スッタニパータ53

53.
肩がしっかりと発育し、皮膚に蓮華紋が現れ巨大に成長した象は、群から離れて思うがままに森の中を歩いていく。そのように、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分と世界が違うものと思っていると、その思いから常に、他人と自分を分離させ、自と他の分離という幻想の中で、世界を分析し考え論じ続け幻想の中に迷い込むでしょう。真実は自も他もありません。
自と他の分離の幻想を離れると、そこには存在しかありません。自分も他人も世界もただ一つのものとして在るだけなのです。
分析は分離という幻想です。理解は分離という幻想です。知や無知は分離という幻想です。善悪は分離という幻想です。自分と他人は分離という幻想です。
ただ「在る」こと。それは全てであることです。

スッタニパータ52

52.
寒さや暑さにさらされても、飢えや渇きがあっても、風に吹かれ太陽に照つけられても、アブに刺され蛇に這われても、これらすべてのものにうち勝って、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

普段の生活において外的環境が身体に与える感覚がどんなものであっても、それに対して意味をつけているのは自分です。暑さや寒さ、飢えや渇き、快不快といった意味をつけているものは、生物としての身体を維持していく生命装置としての機能なのです。
人がそういった外的環境における身体的反応に対しての意味づけをしていると、まるで世界が自分とは別に存在していて、その中で自分が翻弄されていると思い込んでしまいます。
身体反応に意味づけをしているは自分です。そこに快不快という意味は自分でつけています。全て起こっていることに意味をつけているのは自分の心です。心は自分の体に起こっていることの意味、世界に起こっていることの意味、その全てを造り上げています。
身体反応を静かに見つめ、世界を静かに見つめると、そこにはただ自分の心・意識だけが在ることを知るでしょう。ただ意識だけが在るでしょう。そして、全てが自分=意識だと知るでしょう。

スッタニパータ51

51.
これらは災害であり、腫れ物であり、禍であり、病であり、毒矢であり、恐怖である。諸々の欲望の快楽にはこのような恐ろしさがあることを見て、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分と世界の分離という幻想からくる欲望、それが行き着くところは、不平、不満、戦い、奪い合い、不安、恐怖、被害者意識、不足感、羨望、不健康、病気、という自分が不完全な世界に囲まれている、という思いです。
欲望は自分で作り出した不完全さを満たそうとする意志です。それはより複雑な分離、つまり、より複雑な不安や恐怖を作り出すだけです。
誰がそれを思い、創り出しているのか、その原点に戻ることです。
世界・現象と呼んでいる物事について、誰がそう考えているのか、しっかりと見つめることです。ただただ見つめてください。
全ては「意識」が創り上げて、全ては「意識」が経験している、と知ることでしょう。自分や世界というものが消え「心・意識」だけが残るのを知るでしょう。

スッタニパータ50

50.
欲望は実に多種多様であり、甘美であり、心に楽しく、多様なかたちで心を乱す。欲望の快楽にはこの不幸の種があることを見て、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

欲望というのはいろいろな形で現れます。
欲望、つまりそれは、足りないから欲しいという感覚。自分には何かが不足しているだからそれが必要である、という感覚は、自身が世界と分離しているという思い(幻想)から起こります。
このような欲望を満たそうとする行為は、対症療法でしかありません。満たしても依然として自分の中の不足感というのは残ります。常にそれを満たそうとするでしょう。そしてそれは、さらなる刺激を求めることにつながるだけです。自分の中の不足感はそのままです。
自分には必要なものは今ここに全てある、と知ること。今ここの自分が完全な存在であると知ること。あらゆることが体験として流れていると知るとこ。そしてその体験は自分が創りあげていると知ること。
世界は自分の意識が創りあげています。それを知ると、世界が、全てが自分であったと悟ることでしょう。自分と世界が別々にあるということではなく、物事・世界は自分の様々な現れ方だ、と。

スッタニパータ49

49.
このように他人と一緒にいるならば、私は饒舌といさかいを起すことになるであろう。未来にこのような恐れのあることを熟慮して、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分以外の他人と関わること自体が、必ず自と他という見方、分離の味方に陥ります。自分は自分であり他人とは違う存在である、という思いを持つことになります。そのために自分の価値観と他人と価値観との対立が起こり、その価値観の戦いに巻き込まれます。
実際には世界は価値観では成り立っていません。自他を含んだ一なる生命があるだけです。その真実を思い出すためには、価値観の戦いの元である他人を意識せず、自分の内面を見つめその本質に気づくことです。自分の心・意識が全てを作り上げていたと気づくことなのです。意識は自分という小さな殻にも閉じこもることができ、宇宙という壮大な存在になることもできると知ることなのです。
全ては「意識」が作り上げていると気づくのです。

スッタニパータ48

48.
金細工職人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪が、一つの腕にはめられぶつかり合うのを見て、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分と自分以外の物事を比較したり、自分の考えと他人の考えを比較したりして、物事の本質を知ることはできません。自分の考えは自分が造り上げているし、他人の考えを推し量ることでさえ自分が造り上げています。
自分と自分以外の物事を比較する必要は全くありません。自分の心だけを見つめて、誰がそれを造り上げているのか、だけを見つめることです。
誰が、何が、それを突き詰めることで、対象が消え、突き詰めている存在だけが在ると知るでしょう。
自分が認識している世界が自分自身である、と知るでしょう。

スッタニパータ47

47.
実に仲間を得る幸運を讃め称えよう。それがより優れた仲間あるいは同等である仲間なら、親しみ近づくべきである。このような仲間を得ることができなければ、罪過のない生活を守って、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

世界が自身の鏡であるということを知っている仲間とともに進めるようなら、それを大切にし、その道を進むことです。
しかし、心が作り出す価値観は人それぞれが作り上げるものなので、自分と同じような心の状態の人を見つけることは困難です。
例えば木を見るとき、その根幹は同じですが末端を見ると無数の葉が存在するように、人の在り方も真理から遠いほど多くの価値観・観念が存在します。
自分が世界と他人と様々な価値観で分離していると思っているなら、あなたは真理から遠くに在ります。自分が世界と他人と同じであると思っているなら、あなたは真理に近いところに在ります。
世界や他人との差異を見ることは、真理から遠ざかることにしかなりません。自分の心が造り上げた幻想ゲームの中に潜り込むことでしかありません。自分が造り上げたゲームに苦しむことになるだけです。
心が造り上げた幻想ゲームから離れ、ただ一人在ること。
末端に行けば行くほど孤独という幻想を作り上げていると知ること。
根本に戻れば自身が全てと繋がっていると知ること。
自分一人で在ることが、世界が、宇宙が一つであると知ることなのです。

スッタニパータ46

46.
もしあなたが、賢明で道を同じくし高潔で明敏な仲間を得ないならば、あたかも王が征服した国を放棄するように、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分の周囲に自分を導いてくれる人がいない時でも、頼るものがないと思わないことです。どんな時でも、全ては自分の心が造り上げていると知ることです。あらゆる物事に対して、それについて誰がそう思っているのかを知ることです。
一切は自分が思っていると知ると、その全ては自分が造り上げたものであることを知り、そこに意味を置く必要も無くなります。自分の意味づけを全て捨て去った時、自分が全てと一体であると知り、その上を全ての経験が通り過ぎるでしょう。自分自身を手放し執着することをやめた時、全ての体験がそこを通り過ぎることでしょう。
そして、全ては自分だと知ると、自分自身が存在の一体性の中に在ることでしょう。

スッタニパータ45

45.
もしあなたが、賢明で道を同じくし高潔で明敏な仲間を得るなら、あらゆる危機を乗り越えて、心喜び今ここの意識を深く、彼と共に歩みなさい。

解説

尊敬できる人がいるなら、その心を大切にすることです。
人を尊敬するということは自身の魂の成長を促し、一体性を加速させます。人に対するレッテル貼り、批評、判断などは自身の魂を傷つけ、世界との分離を加速させます。
人や物事、自然や世界を崇敬する感情は、自分と世界が一つであることを知る道なのです。崇敬する対象がある時、真理の道を歩んでいます。
世界の現れ、見え方は、あなた自身を表しているだけです。
他人を批判したり物事の優劣を判断したりしている時は、自分が真実から離れている状態だと知ることです。それがどんなに正確な判断に思われようとも、その思いは自分が世界と分離していると思い込んでいる状態を表しているだけです。
あらゆることが自身の鏡であると知り、他人や世界に対して崇敬の念を抱くことが、自身と世界が一体であるという真理を思い出す方法の一つなのです。

スッタニパータ44

44.
葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て、在家の束縛を断ち切り、健き人は、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分を取り巻く世界、ものごと、意味、という限定されたものにとらわれることをやめることです。世界、ものごと、意味、それらがあるということ自体がすべて、心が限定され、限定されたものにとらわれているということなのです。
世界や物事に対する意味づけをやめると、自分と世界がただ一つのものであることを知るでしょう。
心が何かを掴もうとするのをやめた時、すべてが通り過ぎ、心はすべてを経験し、すべてと一緒になることでしょう。