私は誰か?(3)

3.
覚醒の本性とは何でしょうか?

覚醒の本性は、存在―意識―至福である。

解説

覚醒というのは、眠りから目を覚ますことだ。
眠りとは、想念の世界にはまり込んで、想念を想像している意識を見失うことだ。
私や世界という想念にはまり込んでいる夢見の状態から目を覚まし、全てが意識が作り上げた幻想だと気づくことだ。
意識が作り上げた想念の世界が真実ではないと知り、意識に、意識が戻る。
それが存在であり、本来の状態である至福、自由、真我だ。

私は誰か?(2)

2.
『もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?今述べたことすべてを「これではない」「これではない」と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒―――それが私である。』

解説

体は私ではない。
感覚も私ではない。
動きや理解することも私ではない。
考えも私ではない。
そして世界という認識でさえ私というものが作っている想念だとすると、いったい私というのは何なのだろうか。
全ての思い、考え、疑問、感情、想念に対して、それを考えているのは一体誰なのだろうか?と問うことが最初だ。
そして、それが次の疑問、「私というのは何か?」、「私は誰か?」という疑問に行き着く。
私は誰か?と真剣に問いただすと、私が私と思っていたものは何もないということに至る。
それが覚醒であり、真我であり、ただ在るということだ。

私は誰か?(1)

1.
『私とは誰でしょうか?
 七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚はそれぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが私はそれらではない。五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが私はそれらではない。五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするがそれは私ではない。ものごとを考える心でさえ、私ではない。対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。

訳注1 七つの要素:栄養液、血液、肉、脂肪、髄、精子
訳注2 五つの生気:パンチャ・プラーナ 身体で働いている五つのプラーナ(気)アパーナ、下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気。ヴィヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。』

解説

私とは何だろう?
いったい私が私と言うとき、それは何を指しているのだろう?
私は誰か?と問い続けると、それが何も指していないことが分かるだろう。
この体が私なのか?
この体は私ではない。この体はほぼ6ヶ月前の体とは別物だ。生まれた時からずっと変わり続けている。
感覚はどうだろうか。
聴覚、触覚、色覚、味覚、嗅覚、これらもただ世界を感じる器官だ。それらも私自身ではない。
能動的なものもそうだ。話し、動き、これらの動作も単なる手段であり私自身ではない。
考えでさえ私自身ではない。考えは絶え間なく変化する想念、ただのエネルギーの動きだ。
本当は、私というものはないのだ。
私というのは幻想なのだ。
私が幻想なら、私が取り囲まれていると思っている世界も幻想なのだ。

私が幻想だと知ること。それが最初で最後だ。

私は誰か?(序)

私は誰か?
Nan Yar

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問いで探求する知識の道が最も重要な方法である。

解説

全ての存在は、その最奥においては愛の源にある。
人は真の自分自身を知らないために、作られた想念の中陥り、世界に翻弄される。
存在の最奥は常にここにある。

最奥を見失ったとき、「それを考えているのは誰か?」、「私は誰か?」と、これらの質問で真剣に探求することが重要だ。

そして、最奥の源は常に共にあることを思い出すだろう。

信心銘(十八・最終回)

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在ることも無いことも同じであるということが分からなければ、それにこだわってはならない。
一つはすべてであり、すべては一つである。
そのようであるならば、完成していないことは気にしなくてよい。
心の本分を信じることが本来の一体性に在ることであり、本来の一体性に在ることは心そのままを信じることなのである。
これは言葉で表現することはできない。過去や未来や現在ということでもない。

解説

在ることも無いことも、結局は意識(心)が生み出したものであるのだか、それが分からなければ、それでいいのです。分からないのを生み出しているのは意識であり、分からなくても、すべては一つなのです。
意識が作り出したあなたがどんな存在であろうと、作り出されたものにこだわらなくてもいいのです。あなたという「自分」は作り出されたものであり、作り出した意識はいつも一体性のなかに在るのです。

今ここで現れている全てのことは、自分がそうしていると気づくこと。それが本来の意識に戻ることになります。本来の一体性にあることなのです。

全ての観念を造り上げているのは何か。あなたという存在を造り上げているのは何か。自他という観念を造り上げているのは何か。すべてはあなた自身を生み出している意識(心)が造り上げているのです。

人は生まれ死ぬという時間と空間を体験しますが、この全ての概念は意識がつく出した自分無くしては存在しません。そしてその自分とは意識(心)が造り出しているのです。

意識(心)は、大宇宙を造り、生命を造り、エネルギーを造り、現れるすべてを造り出しているのです。
あなたが何かを考え感じるとき、それはどんなものであれ、意識(心)が作り出しているのです。あなたという存在でさえ意識(心)が造り出しているのです。

意識(心)が全てを造り出しているのです。

原文

若不如是 必不須守 一即一切 一切即一
但能如是 何慮不畢 信心不二 不二信心
言語道斷 非去來今

信心銘(十七)

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在るとか無いとかいうのはなく、すべてが目の前にある。
極小のものは大きなものと同じで、その境界は忘れられる。
極大のものは小さなものと同じで、その限界は見えない。
有ることは無いことと同じであり、無いことは有ることと同じである。

解説

本来の一体性には、在るとか無いとかの違いはなく、その違いを生み出し認識している意識だけがあるのです。。
意識が時間を作り出し、今を中心に過去と未来を分けるように、存在においても在ると無いと分けているのです。
意識は大小というものも作り出し、自分の視点を中心に小さい大きいを分けているのです。視点は自由に動き視点が以前より小さくなればその周囲は大きくなり、反対に視点以前より広がればその内部はより小さくなります。
すべては意識が生み出していると知ると、有るということは無いということと同じことだとことに戻ります。存在そのものに戻ります。

観念という中心が作り出され、変化する観念はそれを中心として対立する二つのものを作り出しているのです。観念そのものが取り外されると、それは自ずと意識そのものに戻ります。
二つの対立がなくなると自然と対立を生み出す観念もなくなります。
在ることも無いことも、それらを作り出した意識の中に戻っていくのです。

原文

無在不在 十方目前 極小同大 忘絕境界
極大同小 不見邊表 有即是無 無即是有

信心銘(十六)

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自他のない一体の世界を表すなら、ただ二つではないと言うしかないだろう。
二つではないので、すべてが同じで、そこに含まれないものはない。
どこでもこの智慧を見る者は、みなこの根源的真理の中に入る。
この根源的真理の世界に、時間が長いとか短いとかはない。一瞬が永遠だということだ。

解説

自と他の観念のない本来の一体性を言葉で表現することは不可能なのですが、あえて言うと、不二、二つではない、ということになるでしょう。
自と他のあいだに何の分離も区別もないということです。
自と他は同じものであるということも、自と他は意識が作り上げたものであるということも、実はどちらも意識が作り上げたものなのです。

自と他が消え去り、本来の一体性に在ると、過去・現在・未来という時間も観念によって作り上げられたものであると見抜くでしょう。今ここであろうと過去であろうと未来であろうと、変化しているのは時間ではなく、意識の変化なのです。意識は自と他を作り出し、自が観念を作り出し、さらに世界を作り出し、さらに切り取った世界に意味を与え、それらを並べて時間という観念を作り上げているのです。時間というものは実際は意識が作り上げたものなのです。すべては意識が作り上げているのです。

意識が作り上げた自と他が消え去ると、時間も消え去り、ただ今ここの永遠に在ることでしょう。

原文

要急相應 唯言不二 不二皆同 無不包容
十方智者 皆入此宗 宗非促延 一念萬年

信心銘(十五)

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すべてのことは留まることはないので、記憶するべきこともない。
本来のことは意味などなくそれ自体で明らかなのだから、あれこれと考えることもない。
本来の一体性は考えの及ばないところであり、知識や感情では測り難い。
本来の世界、真の世界には、自と他の区別はない。

解説

すべてのことは変化し続けていて固定されたものはありません。
すべてのことが今ここに現れていて、それ自体で明らかなのだから、わざわざ意味をつけたり解釈したりすることはないのです。
本来の一体性の世界を頭で解釈するのは不可能なのです。
自分が世界を観察していると考えているなら、それはただ自分の観念が切り取ったものを世界と呼んでいるに過ぎないのです。さらに、それは世界を表しているのではなく、自分の観念が切り取った部分を世界と呼び、それに対して自分で意味づけをし自分の在り方を表しているだけなのです。自分の観念が作り上げた複雑な観念構造を世界と呼んでいるだけなのです。

本来の世界、真の世界には自と他の区別はありません。
本来の世界=意識が自と他を創り出し、それがいわゆる世界といわれるものを作り上げています。
自分と他の分離世界は意識・存在が創り上げていると分かると、創り上げられた分離の世界から離れ、自と他が一緒になり、自ずと真の世界・存在そのものが姿を見せるのです。

原文

一切不留 無可記憶 虛明自照 不勞心力
非思量處 識情難測 真如法界 無他無自

信心銘(十四)

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動とか止とかの二つの極が成り立たないのだから、どうして一などというものがあるだろうか。
極めて極め尽くせば、規則とか原則とかいうものはない。
比較のない平等の中に心を一致させるなら、何かをしようという動きがなくなり全てが静かになる。
疑いが全くなくなると、真の心が本来の一体性の中に調う。

解説

動とか止とか対立する二つのものは、自と他という観念と同様、意識が作り上げている。それなら、一という観念でさえ意識(心)が生み出しているのです。
そうすると、全ての観念や現象、規則や法則、素粒子や宇宙、それらは全て意識(心)が生み出したものであり、それに対して自身が意味を与えていることに気づきます。
自と他、動と静、良い悪いなど、対立する全てが意識(心)が生み出したものなら、そこから派生する全ては意識(心)が生み出したものなのです。

意識(心)が全てを作り上げていると思い出す時、観念の中に迷うことが終わり、自分と他という分離もなくなり、本来の一体性の中にただ在ることでしょう。

原文

兩既不成 一何有爾 究竟窮極 不存軌則
契心平等 所作俱息 狐疑淨盡 正信調直

一人で在れ

一人でいて、完全で在る人間であれ。

人は一人で生まれ、一人で死ぬ。
それは生というもの、自と他という分離した現象世界が創造された作品・幻想で在り、それは一つに戻るということだ。
生という分離の現象は、一つで在る存在が無数の自身を体験するため。
また、その全ての無限の体験から生まれる無数の自分は、一人・一つで在ることに戻るため。

生きるというのは、一つが無数の存在を経験をするため。
そして、無数の経験は、一つで在ることを知るため。

自らが光を放つこと、それが一人・一つに戻ること。そして、その光に惹かれて他の人々がまた自ら光を放ち、生が一人・一つで在ることに気づく手助けをする。

無数の体験、それは一つで在ること。

一人で在れ。