)が造り上げているのです。

人は生まれ死ぬという時間と空間を体験しますが、この全ての概念は意識がつく出した自分無くしては存在しません。そしてその自分とは意識(心)が造り出しているのです。

意識(心)は、大宇宙を造り、生命を造り、エネルギーを造り、現れるすべてを造り出しているのです。
あなたが何かを考え感じるとき、それはどんなものであれ、意識(心)が作り出しているのです。あなたという存在でさえ意識(心)が造り出しているのです。

意識(心)が全てを造り出しているのです。

原文

若不如是 必不須守 一即一切 一切即一
但能如是 何慮不畢 信心不二 不二信心
言語道斷 非去來今

信心銘(十七)

スクリーンショット_2015_07_18_14_29

在るとか無いとかいうのはなく、すべてが目の前にある。
極小のものは大きなものと同じで、その境界は忘れられる。
極大のものは小さなものと同じで、その限界は見えない。
有ることは無いことと同じであり、無いことは有ることと同じである。

解説

本来の一体性には、在るとか無いとかの違いはなく、その違いを生み出し認識している意識だけがあるのです。。
意識が時間を作り出し、今を中心に過去と未来を分けるように、存在においても在ると無いと分けているのです。
意識は大小というものも作り出し、自分の視点を中心に小さい大きいを分けているのです。視点は自由に動き視点が以前より小さくなればその周囲は大きくなり、反対に視点以前より広がればその内部はより小さくなります。
すべては意識が生み出していると知ると、有るということは無いということと同じことだとことに戻ります。存在そのものに戻ります。

観念という中心が作り出され、変化する観念はそれを中心として対立する二つのものを作り出しているのです。観念そのものが取り外されると、それは自ずと意識そのものに戻ります。
二つの対立がなくなると自然と対立を生み出す観念もなくなります。
在ることも無いことも、それらを作り出した意識の中に戻っていくのです。

原文

無在不在 十方目前 極小同大 忘絕境界
極大同小 不見邊表 有即是無 無即是有

信心銘(十六)

スクリーンショット_2015_07_17_0_20

自他のない一体の世界を表すなら、ただ二つではないと言うしかないだろう。
二つではないので、すべてが同じで、そこに含まれないものはない。
どこでもこの智慧を見る者は、みなこの根源的真理の中に入る。
この根源的真理の世界に、時間が長いとか短いとかはない。一瞬が永遠だということだ。

解説

自と他の観念のない本来の一体性を言葉で表現することは不可能なのですが、あえて言うと、不二、二つではない、ということになるでしょう。
自と他のあいだに何の分離も区別もないということです。
自と他は同じものであるということも、自と他は意識が作り上げたものであるということも、実はどちらも意識が作り上げたものなのです。

自と他が消え去り、本来の一体性に在ると、過去・現在・未来という時間も観念によって作り上げられたものであると見抜くでしょう。今ここであろうと過去であろうと未来であろうと、変化しているのは時間ではなく、意識の変化なのです。意識は自と他を作り出し、自が観念を作り出し、さらに世界を作り出し、さらに切り取った世界に意味を与え、それらを並べて時間という観念を作り上げているのです。時間というものは実際は意識が作り上げたものなのです。すべては意識が作り上げているのです。

意識が作り上げた自と他が消え去ると、時間も消え去り、ただ今ここの永遠に在ることでしょう。

原文

要急相應 唯言不二 不二皆同 無不包容
十方智者 皆入此宗 宗非促延 一念萬年

信心銘(十五)

スクリーンショット_2015_07_15_14_05

すべてのことは留まることはないので、記憶するべきこともない。
本来のことは意味などなくそれ自体で明らかなのだから、あれこれと考えることもない。
本来の一体性は考えの及ばないところであり、知識や感情では測り難い。
本来の世界、真の世界には、自と他の区別はない。

解説

すべてのことは変化し続けていて固定されたものはありません。
すべてのことが今ここに現れていて、それ自体で明らかなのだから、わざわざ意味をつけたり解釈したりすることはないのです。
本来の一体性の世界を頭で解釈するのは不可能なのです。
自分が世界を観察していると考えているなら、それはただ自分の観念が切り取ったものを世界と呼んでいるに過ぎないのです。さらに、それは世界を表しているのではなく、自分の観念が切り取った部分を世界と呼び、それに対して自分で意味づけをし自分の在り方を表しているだけなのです。自分の観念が作り上げた複雑な観念構造を世界と呼んでいるだけなのです。

本来の世界、真の世界には自と他の区別はありません。
本来の世界=意識が自と他を創り出し、それがいわゆる世界といわれるものを作り上げています。
自分と他の分離世界は意識・存在が創り上げていると分かると、創り上げられた分離の世界から離れ、自と他が一緒になり、自ずと真の世界・存在そのものが姿を見せるのです。

原文

一切不留 無可記憶 虛明自照 不勞心力
非思量處 識情難測 真如法界 無他無自

信心銘(十四)

スクリーンショット_2015_07_12_21_43

動とか止とかの二つの極が成り立たないのだから、どうして一などというものがあるだろうか。
極めて極め尽くせば、規則とか原則とかいうものはない。
比較のない平等の中に心を一致させるなら、何かをしようという動きがなくなり全てが静かになる。
疑いが全くなくなると、真の心が本来の一体性の中に調う。

解説

動とか止とか対立する二つのものは、自と他という観念と同様、意識が作り上げている。それなら、一という観念でさえ意識(心)が生み出しているのです。
そうすると、全ての観念や現象、規則や法則、素粒子や宇宙、それらは全て意識(心)が生み出したものであり、それに対して自身が意味を与えていることに気づきます。
自と他、動と静、良い悪いなど、対立する全てが意識(心)が生み出したものなら、そこから派生する全ては意識(心)が生み出したものなのです。

意識(心)が全てを作り上げていると思い出す時、観念の中に迷うことが終わり、自分と他という分離もなくなり、本来の一体性の中にただ在ることでしょう。

原文

兩既不成 一何有爾 究竟窮極 不存軌則
契心平等 所作俱息 狐疑淨盡 正信調直

一人で在れ

一人でいて、完全で在る人間であれ。

人は一人で生まれ、一人で死ぬ。
それは生というもの、自と他という分離した現象世界が創造された作品・幻想で在り、それは一つに戻るということだ。
生という分離の現象は、一つで在る存在が無数の自身を体験するため。
また、その全ての無限の体験から生まれる無数の自分は、一人・一つで在ることに戻るため。

生きるというのは、一つが無数の存在を経験をするため。
そして、無数の経験は、一つで在ることを知るため。

自らが光を放つこと、それが一人・一つに戻ること。そして、その光に惹かれて他の人々がまた自ら光を放ち、生が一人・一つで在ることに気づく手助けをする。

無数の体験、それは一つで在ること。

一人で在れ。

信心銘(十三)

スクリーンショット_2015_07_09_16_01

すべてのことが一つのこととして現れてくるならば、動かず落ち着き、状況という客観世界は無くなる。
客観世界のすべてを等しく観ることができるなら、本来の状態に回帰するだろう。
原因や理由というものは消え失せ、比べることもできない。
動を止めるにも動はなく、止を動かすにも止はない。

解説

自と他が本来の一体性と在るとき、自と他の区別はなくなり、そこには自分とか他人とか、自分を取り巻く状況とか、世界と呼ばれるものは消え去ります。
客観世界というのは「自分」というものを作り上げた結果生み出された「自分以外のもの」だからです。「自分」という考えを生み出すことで「自分以外のもの」が生まれます。状況という客観世界も自分というものを生み出した結果なのです。
生み出す自分と生み出された世界が1つのものであるとわかると、その副産物である原因や結果というものがなくなります。自と他の区別がなくなるので、あれとこれなどと比べるものもなくなります。

動というもの静というものは、存在・意識に生み出され映し出されたもの、そのどちらも存在・意識の中に消え去ります。

原文

一如體玄 兀爾忘緣 萬法齊觀 歸復自然
泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

信心銘(十二)

スクリーンショット_2015_07_08_13_24

すべてのことに相対的な観念を立ててあれこれと考えることは夢まぼろしで空想でしかないので、無理に努力して捉える必要もない。
得失や是非などの相対観念をすべて、いっぺんに手放すことだ。
眠っていなければ、すべての夢は自然と消え去っていく。
心が一つであれば、すべてのことは一つとして現れる。

解説

自と他、善と悪、良い悪い、すべての相対的な観念は頭で考え出されたもので、それに対して分析したり解釈したりする必要はないのです。自分とか他人とか、良いとか悪いとか、そのようなことを作っているのは心なのです。自分が作っていた観念を手放せば心が映し出していた観念世界が終わります。
世界という観念が終われば、自と他が消え失せ、自然と本来の一体性が現れるでしょう。

原文

夢幻空華 何勞把捉 得失是非 一時放卻
眼若不眠 諸夢自除 心若不異 萬法一如

信心銘(十一)

文書1

自然の法則には間違いはないのに、愚かなものはそこに自分の好みを持ち込む。
心によって心のことを考えるのは、なんて大きな間違いであろう。
迷っているから安心と不安という状態を生み出し、悟れば好きとか嫌いとかの観念はなくなる。
すべてのことに良いとか悪いとかの相対する観念を立てるのは、まさにあれこれ考えることによるのだ。

 

解説

現象には意味はなく、ただ起こっていることが起こっているだけなのに、それが合っているとか間違っているとか、意味をつけるのは自分なのです。ただ起こっていることについて自分の好悪をつけ、自分の意味をつけて一喜一憂しているのです。
その上、自分で意味付け価値判断をした概念について、さらに悩むことしているのです。
現象はただただ起こっています。起こっていることはもうすでに終わっています。終わっている現象に対しては、何も価値判断する必要はありません。ただそのように起こるのが法則なのです。
自然の法則によって起こる現象に対して、自分が好むと定義した現象では安心し、自分が好まないと定義した現象では不安になるという状態を生み出すのは、全く無駄な心の作用なのです。そこから生まれるのは自分で作り上げた心の条件付けのなかでの喜び苦しみという経験です。現象に対して価値判断することが経験です。
現象はただ起こり、経験は自分の心が造りあげている。
心が全てを作り上げていることを知ることです。

 

原文

法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯
迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌

信心銘(十)

スクリーンショット_2015_07_06_14_30

うまくいかないと精神が疲れてしまうし、どうして良いとか悪いとか価値判断する必要があるのか。
本来の一体性と一つになろうと思うならば、感覚世界を否定してはならない。
感覚世界は否定しなければ、それはかえって正しい悟りなのだ。
本当の知恵があるものは作為がなく自然だが、愚かなものは自分の観念に縛られてしまう。

 

解説

本来の一体性にあるために、感覚世界を否定することはありません。自分の中に浮かび上がる感覚をそのままを見つめ感じていること、ただその感覚が通り過ぎていくのを見つめること、それこそが本来の在り方そのものなのです。
感覚にとらわれずにいることが、自分の中を通り抜けるすべての感覚を体験することになります。自分の中を通り抜ける感覚の一部に捕らわれ、それを掴んで離さないと、狭い感覚の中に埋没することになります。
良いとか悪いとかという価値判断は小さな概念作用が起こしていることです。物事が起こっていることについて誰が良いとか悪いとか判断しているのでしょうか。あなたの小さな自我です。現象自体が自分自身が良いとか悪いとかを言っているでしょうか?あなたが勝手に価値判断していることです。
良いとか悪いとかいうものは本当は存在しません。それは概念であり幻想です。感覚というのははただ変化し流れゆくものです。「自分」という感覚でさえ一つの観念であり幻想なのです。
すべての感覚や思考が変化していると知ると、すべてがあるべきところにあり、起こるべき時に起こり、それゆえにすべては完全であると知るのです。そして、すべてが完全であるというふうに生きるようになるのです。

 

原文

不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵
六塵不惡 還同正覺 智者無為 愚人自縛