信心銘(七)

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本来の一体性の中に溶け入り、すべてに問題がなく、すべての存在があるがままであるなら、観念として意識される現実や原理というものなどない。
そのような観念がなければ、心そのものも生じない。
意識される現実がなければ意識する心はなくなり、意識する心がなくなれば現実もなくなる。
現実というのは心に捉えられることで現実であり、心というのも現実を捉えることで心として存在できる。
心とか現実とか両方を知ろうとするなら、それらはもともとは本来の一体性であり、ありのままなのであり、空なのである。

 

解説

自分の思い、感情を注意深く観察するとき、それらは意識するものと意識されるものを分離したものであり、すべて自分で創造したものだと気づきます。意識が心を創造し、心は現実と呼ばれるものを切り取り、現実に意味づけをすると考えや感情と呼ばれるものにまでなってくる。自分の心を徹底的に観察すると、そういったことを知るようになります。
外に現れる現実と中に現れる心は本来はひとつであり、意識の創造が体験というものを引き起こしていると気づくのです。現実というのは自分と分離したものではないのです。真の自分・意識が創造したものなのです。
意識が現実を創造しているのを知ると、自分や現実と思っていたものは、本来一体であり、自分や現実というものはもともとひとつのものであり、空であると知るのです。

原文

無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉
境由能境 能由境能 欲知兩段 元是一空

 

信心銘(六)

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有る無しとか、良し悪しとかの二元的な見方にとどまらず、決して追求しないことだ。
少しでも良いとか悪いとかの観念があれば、心は混乱し本来の一体性を見失ってしまう。
有る無しや良し悪しなど相対するものは絶対たる一に由来するし、その絶対たる一にも囚われてはいけない。
一つの観念もなくなれば、すべての行いや状況には問題がなく、すべての存在があるがままになる。

 

解説

ひとつの物事を判断するとそれがさらに細かい判断に進み、それがまた次の判断と絡み合っていきます。いつの間にか複雑な観念のループに入り込み、そこから抜けられなくなります。
もともと物事を判断すること自体が心の作用なのですから、心の動きを見つめることが最初で最期なのです。自分の心を見つめることだけが本来の一体性に在るスタートでありゴールなのです。
あらゆる観念を作り上げた心に戻ると、すべての二元的な見方が絶対たる一の中に消え、さらにその絶対たる一でさえ心とともに本来の一体性の中に溶け込むでしょう。

あらゆるものは心が作り上げているのです。
自分という存在でさえ心が作り上げた観念であり幻想なのです。ただそれらを作り上げる心だけが在るのです。
心だけが在るとき、全てがあるがままになるでしょう。

原文

二見不住 慎勿追尋 纔有是非 紛然失心
二由一有 一亦莫守 一心不生 萬法無咎

 

信心銘(五)

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本来の一体性に還れば本当のことを得られるだろう。
分別にとらわれると根本的なことを失ってしまうだろう。
分別している自分の心を少しでも観察できたなら、有とか空とかの観念を超えることができるだろう。
有とか空とかの観念がいろいろと変化しているように思えるのは、みだりに見解をつけるからである。
真実を求めようとするのではなく、判断分別の見解を止めなければいけない。

 

解説

心が生み出した世界を真実とみなして追求していっても、さらなる複雑性の中に迷い込むでしょう。
世界は心が生み出した観念であり、あらゆる物事が心が作り出した観念なのです。世界は自分が世界だとは言いません。物事は自分がそれぞれその物事だと主張しません。それらは全て心が生み出しているのです。

この現実と呼ばれているものを追求し分析しても、現実と呼ばれるものが心が作り上げたものだと知らない限り、追求し分析することによりより複雑な世界に入り込み、さらなる分類と定義の世界に迷い込むことでしょう。

現実という自分が認識しているあらゆることは、それらは一体なにがそう認識しているのか、その大元である心を見つめることです。
判断や分別の世界に迷い込まないことです。判断や分別はなにが作り上げているのか、それを知らずに判断や分別を真実とみなすこと自体がおかしなことなのです。
判断や分別を生み出しているのはなにか、そう思っているのはなにか、それを見つめることで本来の一体性が自ずと現れるのです。
一体性の中に、自と他は消え、それら全てを作り上げていた心だけがあるでしょう。

 

原文

歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空
前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見

信心銘(四)

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本来の一体性に通じていなければ、有とか空とかいう観念の中に本当のことを見失ってしまう。
有を捨てようとすれば有に埋没してしまうし、空にしたがおうとすれば空に背いてしまう。
言葉で語り尽くそうとしても頭で考えつくそうとしても、本当のことを示すことはできない。
しかし、言葉や考えから離れれば本当のことに通じないということはないのだ。

 

解説

真の自己を知らなければ、つまり、世界が自分の心が作り上げられた観念だと知らなければ、その作られた世界の複雑性の中に迷うことになるでしょう。
複雑な世界の中で、何が良いのか何が悪いのかという判断の中に迷い込み、さらには起こっている物事が自分に降りかかってきたと思うでしょう。
また、複雑性に耐えられなくなり、複雑な概念・考えを捨てようとすると、すべての物事には意味がないとして、生きることに関しても虚無感を覚えることになります。
意味や判断、言葉や考えというのは、心の動きであり創造されては消滅するものであり、それを生み出す源泉ではないのです。
本来の自分というのは、心や観念を生み出す源泉なのです。
判断や意味付けをやめ、静かに心の動きが一体何が生み出しているのかを見つめることで、心の源泉であり全体性である真の自己・存在を知ることができるのです。
産み出された概念・世界は一体誰が産み出しているのか、産み出しているものは何か、を常に見つめることです。
私という存在を何が産み出しているのか。

 

原文

一種不通 兩處失功 遣有沒有 從空背空
多言多慮 轉不相應 絕言絕慮 無處不通

信心銘(三)

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考えや感覚の世界である有を追ってはいけない。無為の世界の空の中に陥ってもいけない。
一体性の中に穏やかにあれば、すべての問題は自ら消滅していくだろう。
心の動きを止めて静かにしようとすると、その静かにしようとする働きがさらに心を動かす。
有と空、動と静というようなどちらかの極端にいるかぎり、決して本来の一体性を知ることはできない。

解説

心が作り上げた概念の世界や感覚の世界をいくら追求しても、そこに真実はありません。概念や感覚の世界は自分が作り上げていることを忘れてしまっていると、それを追求することで、さらに複雑性の中に迷い込むだけです。
どんな概念であろうと、どんな感覚であろうと、それらは私とその他という分離です。分離は取捨選択です。どちらかが良くてどちらかが悪いという肯定否定は、調和と全体性から離れます。
全てのことが重要であるという考えも、すべてのことが意味がないという考えも、どちらも自分の心が作り上げたもので、いずれも複雑さや虚無感の中に生きることになります。それはどちらも心が作り上げた幻想なのです。

本来の一体性にあるには、心が作り上げたものから離れなくてはなりません。そこから離れたときには、自ら作り上げた複雑さや虚無感は消え去り、すべての問題は自ずと消滅していくでしょう。
あれかこれか、どちらが良くてどちらが悪いか、どちらか一方を選ぶ限り、本来の一体性に 在ることはできないのです。
あれもこれも、良いも悪いも、どちらも手放した時、本来の一体性・「道」に在ることでしょう。

原文

莫逐有緣 勿住空忍 一種平懷 泯然自盡
止動歸止 止更彌動 唯滯兩邊 寧知一種

信心銘(二)

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これは違うとかそれは合っているとかを争うのは、
それこそは心の病である。
本来の道理を知らなければ、
いくら心を静かにしようとも無駄である。

本来の道理とは虚空のように完全であり、
欠けるところも余るところもない。
まさに良いとか悪いとかの取捨選択のために、
本来の道理から外れてしまうのだ。

解説

これが正しいこれが間違っていると言っているのは、自分の心が作り上げている病です。心は現実を分割し、一方を肯定し他方を否定します。それは全体としてのあるがままの現実ではないのです。あるがままの現実を見ないまま、心が作り上げた世界に生きると心が病んできます。
起こる状況に不平不満をいい、物事をコントロールしようとすれがするほど心は現実を分割し、心は分離の中で喜んだり苦しんだりを繰り返します。
本来の現実をありのままに受け取ることをすると世界の完全性が分かりますが、少しでも心の作り上げた世界にとらわれると、その幻想がさらなる幻想を生み出し、心は自分が生み出した幻想の中で迷うことになるのです。
言ってみれば、取捨選択のない世界・虚空が完全な道理であり、その虚空から生まれ出ては消えゆくものにとらわれないことなのです。

良いとか悪いとか、どちらが良いかどちらが悪いか、そう思った瞬間に心が世界を分割して、本来の道理から外れてしまうのです。全てであること、調和にあることから離れてしまうのです。

 

原文

違順相爭 是為心病 不識玄旨 徒勞念靜
圓同太虛 無欠無餘 良由取捨 所以不如

信心銘(一)

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『道』に至るのはむずかしいことではない。
ただ分別や選り好みをしないことだ。
ただ憎むとか愛するとかの想いがなければ、
すべてが自然と明瞭になるだろう。

ほんのわずかな分別や僧愛の想いがあれば、
『道』からは天と地のように遠く隔たってしまう。
ありのままの世界を現すためには、
良いとか悪いとかの分別を離れなければならない。

解説

『道』にあることは、本来は簡単なことなのです。
ただ心が作り出した良い悪いなどの判断、意味付けをなくせばよいのです。
ある物事や状態に対して、良いと判断しているのは自分の心、悪いと判断しているのは自分の心、そこにある意味があるとしているのは自分の心なのです。
物事や状況はそれ自身を意味づけしていません。意味付けしているのは自分の心なのです。
意味づけや判断をしている心は、全体と分離しています。全体ではありえないのです。心・判断は、自分と自分を取り巻く世界を分離しているのです。心・判断は自身を一体性・調和から分離しているのです。
心による分別、判断をやめると、そこに一体性・調和が現れるのです。

原文

至道無難 唯嫌揀擇 但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆