私は誰か?(5)

5.
世界が(実在として)存在しているときでさえ真我が実現されるということはないのでしょうか?

ないだろう。

解説
この世界は想念だ。ゆえに想念が実在の世界として見えるとき、真我は隠れているだろう。
「見られるもの」である世界は、「見るもの」である真我がなければ存在できない。
それを見ているのは誰か?それを考えているのは誰か?を追求すれば、「見られる」世界が幻想であることに気づくだろう。
幻想の世界に気づけば、おのずと真我が現れるだろう。


原文
Will there not be realization of the Self even while the world is there (taken as real)?
There will not be.

私は誰か?(4)

4.
真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

「見られるもの」である世界が取り除かれたとき「見るもの」である真我は実現されるだろう。

解説

「見るもの」は「見られるもの」を創り上げている。「見るもの」が全ての世界を創造している。
「見るもの」がいなければ、「見られるもの」は存在しない。
「見られるもの」が「見るもの」によって創られた想念であることに気づくと、自ずと「見るもの」である存在−意識−至福という真我が現されるだろう。それはいつもここにあるのだ。


原文
When will the realization of the Self be gained?
When the world which is what-is-seen has been removed, there will be realization of the Self which is the seer.

私は誰か?(3)

3.
覚醒の本性とは何でしょうか?

覚醒の本性は、存在―意識―至福である。

解説

覚醒というのは、眠りから目を覚ますことだ。
眠りとは、想念の世界にはまり込んで、想念を想像している意識を見失うことだ。
私や世界という想念にはまり込んでいる夢見の状態から目を覚まし、全てが意識が作り上げた幻想だと気づくことだ。
意識が作り上げた想念の世界が真実ではないと知り、意識に、意識が戻る。
それが存在であり、本来の状態である至福、自由、真我だ。

原文
What is the nature of Awareness?
The nature of Awareness is existence-consciousness-bliss

私は誰か?(2)

2.
『もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?今述べたことすべてを「これではない」「これではない」と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒―――それが私である。』

解説

体は私ではない。
感覚も私ではない。
動きや理解することも私ではない。
考えも私ではない。
そして世界という認識でさえ私というものが作っている想念だとすると、いったい私というのは何なのだろうか。
全ての思い、考え、疑問、感情、想念に対して、それを考えているのは一体誰なのだろうか?と問うことが最初だ。
そして、それが次の疑問、「私というのは何か?」、「私は誰か?」という疑問に行き着く。
私は誰か?と真剣に問いただすと、私が私と思っていたものは何もないということに至る。
それが覚醒であり、真我であり、ただ在るということだ。

原文

If I am none of these, then who am I? After negating all of the above-mentioned as ‘not this’, ‘not this’, that Awareness which alone remains – that I am.

私は誰か?(1)

1.
『私とは誰でしょうか?
 七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚はそれぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが私はそれらではない。五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが私はそれらではない。五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするがそれは私ではない。ものごとを考える心でさえ、私ではない。対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。

訳注1 七つの要素:栄養液、血液、肉、脂肪、髄、精子
訳注2 五つの生気:パンチャ・プラーナ 身体で働いている五つのプラーナ(気)アパーナ、下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気。ヴィヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。』

解説

私とは何だろう?
いったい私が私と言うとき、それは何を指しているのだろう?
私は誰か?と問い続けると、それが何も指していないことが分かるだろう。
この体が私なのか?
この体は私ではない。この体はほぼ6ヶ月前の体とは別物だ。生まれた時からずっと変わり続けている。
感覚はどうだろうか。
聴覚、触覚、色覚、味覚、嗅覚、これらもただ世界を感じる器官だ。それらも私自身ではない。
能動的なものもそうだ。話し、動き、これらの動作も単なる手段であり私自身ではない。
考えでさえ私自身ではない。考えは絶え間なく変化する想念、ただのエネルギーの動きだ。
本当は、私というものはないのだ。
私というのは幻想なのだ。
私が幻想なら、私が取り囲まれていると思っている世界も幻想なのだ。

私が幻想だと知ること。それが最初で最後だ。

原文

Who am I ?
The gross body which is composed of the seven humours (dhatus), I am not; the five cognitive sense organs, viz. the senses of hearing, touch, sight, taste, and smell, which apprehend their respective objects, viz. sound, touch, colour, taste, and odour, I am not; the five cognitive sense organs, viz. the organs of speech, locomotion, grasping, excretion, and procreation, which have as their respective functions speaking, moving, grasping, excreting, and enjoying, I am not; the five vital airs, prana, etc., which perform respectively the five functions of in-breathing, etc., I am not; even the mind which thinks, I am not; the nescience too, which is endowed only with the residual impressions of objects, and in which there are no objects and no functioning’s, I am not.

私は誰か?(序)

私は誰か?
Who am I ?
(Nan Yar)

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問いで探求する知識の道が最も重要な方法である。

解説

全ての存在は、その最奥においては愛の源にある。
人は真の自分自身を知らないために、作られた想念の中陥り、世界に翻弄される。
存在の最奥は常にここにある。

最奥を見失ったとき、「それを考えているのは誰か?」、「私は誰か?」と、これらの質問で真剣に探求することが重要だ。

そして、最奥の源は常に共にあることを思い出すだろう。


原文

As all living beings desire to be happy always, without misery, as in the case of everyone there is observed supreme love for one’s self, and as happiness alone is the cause for love, in order to gain that happiness which is one’s nature and which is experienced in the state of deep sleep
where there is no mind, one should know one’s self. For that, the path of knowledge, the inquiry of the form “Who am I?”, is the principal means.