スッタニパータ35

第3節 犀の角

35.
あらゆる生きものに対して危害を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも苦しめることなく生きるものは、自分の子孫が欲しいなどと思うことがあってはならない。いわんや仲間などはいらない。ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

生まれるとき、死ぬとき、人生の最初と最後を思い浮かべてみましょう。
実は、人はただ一人で世界を歩んでいます。他者や世界というものと関わり様々な体験をしているのですが、それは全て自分の心が作り上げているのです。ただ在るのは自分、自分の心だけなのです。
何かを良いと思うのも自分の心、何かを悪いと思うのも自分の心、仲間がいて満足するのも自分の心、孤独で不満だと思うのも自分の心、全てが自分たった一人が行っている作業なのです。
ただ、自分の心が唯一のものだと知ると、ただ一人で歩むことが全ての世界とつながるでしょう。

スッタニパータ30・31・32・33・34

30.
すぐに大雲が現われて、雨を降らし、低地も丘も雨でみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のように語った。
31.
「私は尊き師にお目にかかりました、私の得たところは実に大きなことです。知恵の眼がある方よ。私はあなたに帰依します。あなたこそが私の師となってください。大いなる聖者よ。
32.
妻も私もともに従順です。幸せな人のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみの元を滅しましょう。」
33.
悪魔が言った、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。執著する元があることが喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」
34.
師は言った、
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。執著する元のない人は、憂うることがない。」

解説

どんなものであれ、それに執着すると、一時期はその執着により喜びが得られるのですが、それを失う時にはその喜びと同じ大きさの悲しみや失望感に襲われます。
執着による自分の心の条件付け、「何々があるから幸せだ」という設定が「何々がないと不幸せだ」という設定も同時にし、何かを失った時の苦しみを生みだします。
世界の状況と自分の心の状態を結びつけているのは自分です。
起こってることと自分の心は自分で繋げていたのだ、自分で意味づけをしていたのだ、と気づくと、そこで自分と世界が真の意味で同じものであり、自分が世界と言っているものが自分で作り上げていたと知るでしょう。

スッタニパータ28・29

28.
牛飼いダニヤが言った、
「牛を繋ぐ杭は、しっかり打ち込まれて固定されてる。ムンジャ草でつくられた縄は新しくてよくなわれていて丈夫だ。若い牛でさえもこれを断つことができないであろう。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
29.
師は言った、
「牡牛のように足枷を断ち、象のようにくさい臭いのする蔓草を踏みにじるように、わたしはもはや母胎に入り生まれ変わることはないであろう。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

この世におけるどんな保障も、それに頼ることによって自分のあり方が自分以外のものに依存していると設定します。そしてそのような体験を何度も(何千回、何万回も)繰り返すことになります。
今ここでの何らかの保障による心の平安を設定することによって、未来の今にその保障が亡くなった時の不安定を作り出しているのです。それは全て自分でやっていることです。
全てが自身の心が生み出している。
心が一つであるものを分離させ、安心と不安、善と悪、大と小、戦争と平和、様々な対象物を生み出しています。
生と死、それさえ心が生み出しているのです。
この心によって生み出されたものに気付いたとき、生まれることも死ぬことも超えたところに在るでしょう。

 

スッタニパータ 26・27

26.
牛飼いダニヤが言った、
「私には雌牛もいるし、子牛もいる。孕んだ雌牛もいるし、若い雄牛もいる。牛たちのリーダーである雄牛もいる。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
27 師は言った、
「私には雄牛もいないし、子牛もいない。孕んだ雌牛もいないし、若い雄牛もいない。牛たちのリーダーである雄牛もいない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

十分なお金があれば、、、
十分な健康があれば、、、
十分な技術があれば、、、
十分な時間があれば、、、
十分な人材があれば、、、
十分な制度があれば、、、
十分な地位があれば、、、
十分な能力があれば、、、
十分な環境があれば、、、
十分な人間関係があれば、、、

ほとんどの人たちはこのように考え、それが満たされれば自分は完全に平安を得られるだろうと考えています。

依存している物事からの保障が一生涯あるから安心できる、このような保障の依存による心の平安というのは結局は、自分の中に永遠に平安がないという宣言でしかありません。死ぬまで一生涯自分の心の平安を自分以外のものに託しているということです。
真の心の平安は、外部の状況には関係なく、経験の中にただ「在る」ことによって見出されます。
経験の中にただ在ること、善悪の判断なしにただ「在る」こと、そこに本当の自分を、全てと一体となった全体としての自分を見出すことでしょう。

スッタニパータ 24・25

24.
牛飼いダニヤが言った、
「私は自分の選んだ職業による収入によって自分を養っている。私の子供たちはみな一緒に住んでいて健康である。かれらにどんな悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
25.
師は言った、
「私は誰からも雇われてはいない。みずから得たものによって全世界を歩んでいる。収入を得る必要もない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

自分で生きている、自分が自分を生かしている、そう思っていること自体が、自身を全世界と分離させ、自分を狭小なものに(自分というものに)限定しているのです。実は、自分という限定された自身の力で起きていることは何一つありません。生命・存在・全宇宙・真理・大いなるもの・愛(どう名づけても構いませんが)があるだけなのです。
あらゆる可能性がある宇宙、その場所に意識を置いているから体験というものが現れます。意識をどこに置くかということが自身の体験を決めているだけなのです。
自身が全生命であると知るとき、意識・心によって自身がどんな世界でも歩んでいけることが分かるでしょう。

スッタニパータ22・23

22.
牛飼いダニヤが言った、
「わたしの妻ゴーピは従順であり、欲望に心を震わせることがない。長い間ともに住んできたが、わたしの意に適っている。彼女にどんな悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
23.
師は言った、
「わたしの心は従順であり、解脱している。長い間修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

何かが意に敵っていることで心の平安を得ていること、それは心の平安を自分以外のものに頼っているということです。あることを善と設定するとき、無意識に悪を設定しているのです。意にかなっていることを善とし、それを心の平安の拠り所にするのは、「自分の心には平安がない」と自分で宣言しているようなものです。その頼っているものが頼れなくなった時には自分の平安も崩れます。
自分の心の状態がある状況に依存していると、その状況が変化した時に心の平安が崩れるという設定をしています。あることが良いという設定をすると、同時にあることが悪いという設定をしています。している本人は気づいていないことが多いのですが、無意識のうちに(自分で設定した)悪いことを避けようという思いを心の奥底に持ちます。
善という設定も悪という設定もしなくなったときに、初めて真の心の平安が現れるでしょう。

スッタニパータ20・21

20.
牛飼いダニヤが言った、
「ここには蚊や虻はいない。牛たちは牧草の茂った湿地で草を食んで歩む。雨が降っても、かれらは堪え忍ぶだろう。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
21.
師は言った、
「わたしの筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を離脱して、すでに渡りきって彼岸に到着している。もはや激流を渡るための筏は必要ない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

人というのはある条件によって、自分が幸せであるということを感じます。そしてその条件を一生懸命に維持しようと努力します。しかし、現実とは変化です。その条件が続くことはありません。
ただ、よく考えてみてください。ある条件によって引き出された幸せというのは、実はもともと自分の中に存在していたものです。自身の中にもともとある幸せという感覚がある条件によって引き出されているだけです。そんな条件を待っている必要はないのです。自分で自分の中にある幸せという感覚を出せばいいだけです。条件を維持する努力などいらないのです。自分の意識の中で自由に感覚を引き出せばいいだけなのです。条件に関係なく今ここで幸せであることができるのです。
今ここで完璧なのです。

スッタニパータ18・19

第2節 ダニヤ

18.
牛飼いダニヤが言った、
「わたしはもうご飯を炊いて、乳も搾ってしまった。わたしはマヒー河の岸のほとりに家族とともに住んでいる。わたしの家の屋根はよく葺かれているし、火も点され続けている。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
19.
師は言った、
「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿を借りるだけ。わたしの家の屋根の覆いはなくなり、欲情の火は消えている。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

人というのは、世間的に比較して自分が満足のいく衣食住を揃えて、それがあるから安心だと感じる。そうでない人を見て優越感さえ感じる。しかし、その心の奥底は不安に満ちています。
今持っている財産、家族、人間関係、名誉、仕事、収入、健康、知識、能力など、自身の幸せがそれらに依存していると、それを失った時には不幸のどん底に落とされるでしょう。それに依存していることで、失う不安をいつでも持っています。それなのに、人はそれらの所有物を躍起になって増やそうとします。
何かが自分のものであるという考えは、一種の妄想です。自分のものなど一つもないのです。それらは人生の借り物・道具・預かりものです。人は生まれた時には何も持っていません。すべては、自身の体を含めて、預かりものです。借り物です。それを知る人は、自身が預かっているものに感謝することでしょう。預かっているものを大切に有効に使うでしょう。使い終わったら手放すことでしょう。自分よりもその預かりものが必要な人がいれば、喜んでそれを手放し譲ることでしょう。それらはすべて体験のために与えられた道具です。この世に何持たずに来た私たちにとっては、すべての物事は感謝の対象でしかないのです。
生きていること、そこに起こるすべてのことは感謝の対象なのです。

スッタニパータ17

17.

五つの障害(欲求・怒り・怠惰・焦り・不安)を捨て、心が乱されず、疑いを超え、悲しみに飲み込まれることがないならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

欲求、情欲、怒り、悪意、怠惰、焦り、不穏、不信、疑い、不安、悲しみ、このような心の状態全てが、自我(観念)による「今ここ」からの分離、判断分別による純粋なエネルギーの流れの否定から生まれてきます。
自分の鏡である世界は、純粋な体験としてあります。それに飲み込まれると観念によって世界というものが自分と関係なく存在して、自分と関係なく変化しているように感じ、様々なドラマを生み出します。
ただ静かに在ると、心の反映である世界ではない、真の世界(自分と世界を生み出す意識そのもの)が姿を見せます。

スッタニパータ16

16.

人を輪廻の存在に縛りつける原因となる欲望が全くないならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

欲望があるところには、必ずその欲望を満たすことがセットとして存在します。
判断や分別が自分と世界を分離させるように、欲望や必要性は今ここの完全性を分離させます。「今ここ」では不完全で、ある未来の「今ここ」でその不完全性が満たされるであろう、という分離の観念を作り出しています。
欲望は新たな欲望を生み、そのために、永遠に終わることのない時間のループを作り出します。人が幾度も転生する所以です。
自分が作り出している欲望の本質も見抜くと、自分と世界が「今ここ」に統合され、ただ意識だけが存在することを知るでしょう。