信心銘(十一)

文書1

宇宙の法則には間違いはないのに、愚かなものはそこに自分の好みを持ち込む。
心によって心のことを考えるのは、なんて大きな間違いであろう。
迷っているから安心と不安という状態を生み出し、悟れば好きとか嫌いとかの観念はなくなる。
すべてのことに良いとか悪いとかの相対する観念を立てるのは、まさにあれこれ考えることによるのだ。

 

解説

現象には意味はなく、ただ起こっていることが起こっているだけなのに、そこに意味をつけるのは自分なのです。起こっていることの一部だけを切り取り自ら意味をつけて一喜一憂しているのです。
その上、そのような価値判断をしている心というのは何か、ということを心で考え尽くそうとしているのです。
心がそのような分析判断の中に迷い込むと、自分が好むと定義した状況では安心し、自分が好まないと定義した状況では不安になるという状態を生み出すのです。そして自分で作り上げた心の条件付けのなかで喜んだり苦しんだりするのです。
すべては自分の心が造りあげているのです。

 

原文

法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯
迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌

信心銘(十)

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うまくいかないと精神が疲れてしまうし、どうして良いとか悪いとか価値判断する必要があるのか。
本来の一体性と一つになろうと思うならば、感覚世界を否定してはならない。
感覚世界は否定しなければ、それはかえって正しい悟りなのだ。
本当の知恵があるものは作為がなく自然だが、愚かなものは自分の観念に縛られてしまう。

 

解説

本来の一体性にあるために、感覚世界を否定することはありません。自分の中に浮かび上がる感覚をそのままを見つめ感じていること、ただその感覚が通り過ぎていくのを見つめること、それこそが本来の在り方そのものなのです。
感覚にとらわれずにいることが、自分の中を通り抜けるすべての感覚を体験することになります。自分の中を通り抜ける感覚の一部だけを掴んで離さないと、それ以外の感覚は体験できません。あらゆる感覚や思考は観念であり、ただ変化し流れゆくものです。「自分」というものでさえ一つの観念なのです。それは変化し続けています。
すべての感覚や思考が変化であると知ると、すべてがあるべきところにあり、起こるべき時に起こり、それゆえにすべては完全であると知るのです。そして、すべてが完全であるというふうに生きるようになるのです。

 

原文

不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵
六塵不惡 還同正覺 智者無為 愚人自縛

信心銘(九)

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観念によって作り上げられた道というものに執着すれば、度を失い間違った状況の中に入り込む。
道に対する観念を手放すと自然と大いなる道にあり、それは無くなったり現れたりするものではなく、もともとそこに在るものだとわかる。
本来の性質に合わせていれば、そのまま道に合ったものになり、ゆったりとしていれば、一切の悩みは無くなる。
心を乱していると本来のものに背いてしまい、心が暗く沈んでしまうのでうまくいかない。

 

解説

本来の一体性というものを観念だけで捉えて、知的に分析して理解してもそれは本当の道ではありません。
大いなる道に対する観念でさえも手放し、何ものにも捉われないようになると、自然とそこに在るのがわかるのです。
自と他は同時に生まれるので、自分というものを手放すと他というものも消え、自然とそこには本来の一体性である道しかなかったと知るのです。

観念で道を理解したと思っていても、そこには不安定な心や孤独感があるだけです。自分がわかっていて他人はわかっていない。その考えは分離でしかありません。
一体性にあるためには、まず自分が正しいと思っていることを手放すことなのです。

 

原文

執之失度 必入邪路 放之自然 體無去住
任性合道 逍遙絕惱 繫念乖真 昏沉不好

信心銘(八)

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一体性であるありのままの空は、心や現実と同様、森羅万象を含んでいる。
それは、精緻であるとか粗雑であるとか区別をしないので、何かの意見に偏るようなこともない。
大いなる道はゆったりとしたもので、易しいものでもなく難しいものでもない。
小さな見方をすると疑いを持つことになり、焦るとますます遅れることになる。

 

解説

本来の一体性というのは自分という存在やそれを取り巻くあらゆる状況と別物ではなく、あらゆる世界を含んでいるのです。それがミクロの世界であれマクロな宇宙であれ、自分という存在があることで生まれるものなのです。
すべての世界は自分との相対であり、片方だけが存在することはなく、一方が存在すれば他方が存在するのです。
相対の片方に在る限りは本来の一体性を見失ってしまいます。自分が認識している他である世界が、もともとは自分とのセットで一つのものであると知るとき、本来の一体性の道に在ることができるのです。
空から自と他が生まれ体験を生み出すのです。

 

原文

一空同兩 齊含萬象 不見精麤 寧有偏黨
大道體寬 無易無難 小見狐疑 轉急轉遲

信心銘(七)

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本来の一体性の中に溶け入り、すべてに問題がなく、すべての存在があるがままであるなら、観念として意識される現実や原理というものなどない。
そのような観念がなければ、心そのものも生じない。
意識される現実がなければ意識する心はなくなり、意識する心がなくなれば現実もなくなる。
現実というのは心に捉えられることで現実であり、心というのも現実を捉えることで心として存在できる。
心とか現実とか両方を知ろうとするなら、それらはもともとは本来の一体性であり、ありのままなのであり、空なのである。

 

解説

自分の体験、思い、感情を注意深く観察するとき、それらはすべて自分で作り上げてきたと気づきます。心が動くと現実と呼ばれるものが創造される、意味づけをするとある現実が切り取られ浮かび上がってくる、意味づけが固定化されると感情と呼ばれるものにまでなってくる、そういったことを知るようになります。
外に現れる現実と中に現れる心は本来は一体であり、一体性であることが体験というものを引き起こす理由であると気づくのです。現実というのは自分と分離したものではないのです。
自分で体験を引き起こしているのを知ると、体験が意識的になり、自分が現実を体験しているのではなく、自分は現実と一体である体験そのものであると気づくのです。

 

原文

無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉
境由能境 能由境能 欲知兩段 元是一空

 

信心銘(六)

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有る無しとか、良し悪しとかの二元的な見方にとどまらず、決して追求しないことだ。
少しでも良いとか悪いとかの観念があれば、心は混乱し本来の一体性を見失ってしまう。
有る無しや良し悪しなど相対するものは絶対たる一に由来するし、その絶対たる一にも囚われてはいけない。
一つの観念もなくなれば、すべての行いや状況には問題がなく、すべての存在があるがままになる。

 

解説

ひとつの物事を判断するとそれがさらに細かい判断に進み、それがまた次の判断と絡み合っていきます。いつの間にか複雑な観念のループに入り込み、そこから抜けられなくなります。
もともと物事を判断すること自体が心の作用なのですから、心の動きを見つめることが最初で最期なのです。自分の心を見つめることが物事を追求するスタートでありゴールなのです。
あらゆる観念を作り上げた心を見つめた途端、すべての二元的な見方が絶対たる一の中に消え、さらにその絶対たる一でさえ心とともに本来の一体性の中に溶け込むでしょう。

あらゆるものは自分の心が作り上げていた。
自と他を作っていたのも心であった。
そして、その心でさえ本当の自分ではなかった、と。

 

原文

二見不住 慎勿追尋 纔有是非 紛然失心
二由一有 一亦莫守 一心不生 萬法無咎

 

信心銘(五)

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本来の一体性に還れば本当のことを得られるだろう。
分別にとらわれると根本的なことを失ってしまうだろう。
分別している自分の心を少しでも観察できたなら、有とか空とかの観念を超えることができるだろう。
有とか空とかの観念がいろいろと変化しているように思えるのは、みだりに見解をつけるからである。
真実を求めようとするのではなく、判断分別の見解を止めなければいけない。

 

解説

心が生み出した現実を、真実とみなして追求していってもどこにも行き着きません。
この現実と呼ばれているものは一体何が作り出したのか、その作り出した大元である心を見つめることです。
判断や分別はその時々で変化しているのに、それを真実とみなすこと自体がおかしなことなのです。
判断や分別を生み出しているのはなにか、そう思っているのはなにか、それを見つめることで本来の一体性が自ずと現れるのです。

 

原文

歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空
前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見