信心銘(十七)

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在るとか無いとかいうのはなく、すべてが目の前にある。
極小のものは大きなものと同じで、その境界は忘れられる。
極大のものは小さなものと同じで、その限界は見えない。
有ることは無いことと同じであり、無いことは有ることと同じである。

解説

本来の一体性には、在るとか無いとかの違いはなく、その違いを生み出し認識している意識だけがあるのです。。
意識が時間を作り出し、今を中心に過去と未来を分けるように、存在においても在ると無いと分けているのです。
意識は大小というものも作り出し、自分の視点を中心に小さい大きいを分けているのです。視点は自由に動き視点が以前より小さくなればその周囲は大きくなり、反対に視点以前より広がればその内部はより小さくなります。
すべては意識が生み出していると知ると、有るということは無いということと同じことだとことに戻ります。存在そのものに戻ります。

観念という中心が作り出され、変化する観念はそれを中心として対立する二つのものを作り出しているのです。観念そのものが取り外されると、それは自ずと意識そのものに戻ります。
二つの対立がなくなると自然と対立を生み出す観念もなくなります。
在ることも無いことも、それらを作り出した意識の中に戻っていくのです。

原文

無在不在 十方目前 極小同大 忘絕境界
極大同小 不見邊表 有即是無 無即是有

信心銘(十六)

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自他のない一体の世界を表すなら、ただ二つではないと言うしかないだろう。
二つではないので、すべてが同じで、そこに含まれないものはない。
どこでもこの智慧を見る者は、みなこの根源的真理の中に入る。
この根源的真理の世界に、時間が長いとか短いとかはない。一瞬が永遠だということだ。

解説

自と他の観念のない本来の一体性を言葉で表現することは不可能なのですが、あえて言うと、不二、二つではない、ということになるでしょう。
自と他のあいだに何の分離も区別もないということです。
自と他は同じものであるということも、自と他は意識が作り上げたものであるということも、実はどちらも意識が作り上げたものなのです。

自と他が消え去り、本来の一体性に在ると、過去・現在・未来という時間も観念によって作り上げられたものであると見抜くでしょう。今ここであろうと過去であろうと未来であろうと、変化しているのは時間ではなく、意識の変化なのです。意識は自と他を作り出し、自が観念を作り出し、さらに世界を作り出し、さらに切り取った世界に意味を与え、それらを並べて時間という観念を作り上げているのです。時間というものは実際は意識が作り上げたものなのです。すべては意識が作り上げているのです。

意識が作り上げた自と他が消え去ると、時間も消え去り、ただ今ここの永遠に在ることでしょう。

原文

要急相應 唯言不二 不二皆同 無不包容
十方智者 皆入此宗 宗非促延 一念萬年

信心銘(十五)

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すべてのことは留まることはないので、記憶するべきこともない。
本来のことは意味などなくそれ自体で明らかなのだから、あれこれと考えることもない。
本来の一体性は考えの及ばないところであり、知識や感情では測り難い。
本来の世界、真の世界には、自と他の区別はない。

解説

すべてのことは変化し続けていて固定されたものはありません。
すべてのことが今ここに現れていて、それ自体で明らかなのだから、わざわざ意味をつけたり解釈したりすることはないのです。
本来の一体性の世界を頭で解釈するのは不可能なのです。
自分が世界を観察していると考えているなら、それはただ自分の観念が切り取ったものを世界と呼んでいるに過ぎないのです。さらに、それは世界を表しているのではなく、自分の観念が切り取った部分を世界と呼び、それに対して自分で意味づけをし自分の在り方を表しているだけなのです。自分の観念が作り上げた複雑な観念構造を世界と呼んでいるだけなのです。

本来の世界、真の世界には自と他の区別はありません。
本来の世界=意識が自と他を創り出し、それがいわゆる世界といわれるものを作り上げています。
自分と他の分離世界は意識・存在が創り上げていると分かると、創り上げられた分離の世界から離れ、自と他が一緒になり、自ずと真の世界・存在そのものが姿を見せるのです。

原文

一切不留 無可記憶 虛明自照 不勞心力
非思量處 識情難測 真如法界 無他無自

信心銘(十四)

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動とか止とかの二つの極が成り立たないのだから、どうして一などというものがあるだろうか。
極めて極め尽くせば、規則とか原則とかいうものはない。
比較のない平等の中に心を一致させるなら、何かをしようという動きがなくなり全てが静かになる。
疑いが全くなくなると、真の心が本来の一体性の中に調う。

解説

動とか止とか対立する二つのものは、自と他という観念と同様、意識が作り上げている。それなら、一という観念でさえ意識(心)が生み出しているのです。
そうすると、全ての観念や現象、規則や法則、素粒子や宇宙、それらは全て意識(心)が生み出したものであり、それに対して自身が意味を与えていることに気づきます。
自と他、動と静、良い悪いなど、対立する全てが意識(心)が生み出したものなら、そこから派生する全ては意識(心)が生み出したものなのです。

意識(心)が全てを作り上げていると思い出す時、観念の中に迷うことが終わり、自分と他という分離もなくなり、本来の一体性の中にただ在ることでしょう。

原文

兩既不成 一何有爾 究竟窮極 不存軌則
契心平等 所作俱息 狐疑淨盡 正信調直

信心銘(十三)

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すべてのことが一つのこととして現れてくるならば、動かず落ち着き、状況という客観世界は無くなる。
客観世界のすべてを等しく観ることができるなら、本来の状態に回帰するだろう。
原因や理由というものは消え失せ、比べることもできない。
動を止めるにも動はなく、止を動かすにも止はない。

解説

自と他が本来の一体性と在るとき、自と他の区別はなくなり、そこには自分とか他人とか、自分を取り巻く状況とか、世界と呼ばれるものは消え去ります。
客観世界というのは「自分」というものを作り上げた結果生み出された「自分以外のもの」だからです。「自分」という考えを生み出すことで「自分以外のもの」が生まれます。状況という客観世界も自分というものを生み出した結果なのです。
生み出す自分と生み出された世界が1つのものであるとわかると、その副産物である原因や結果というものがなくなります。自と他の区別がなくなるので、あれとこれなどと比べるものもなくなります。

動というもの静というものは、存在・意識に生み出され映し出されたもの、そのどちらも存在・意識の中に消え去ります。

原文

一如體玄 兀爾忘緣 萬法齊觀 歸復自然
泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

信心銘(十一)

文書1

自然の法則には間違いはないのに、愚かなものはそこに自分の好みを持ち込む。
心によって心のことを考えるのは、なんて大きな間違いであろう。
迷っているから安心と不安という状態を生み出し、悟れば好きとか嫌いとかの観念はなくなる。
すべてのことに良いとか悪いとかの相対する観念を立てるのは、まさにあれこれ考えることによるのだ。

 

解説

現象には意味はなく、ただ起こっていることが起こっているだけなのに、それが合っているとか間違っているとか、意味をつけるのは自分なのです。ただ起こっていることについて自分の好悪をつけ、自分の意味をつけて一喜一憂しているのです。
その上、自分で意味付け価値判断をした概念について、さらに悩むことしているのです。
現象はただただ起こっています。起こっていることはもうすでに終わっています。終わっている現象に対しては、何も価値判断する必要はありません。ただそのように起こるのが法則なのです。
自然の法則によって起こる現象に対して、自分が好むと定義した現象では安心し、自分が好まないと定義した現象では不安になるという状態を生み出すのは、全く無駄な心の作用なのです。そこから生まれるのは自分で作り上げた心の条件付けのなかでの喜び苦しみという経験です。現象に対して価値判断することが経験です。
現象はただ起こり、経験は自分の心が造りあげている。
心が全てを作り上げていることを知ることです。

 

原文

法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯
迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌

信心銘(十)

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うまくいかないと精神が疲れてしまうし、どうして良いとか悪いとか価値判断する必要があるのか。
本来の一体性と一つになろうと思うならば、感覚世界を否定してはならない。
感覚世界は否定しなければ、それはかえって正しい悟りなのだ。
本当の知恵があるものは作為がなく自然だが、愚かなものは自分の観念に縛られてしまう。

 

解説

本来の一体性にあるために、感覚世界を否定することはありません。自分の中に浮かび上がる感覚をそのままを見つめ感じていること、ただその感覚が通り過ぎていくのを見つめること、それこそが本来の在り方そのものなのです。
感覚にとらわれずにいることが、自分の中を通り抜けるすべての感覚を体験することになります。自分の中を通り抜ける感覚の一部に捕らわれ、それを掴んで離さないと、狭い感覚の中に埋没することになります。
良いとか悪いとかという価値判断は小さな概念作用が起こしていることです。物事が起こっていることについて誰が良いとか悪いとか判断しているのでしょうか。あなたの小さな自我です。現象自体が自分自身が良いとか悪いとかを言っているでしょうか?あなたが勝手に価値判断していることです。
良いとか悪いとかいうものは本当は存在しません。それは概念であり幻想です。感覚というのははただ変化し流れゆくものです。「自分」という感覚でさえ一つの観念であり幻想なのです。
すべての感覚や思考が変化していると知ると、すべてがあるべきところにあり、起こるべき時に起こり、それゆえにすべては完全であると知るのです。そして、すべてが完全であるというふうに生きるようになるのです。

 

原文

不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵
六塵不惡 還同正覺 智者無為 愚人自縛

信心銘(九)

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観念によって作り上げられた道というものに執着すれば、度を失い間違った状況の中に入り込む。
道に対する観念を手放すと自然と大いなる道にあり、それは無くなったり現れたりするものではなく、もともとそこに在るものだとわかる。
本来の性質に合わせていれば、そのまま道に合ったものになり、ゆったりとしていれば、一切の悩みは無くなる。
心を乱していると本来のものに背いてしまい、心が暗く沈んでしまうのでうまくいかない。

 

解説

本来の一体性というものを観念だけで捉えて、知的に分析して理解しても、それは本当の道にあるどころかさらなる観念の迷路に迷い込みます。
道にあるには、道に関する観念でさえも手放し、何ものにも捉われないようになることです。とらわれないこと、自由であること、ただ在ること。本来の道はもともとここに在るのです。
自と他というものは観念の働きと同時に生まれます。観念により生まれる自分というものを手放すと、同時に他というものも消え、自然とそこには本来の一体性である道しかなかったと知るのです。
道を観念で理解しようとせず、観念を作り上げた意識を見つめることです。作り上げられたものを見つめることで、それを作っているものの本来の姿が現れるでしょう。

 

原文

執之失度 必入邪路 放之自然 體無去住
任性合道 逍遙絕惱 繫念乖真 昏沉不好

信心銘(八)

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一体性であるありのままの空は、心や現実と同様、森羅万象を含んでいる。
それは、精緻であるとか粗雑であるとか区別をしないので、何かの意見に偏るようなこともない。
大いなる道はゆったりとしたもので、易しいものでもなく難しいものでもない。
小さな見方をすると疑いを持つことになり、焦るとますます遅れることになる。

 

解説

本来の一体性というのは、空なのです。空はその中に自分という存在やそれを取り巻くあらゆる状況、あらゆる世界を含んでいるのです。それがミクロの世界であれマクロな宇宙であれ、それは空から生まれるものなのです。
空は自と他を生み出し、他は自分という概念以外のすべてのものであり、自分を取り巻く世界として現れます。その世界は自分との相対であり、世界というのは世界だけが存在することはなく、自分という概念が世界という他方が存在させるのです。
なので、相対の片方に在る限りは本来の一体性を見失ってしまいます。自分が認識している他である世界が、もともとは自分とのセットで一つのものであると知りことです。それらは空から生まれているのです。
ひとつの概念にこだわると、それを生み出している大本を見失います。良いとか悪いとか、大きいとか小さいとか、正しいとか間違っているとか、生み出されたものにこだわらないことです。それらを生み出しているものも同時に見ることです。
世界を分析したり、解釈したりすると、それを生み出している本当の原因を見失います。現れたものだけに意識を向けるのではなく、それが現れているとしている意識に気づくことです。
意識は何を創造しているのか。

 

原文

一空同兩 齊含萬象 不見精麤 寧有偏黨
大道體寬 無易無難 小見狐疑 轉急轉遲

信心銘(七)

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本来の一体性の中に溶け入り、すべてに問題がなく、すべての存在があるがままであるなら、観念として意識される現実や原理というものなどない。
そのような観念がなければ、心そのものも生じない。
意識される現実がなければ意識する心はなくなり、意識する心がなくなれば現実もなくなる。
現実というのは心に捉えられることで現実であり、心というのも現実を捉えることで心として存在できる。
心とか現実とか両方を知ろうとするなら、それらはもともとは本来の一体性であり、ありのままなのであり、空なのである。

 

解説

自分の思い、感情を注意深く観察するとき、それらは意識するものと意識されるものを分離したものであり、すべて自分で創造したものだと気づきます。意識が心を創造し、心は現実と呼ばれるものを切り取り、現実に意味づけをすると考えや感情と呼ばれるものにまでなってくる。自分の心を徹底的に観察すると、そういったことを知るようになります。
外に現れる現実と中に現れる心は本来はひとつであり、意識の創造が体験というものを引き起こしていると気づくのです。現実というのは自分と分離したものではないのです。真の自分・意識が創造したものなのです。
意識が現実を創造しているのを知ると、自分や現実と思っていたものは、本来一体であり、自分や現実というものはもともとひとつのものであり、空であると知るのです。

原文

無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉
境由能境 能由境能 欲知兩段 元是一空