スッタニパータ48

48.
金細工職人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪が、一つの腕にはめられぶつかり合うのを見て、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分と自分以外の物事を比較したり、自分の考えと他人の考えを比較したりして、物事の本質を知ることはできません。自分の考えは自分が造り上げているし、他人の考えを推し量ることでさえ自分が造り上げています。
自分と自分以外の物事を比較する必要は全くありません。自分の心だけを見つめて、誰がそれを造り上げているのか、だけを見つめることです。
誰が、何が、それを突き詰めることで、対象が消え、突き詰めている存在だけが在ると知るでしょう。
自分が認識している世界が自分自身である、と知るでしょう。

スッタニパータ47

47.
実に仲間を得る幸運を讃め称えよう。それがより優れた仲間あるいは同等である仲間なら、親しみ近づくべきである。このような仲間を得ることができなければ、罪過のない生活を守って、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

世界が自身の鏡であるということを知っている仲間とともに進めるようなら、それを大切にし、その道を進むことです。
しかし、心が作り出す価値観は人それぞれが作り上げるものなので、自分と同じような心の状態の人を見つけることは困難です。
例えば木を見るとき、その根幹は同じですが末端を見ると無数の葉が存在するように、人の在り方も真理から遠いほど多くの価値観・観念が存在します。
自分が世界と他人と様々な価値観で分離していると思っているなら、あなたは真理から遠くに在ります。自分が世界と他人と同じであると思っているなら、あなたは真理に近いところに在ります。
世界や他人との差異を見ることは、真理から遠ざかることにしかなりません。自分の心が造り上げた幻想ゲームの中に潜り込むことでしかありません。自分が造り上げたゲームに苦しむことになるだけです。
心が造り上げた幻想ゲームから離れ、ただ一人在ること。
末端に行けば行くほど孤独という幻想を作り上げていると知ること。
根本に戻れば自身が全てと繋がっていると知ること。
自分一人で在ることが、世界が、宇宙が一つであると知ることなのです。

スッタニパータ46

46.
もしあなたが、賢明で道を同じくし高潔で明敏な仲間を得ないならば、あたかも王が征服した国を放棄するように、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分の周囲に自分を導いてくれる人がいない時でも、頼るものがないと思わないことです。どんな時でも、全ては自分の心が造り上げていると知ることです。あらゆる物事に対して、それについて誰がそう思っているのかを知ることです。
一切は自分が思っていると知ると、その全ては自分が造り上げたものであることを知り、そこに意味を置く必要も無くなります。自分の意味づけを全て捨て去った時、自分が全てと一体であると知り、その上を全ての経験が通り過ぎるでしょう。自分自身を手放し執着することをやめた時、全ての体験がそこを通り過ぎることでしょう。
そして、全ては自分だと知ると、自分自身が存在の一体性の中に在ることでしょう。

スッタニパータ45

45.
もしあなたが、賢明で道を同じくし高潔で明敏な仲間を得るなら、あらゆる危機を乗り越えて、心喜び今ここの意識を深く、彼と共に歩みなさい。

解説

尊敬できる人がいるなら、その心を大切にすることです。
人を尊敬するということは自身の魂の成長を促し、一体性を加速させます。人に対するレッテル貼り、批評、判断などは自身の魂を傷つけ、世界との分離を加速させます。
人や物事、自然や世界を崇敬する感情は、自分と世界が一つであることを知る道なのです。崇敬する対象がある時、真理の道を歩んでいます。
世界の現れ、見え方は、あなた自身を表しているだけです。
他人を批判したり物事の優劣を判断したりしている時は、自分が真実から離れている状態だと知ることです。それがどんなに正確な判断に思われようとも、その思いは自分が世界と分離していると思い込んでいる状態を表しているだけです。
あらゆることが自身の鏡であると知り、他人や世界に対して崇敬の念を抱くことが、自身と世界が一体であるという真理を思い出す方法の一つなのです。

スッタニパータ44

44.
葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て、在家の束縛を断ち切り、健き人は、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分を取り巻く世界、ものごと、意味、という限定されたものにとらわれることをやめることです。世界、ものごと、意味、それらがあるということ自体がすべて、心が限定され、限定されたものにとらわれているということなのです。
世界や物事に対する意味づけをやめると、自分と世界がただ一つのものであることを知るでしょう。
心が何かを掴もうとするのをやめた時、すべてが通り過ぎ、心はすべてを経験し、すべてと一緒になることでしょう。

 

スッタニパータ43

43.
出家者の中にも不満を抱いているものがある。また家庭生活にとどまる在家者も同様である。他人の子供にかかわることをせずに、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

どんなにすごく見える人であっても、どんなに上の立場にある人でも、どんなに良い評価をされている人でも、その人が真理の中に在ることとは関係がありません。真理とは他人の中にはありません。全ては自分の中にあります。
外の世界や他人のことをいくら探っても本当のことは見つかりません。それは鏡の中に真理を見つけようとする努力するようなものです。自分がどんな在り方しているかが世界に映し出されているだけなのです。鏡に何かを探すののではなく、鏡を見て自分がどんな在り方を選んでいたのかを知るのです。
他人や世界の状況は、すべて全て自分のことです。意味づけ、そこにある意味とはすべて自分のことです。

世界を自分が創っていると知ると、状況に対する反応は終わるでしょう。
ただ心が、自分が作り出した世界をその心自体に映し出いしていることでしょう。

 

スッタニパータ42

42.
四方のどこに行くにしても安らかにいて、どんなものでもあるものに満足し、諸々の苦痛を恐れることなく乗り越えて、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

どこにいても、どのような状況にあっても、それに意味をつけているのは自分です。良いとか悪いとか、そのようなものはないのです。物事は起こるように起こっています。物事に対する意味づけや解釈は、過去のどこかで自分で作り上げたか、あるいは他人の意味づけを自分のものにしたことで、行っています。
何かが楽しいとか、何かが苦しいとか、そうした感情が起こっても、それは本当のものではないと知ることです。ただ自分が知らずにどこからか受け継いだ感情を起こしていると知ることです。
自分の思いは自分で作り上げていると知ると、そこから初めて真の創造、真の人生が始まるでしょう。
世界は自分の外に在るのではなく、自分が自分の中に自分の世界を生み出していると知るでしょう。

スッタニパータ41

41.
仲間の中にいれば、浮かれ騒いだり快楽に浸ったりする。また子供がいれば、それに対する情愛はとても大きいものだ。そのような喜びを与えてくれる者と別れることを厭いながらも、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

ただ浮かれ騒ぐだけのために他人と一緒にいるというのは、自分の中の不安を一時的には見ないようにすることはできるでしょう。しかし結局は、自分を見つめることになります。
自分の心を見つめると、ものごとは決して思い通りにはならず、起こるように起こっていると知るでしょう。起こっているものごとに対してどう思うのかは全て自分次第であると知るでしょう。
仲間や家族の中にいる時の感覚、またそれ以上に全ての状況に対する感覚というのは、過去の誰かの心が作り上げた幻想です。私たちはいつの間にか知らず知らずにその価値観を受け取って生きています。それらは全て好きなように作り直すことができますし、全てを捨て去ることもできます。
楽しみや快感は、過去の誰かの思いを受け取っていたことから起こっていると気づき、全てを手放した時、そこに真の自由があり全てが一体であると知ることでしょう。

スッタニパータ40

40.
仲間の中にいれば、休んでいる時にも、立ち止まっている時にも、どこかに行く時にも、旅する時にも、いつも話しかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

どんな仲間やグループであれ、その中にいる限りは必ず他人の価値観にさらされ続けることになります。他人や世界は自分の心の鏡なのですが、いつも鏡を見ている必要はありません。他人や世界が自分の心の写しだと知れば、他人や世界は必要がなくなります。結局は他人といようと一人でいようと全く同じことだと気づくでしょう。自分の心だけがある、と。
ただただ自分の心が作り出しているものに気がついていることです。全ては自分の心が作り出していることを知れば、世界というものはなくなり、自分自身もなくなり、全てが一体となるでしょう。そこにはただ「在る」ことだけが残るでしょう。

スッタニパータ39

39.
繋がれていない野生の動物が、森の中で食物を求めて思うがままに動き回るように、聡明な人は心に独立自由を抱き、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

真の自由というのは、心がどんなものにも執着しないことです。
どんなことであれ心がそれに執着しているというのは、執着している対象に囚われていて、そこに繋がれているということです。自分の心がどこに向いていて何に囚われているかを知ること、その囚われを捨てること、すると空虚に見えるその場所に真の自由が見出されることでしょう。真の自由こそが自と他が合わさり、全てが自身であると知ることなのです。