信心銘(十八・最終回)

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在ることも無いことも同じであるということが分からなければ、それにこだわってはならない。
一つはすべてであり、すべては一つである。
そのようであるならば、完成していないことは気にしなくてよい。
心の本分を信じることが本来の一体性に在ることであり、本来の一体性に在ることは心そのままを信じることなのである。
これは言葉で表現することはできない。過去や未来や現在ということでもない。

 

解説

在ることも無いことも、結局は意識(心)が生み出したものであるのだか、それが分からなければ、それでいいのです。そんなことが分からなくても、すべては一つなのです。
あなたがどう解釈しようと、観念にこだわらなくてもいいのです。あなたはいつも一体性のなかに在るのです。
あらゆる観念を造り上げているのは何か。自他という観念を造り上げているのは何か。すべては意識(心)が造り上げている、造り上げている世界とそれを作っている意識(心)はまったく同じものだと知るのです。
空間と時間というもの、あらゆる概念は、すべて意識(心)が造り出しているのです。
意識(心)は、大宇宙を造り、生命を造り、エネルギーを造り、現れるすべてを造り出しているのです。
あなたが何かを意識するとき、それはどんなものであれ、意識(心)が作り出しているのです。あなたという存在でさえ意識(心)が造り出しているのです。
意識(心)が全てを造り出しているのです。

 

原文

若不如是 必不須守 一即一切 一切即一
但能如是 何慮不畢 信心不二 不二信心
言語道斷 非去來今

信心銘(十七)

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在るとか無いとかいうのはなく、すべてが目の前にある。
極小のものは大きなものと同じで、その境界は忘れられる。
極大のものは小さなものと同じで、その限界は見えない。
有ることは無いことと同じであり、無いことは有ることと同じである。

 

解説

本来の一体性には、在るとか無いとかの違いはなく、その違いを生み出し認識している意識(心)だけがあるのです。。
大きさというのも、意識(心)が作っている視点が小さくなればその周囲は大きくなり、反対に視点が広がればその内部はより小さくなります。
有るということを支えているのは無いということであり、また無いということを支えているのも有るということなのです。一つの観念はそれを否定する観念に支えられていて自ずと一つの観念は二つになります。
一つがなくなると自然と対立する観念もなくなります。
在ることも無いことも、それらを作り出した意識(心)の中に戻っていくのです。

 

原文

無在不在 十方目前 極小同大 忘絕境界
極大同小 不見邊表 有即是無 無即是有

信心銘(十六)

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自他のない一体の世界を表すなら、ただ二つではないと言うしかないだろう。
二つではないので、すべてが同じで、そこに含まれないものはない。
どこでもこの智慧を見る者は、みなこの根源的真理の中に入る。
この根源的真理の世界に、時間が長いとか短いとかはない。一瞬が永遠だということだ。

 

解説

自他の観念のない本来の一体性を言葉で表現することは不可能なのですが、あえて言うと、不二、二つではない、ということになるでしょう。
自と他のあいだに何の分離も区別もないということです。
自と他は同じものであるという観念は意識(心)が作り上げ、また、それらが同じものであるという観念でさえも意識(心)が作り上げているのです。

本来の一体性にあると、時間が観念によって作り上げられた幻想であると見抜くでしょう。今ここであろうと過去であろうと未来であろうと、動いているのは時間ではなく、意識が作り上げた様々な観念に意味を与え、それらを並べてさらに意味を与えて時間という観念を作り上げているのです。時間というものは実際は意識が作り上げたものなのです。
すべては意識・心が作り上げているのです。

 

原文

要急相應 唯言不二 不二皆同 無不包容
十方智者 皆入此宗 宗非促延 一念萬年

信心銘(十五)

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すべてのことは留まることはないので、記憶するべきこともない。
本来のことは意味などなくそれ自体で明らかなのだから、あれこれと考えることもない。
本来の一体性は考えの及ばないところであり、知識や感情では測り難い。
本来の世界、真の世界には、自と他の区別はない。

解説

すべてのことは変化し続けていて固定されたものはありません。
すべてのことが今ここに現れていて、それ自体で明らかなのだから、わざわざ意味をつけたり解釈したりすることはないのです。
本来の一体性の世界を頭で解釈するのは不可能なのです。
もし世界を観察しているという人がいるのなら、その人はただ自分の観念が切り取ったものを世界と呼んでいるに過ぎないのです。さらに、それは世界を表しているのではなく、自分が意味づけしているものに対しての自分の在り方を表しているだけなのです。自分の観念が作り上げた複雑な創造物を世界と呼んでいるだけなのです。
本来の世界は自と他の区別がない世界なのです。
自分と世界の分離が意識が作り上げていると気づいたとき、自分と世界の分離がなくなり、存在そのものが姿を見せるのです。

原文

一切不留 無可記憶 虛明自照 不勞心力
非思量處 識情難測 真如法界 無他無自

 

信心銘(十四)

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動とか止とかの二つの極が成り立たないのだから、どうして一などというものがあるだろうか。
極めて極め尽くせば、規則とか原則とかいうものはない。
比較のない平等の中に心を一致させるなら、何かをしようという動きがなくなり全てが静かになる。
疑いが全くなくなると、真の心が本来の一体性の中に調う。

 

解説

動とか止とか対立する二つのものは、自と他という観念と同様、意識が作り上げているのなら、一という観念でさえ意識(心)が生み出しているのです。
そうすると、全ての観念や現象、規則や法則、それらは全て意識(心)が生み出し、それに自身で意味を与えていることに気づきます。
自と他が意識(心)が生み出したものなら、そこから派生する全ては意識(心)が生み出したものなのです。

意識(心)が自分が作り上げたものを自分であると思い出す時、自分で作り上げた観念の中に迷うことが終わり、自分と他という分離もなくなり、本来の一体性の中にただ在ることでしょう。

原文

兩既不成 一何有爾 究竟窮極 不存軌則
契心平等 所作俱息 狐疑淨盡 正信調直

信心銘(十三)

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すべてのことが一つのこととして現れてくるならば、動かず落ち着き、状況という客観世界は無くなる。
客観世界のすべてを等しく観ることができるなら、本来の状態に回帰するだろう。
原因や理由というものは消え失せ、比べることもできない。
動を止めるにも動はなく、止を動かすにも止はない。

 

解説

自と他が本来の一体性と在るとき、自と他が一体となり、そこには自分と他人、自分を取り巻く状況などは無くなります。
客観世界というのは自分というものを作り上げた結果生み出されたものだからです。自分という考えを生み出すことで自分以外のものが生まれます。状況という客観世界も自分というものを生み出した結果なのです。
生み出す自分と世界が1つのものであるとわかると、そこには原因や結果というものがなくなり、あれとこれなどと比べるものもなくなります。
ただ全てが起こっているだけであり、自分が体験していることがあるのではなく、自分と体験の区別がなくなり、自分と体験が1つになります。
すべてはただ在るだけなのです。

 

原文

一如體玄 兀爾忘緣 萬法齊觀 歸復自然
泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 

信心銘(十一)

文書1

宇宙の法則には間違いはないのに、愚かなものはそこに自分の好みを持ち込む。
心によって心のことを考えるのは、なんて大きな間違いであろう。
迷っているから安心と不安という状態を生み出し、悟れば好きとか嫌いとかの観念はなくなる。
すべてのことに良いとか悪いとかの相対する観念を立てるのは、まさにあれこれ考えることによるのだ。

 

解説

現象には意味はなく、ただ起こっていることが起こっているだけなのに、そこに意味をつけるのは自分なのです。起こっていることの一部だけを切り取り自ら意味をつけて一喜一憂しているのです。
その上、そのような価値判断をしている心というのは何か、ということを心で考え尽くそうとしているのです。
心がそのような分析判断の中に迷い込むと、自分が好むと定義した状況では安心し、自分が好まないと定義した状況では不安になるという状態を生み出すのです。そして自分で作り上げた心の条件付けのなかで喜んだり苦しんだりするのです。
すべては自分の心が造りあげているのです。

 

原文

法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯
迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌