一人で在れ

一人でいて、完全で在る人間であれ。

人は一人で生まれ、一人で死ぬ。
それは生というもの、自と他という分離した現象世界が創造された作品・幻想で在り、それは一つに戻るということだ。
生という分離の現象は、一つで在る存在が無数の自身を体験するため。
また、その全ての無限の体験から生まれる無数の自分は、一人・一つで在ることに戻るため。

生きるというのは、一つが無数の存在を経験をするため。
そして、無数の経験は、一つで在ることを知るため。

自らが光を放つこと、それが一人・一つに戻ること。そして、その光に惹かれて他の人々がまた自ら光を放ち、生が一人・一つで在ることに気づく手助けをする。

無数の体験、それは一つで在ること。

一人で在れ。

信心銘(十三)

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すべてのことが一つのこととして現れてくるならば、動かず落ち着き、状況という客観世界は無くなる。
客観世界のすべてを等しく観ることができるなら、本来の状態に回帰するだろう。
原因や理由というものは消え失せ、比べることもできない。
動を止めるにも動はなく、止を動かすにも止はない。

解説

自と他が本来の一体性と在るとき、自と他の区別はなくなり、そこには自分とか他人とか、自分を取り巻く状況とか、世界と呼ばれるものは消え去ります。
客観世界というのは「自分」というものを作り上げた結果生み出された「自分以外のもの」だからです。「自分」という考えを生み出すことで「自分以外のもの」が生まれます。状況という客観世界も自分というものを生み出した結果なのです。
生み出す自分と生み出された世界が1つのものであるとわかると、その副産物である原因や結果というものがなくなります。自と他の区別がなくなるので、あれとこれなどと比べるものもなくなります。

動というもの静というものは、存在・意識に生み出され映し出されたもの、そのどちらも存在・意識の中に消え去ります。

原文

一如體玄 兀爾忘緣 萬法齊觀 歸復自然
泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

信心銘(十二)

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すべてのことに相対的な観念を立ててあれこれと考えることは夢まぼろしで空想でしかないので、無理に努力して捉える必要もない。
得失や是非などの相対観念をすべて、いっぺんに手放すことだ。
眠っていなければ、すべての夢は自然と消え去っていく。
心が一つであれば、すべてのことは一つとして現れる。

解説

自と他、善と悪、良い悪い、すべての相対的な観念は頭で考え出されたもので、それに対して分析したり解釈したりする必要はないのです。自分とか他人とか、良いとか悪いとか、そのようなことを作っているのは心なのです。自分が作っていた観念を手放せば心が映し出していた観念世界が終わります。
世界という観念が終われば、自と他が消え失せ、自然と本来の一体性が現れるでしょう。

原文

夢幻空華 何勞把捉 得失是非 一時放卻
眼若不眠 諸夢自除 心若不異 萬法一如

信心銘(十一)

文書1

自然の法則には間違いはないのに、愚かなものはそこに自分の好みを持ち込む。
心によって心のことを考えるのは、なんて大きな間違いであろう。
迷っているから安心と不安という状態を生み出し、悟れば好きとか嫌いとかの観念はなくなる。
すべてのことに良いとか悪いとかの相対する観念を立てるのは、まさにあれこれ考えることによるのだ。

 

解説

現象には意味はなく、ただ起こっていることが起こっているだけなのに、それが合っているとか間違っているとか、意味をつけるのは自分なのです。ただ起こっていることについて自分の好悪をつけ、自分の意味をつけて一喜一憂しているのです。
その上、自分で意味付け価値判断をした概念について、さらに悩むことしているのです。
現象はただただ起こっています。起こっていることはもうすでに終わっています。終わっている現象に対しては、何も価値判断する必要はありません。ただそのように起こるのが法則なのです。
自然の法則によって起こる現象に対して、自分が好むと定義した現象では安心し、自分が好まないと定義した現象では不安になるという状態を生み出すのは、全く無駄な心の作用なのです。そこから生まれるのは自分で作り上げた心の条件付けのなかでの喜び苦しみという経験です。現象に対して価値判断することが経験です。
現象はただ起こり、経験は自分の心が造りあげている。
心が全てを作り上げていることを知ることです。

 

原文

法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯
迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌

信心銘(十)

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うまくいかないと精神が疲れてしまうし、どうして良いとか悪いとか価値判断する必要があるのか。
本来の一体性と一つになろうと思うならば、感覚世界を否定してはならない。
感覚世界は否定しなければ、それはかえって正しい悟りなのだ。
本当の知恵があるものは作為がなく自然だが、愚かなものは自分の観念に縛られてしまう。

 

解説

本来の一体性にあるために、感覚世界を否定することはありません。自分の中に浮かび上がる感覚をそのままを見つめ感じていること、ただその感覚が通り過ぎていくのを見つめること、それこそが本来の在り方そのものなのです。
感覚にとらわれずにいることが、自分の中を通り抜けるすべての感覚を体験することになります。自分の中を通り抜ける感覚の一部に捕らわれ、それを掴んで離さないと、狭い感覚の中に埋没することになります。
良いとか悪いとかという価値判断は小さな概念作用が起こしていることです。物事が起こっていることについて誰が良いとか悪いとか判断しているのでしょうか。あなたの小さな自我です。現象自体が自分自身が良いとか悪いとかを言っているでしょうか?あなたが勝手に価値判断していることです。
良いとか悪いとかいうものは本当は存在しません。それは概念であり幻想です。感覚というのははただ変化し流れゆくものです。「自分」という感覚でさえ一つの観念であり幻想なのです。
すべての感覚や思考が変化していると知ると、すべてがあるべきところにあり、起こるべき時に起こり、それゆえにすべては完全であると知るのです。そして、すべてが完全であるというふうに生きるようになるのです。

 

原文

不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵
六塵不惡 還同正覺 智者無為 愚人自縛

信心銘(九)

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観念によって作り上げられた道というものに執着すれば、度を失い間違った状況の中に入り込む。
道に対する観念を手放すと自然と大いなる道にあり、それは無くなったり現れたりするものではなく、もともとそこに在るものだとわかる。
本来の性質に合わせていれば、そのまま道に合ったものになり、ゆったりとしていれば、一切の悩みは無くなる。
心を乱していると本来のものに背いてしまい、心が暗く沈んでしまうのでうまくいかない。

 

解説

本来の一体性というものを観念だけで捉えて、知的に分析して理解しても、それは本当の道にあるどころかさらなる観念の迷路に迷い込みます。
道にあるには、道に関する観念でさえも手放し、何ものにも捉われないようになることです。とらわれないこと、自由であること、ただ在ること。本来の道はもともとここに在るのです。
自と他というものは観念の働きと同時に生まれます。観念により生まれる自分というものを手放すと、同時に他というものも消え、自然とそこには本来の一体性である道しかなかったと知るのです。
道を観念で理解しようとせず、観念を作り上げた意識を見つめることです。作り上げられたものを見つめることで、それを作っているものの本来の姿が現れるでしょう。

 

原文

執之失度 必入邪路 放之自然 體無去住
任性合道 逍遙絕惱 繫念乖真 昏沉不好

信心銘(八)

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一体性であるありのままの空は、心や現実と同様、森羅万象を含んでいる。
それは、精緻であるとか粗雑であるとか区別をしないので、何かの意見に偏るようなこともない。
大いなる道はゆったりとしたもので、易しいものでもなく難しいものでもない。
小さな見方をすると疑いを持つことになり、焦るとますます遅れることになる。

 

解説

本来の一体性というのは、空なのです。空はその中に自分という存在やそれを取り巻くあらゆる状況、あらゆる世界を含んでいるのです。それがミクロの世界であれマクロな宇宙であれ、それは空から生まれるものなのです。
空は自と他を生み出し、他は自分という概念以外のすべてのものであり、自分を取り巻く世界として現れます。その世界は自分との相対であり、世界というのは世界だけが存在することはなく、自分という概念が世界という他方が存在させるのです。
なので、相対の片方に在る限りは本来の一体性を見失ってしまいます。自分が認識している他である世界が、もともとは自分とのセットで一つのものであると知りことです。それらは空から生まれているのです。
ひとつの概念にこだわると、それを生み出している大本を見失います。良いとか悪いとか、大きいとか小さいとか、正しいとか間違っているとか、生み出されたものにこだわらないことです。それらを生み出しているものも同時に見ることです。
世界を分析したり、解釈したりすると、それを生み出している本当の原因を見失います。現れたものだけに意識を向けるのではなく、それが現れているとしている意識に気づくことです。
意識は何を創造しているのか。

 

原文

一空同兩 齊含萬象 不見精麤 寧有偏黨
大道體寬 無易無難 小見狐疑 轉急轉遲

信心銘(七)

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本来の一体性の中に溶け入り、すべてに問題がなく、すべての存在があるがままであるなら、観念として意識される現実や原理というものなどない。
そのような観念がなければ、心そのものも生じない。
意識される現実がなければ意識する心はなくなり、意識する心がなくなれば現実もなくなる。
現実というのは心に捉えられることで現実であり、心というのも現実を捉えることで心として存在できる。
心とか現実とか両方を知ろうとするなら、それらはもともとは本来の一体性であり、ありのままなのであり、空なのである。

 

解説

自分の思い、感情を注意深く観察するとき、それらは意識するものと意識されるものを分離したものであり、すべて自分で創造したものだと気づきます。意識が心を創造し、心は現実と呼ばれるものを切り取り、現実に意味づけをすると考えや感情と呼ばれるものにまでなってくる。自分の心を徹底的に観察すると、そういったことを知るようになります。
外に現れる現実と中に現れる心は本来はひとつであり、意識の創造が体験というものを引き起こしていると気づくのです。現実というのは自分と分離したものではないのです。真の自分・意識が創造したものなのです。
意識が現実を創造しているのを知ると、自分や現実と思っていたものは、本来一体であり、自分や現実というものはもともとひとつのものであり、空であると知るのです。

原文

無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉
境由能境 能由境能 欲知兩段 元是一空

 

信心銘(六)

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有る無しとか、良し悪しとかの二元的な見方にとどまらず、決して追求しないことだ。
少しでも良いとか悪いとかの観念があれば、心は混乱し本来の一体性を見失ってしまう。
有る無しや良し悪しなど相対するものは絶対たる一に由来するし、その絶対たる一にも囚われてはいけない。
一つの観念もなくなれば、すべての行いや状況には問題がなく、すべての存在があるがままになる。

 

解説

ひとつの物事を判断するとそれがさらに細かい判断に進み、それがまた次の判断と絡み合っていきます。いつの間にか複雑な観念のループに入り込み、そこから抜けられなくなります。
もともと物事を判断すること自体が心の作用なのですから、心の動きを見つめることが最初で最期なのです。自分の心を見つめることだけが本来の一体性に在るスタートでありゴールなのです。
あらゆる観念を作り上げた心に戻ると、すべての二元的な見方が絶対たる一の中に消え、さらにその絶対たる一でさえ心とともに本来の一体性の中に溶け込むでしょう。

あらゆるものは心が作り上げているのです。
自分という存在でさえ心が作り上げた観念であり幻想なのです。ただそれらを作り上げる心だけが在るのです。
心だけが在るとき、全てがあるがままになるでしょう。

原文

二見不住 慎勿追尋 纔有是非 紛然失心
二由一有 一亦莫守 一心不生 萬法無咎

 

信心銘(五)

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本来の一体性に還れば本当のことを得られるだろう。
分別にとらわれると根本的なことを失ってしまうだろう。
分別している自分の心を少しでも観察できたなら、有とか空とかの観念を超えることができるだろう。
有とか空とかの観念がいろいろと変化しているように思えるのは、みだりに見解をつけるからである。
真実を求めようとするのではなく、判断分別の見解を止めなければいけない。

 

解説

心が生み出した世界を真実とみなして追求していっても、さらなる複雑性の中に迷い込むでしょう。
世界は心が生み出した観念であり、あらゆる物事が心が作り出した観念なのです。世界は自分が世界だとは言いません。物事は自分がそれぞれその物事だと主張しません。それらは全て心が生み出しているのです。

この現実と呼ばれているものを追求し分析しても、現実と呼ばれるものが心が作り上げたものだと知らない限り、追求し分析することによりより複雑な世界に入り込み、さらなる分類と定義の世界に迷い込むことでしょう。

現実という自分が認識しているあらゆることは、それらは一体なにがそう認識しているのか、その大元である心を見つめることです。
判断や分別の世界に迷い込まないことです。判断や分別はなにが作り上げているのか、それを知らずに判断や分別を真実とみなすこと自体がおかしなことなのです。
判断や分別を生み出しているのはなにか、そう思っているのはなにか、それを見つめることで本来の一体性が自ずと現れるのです。
一体性の中に、自と他は消え、それら全てを作り上げていた心だけがあるでしょう。

 

原文

歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空
前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見