感謝でアホに

今ここで、感謝の状態に在ると、どんどんと欲求や執着心やこだわりが消えていきます。
自然に心から汚れが、薄皮を剥ぐように取れていきます。
毎瞬毎瞬、毎日毎日、だんだんと心が軽く明るくなってきます。
これを続けていくと最後には何が残るのでしょう。
例えてみれば、タマネギの皮を剥ぐようなものでしょうか。タマネギを剥いていくと、どんどん際限なく皮が出てきます。最後まで剥くと、何も残りません。言い換えると、タマネギを存在せしめた空間が残るのでしょうか。タマネギを最後まで剥いたら、空間だけが残った。空間と一緒になった。
感謝で心を綺麗にしていくのは、それと同じようなことです。これまで溜めてきた知識や判断から解放され、あらゆる存在と一体となるのです。心が無になるのです。何もないイコール全てと一体である、なのです。これに気付きけば気付くほど、人はアホになれます。
反対に自我というエネルギー体は一つの生き物でもあるので、自分を大きくしようとします。自我のエネルギーは大きくなればなるほど限定に向かいます。これが私だ。こう感じているのが私だ。こう動いているのが私だ。こう見えるのが私だ。
限定すればするほど、一体としての自分では無くなり、調和が無くなり、つながりが無くなり、消滅の道を歩みます。
もう現在は既に、これまでの常識が消滅する時代になっています。
今ここ感謝に在ることが自然な時代です。

欲求や執着やこだわりという自我でさえ、感謝で扱いましょう。
得るものも失うものも、もともとは自分のものではなかったのです。
得ることも失うことも調和の中での一つの体験です。
感謝で在れば感謝の体験です。
あらゆるものを感謝して手放せること、アホになること、それが「今ここ感謝」です。

ありがとうございます。

新しい太陽

「今ここ」に在ること、そして「感謝」することは、新しい時代の在り方を実現することです。

なぜ、それが新しい在り方を実現するのでしょうか。新しい在り方とはどんな意識なのでしょうか。

新しい在り方とは、強いて言えば、意識の裏返し、でしょうか。
私たちが観察しているものが、実は私たちの内面に在り、私たちの内面に在る意識というものが外に在る、ということに気が付くのです。

今ここ感謝にない時でも、在る物事を観察したり分析したり解釈したりしているものを、誰が観察しているのか、どんな精密機器を使おうが、一体だれがそれを作り、そして最終的に観察しているのか、ということを考えれば、自分自身の意識の問題に行きつくのです。

すると、物事の存在の前提が全く逆転するのです。
宇宙について考える時、自身の意識に行きつきます。自身について探求する時、宇宙の意識に行きつくのです。
すると、驚くべきことに、宇宙と私たち人間が同じものだということに気が付くのです。

このことは、普通の教育を受けてきた人には理解しにくいことですが、自身の感覚を大切にしている人には受け入れやすいことです。
自分の分析的思考は一体誰が作り上げたのか、を考えれば分かることです。
世界を理論や科学、分析や理解で見つめるやり方は、さらなる飛躍の時期を迎えています。

世界というのは、私たちの在り方の鏡なのです。
それは創造された結果です。
創造、想像の産物なのです。
私たちの想像が変化すれば、世界の状態も変化するのです。

それを知る最初の一歩が、今ここ感謝です。
もうすでに多くの人が、そう在ります。

私たち一人一人が感謝を放つ太陽なのです。
新しい時代、新しい太陽が生まれています。

ありがとうございます。

実践

「今ここ」に在ると、実践者になります。体験者になります。
「踊る阿呆に見る阿呆、踊る阿呆なら踊らにゃそんそん」
そんな言葉が思い出されます。
今ここに在る時は、踊りを見ているといつの間にか自身も踊っているのです。

今ここに在ると、いつでも、鑑賞者から実践者に変わります。今ここの世界から離れることがないからです。今ここの世界に積極的に調和しようとします。心と体が躍動してくるのです。

例えば、音楽を鑑賞しているときに体が自然にリズムを取り、あるいは歌い始めます。子供たちを観察すると、それが本当に自然な行為であることに気付きます。子供たちは今ここに在るのでしょうね。

心が動かされる行為やパフォーマンスを目の当たりにすると、自分自身がそう在りたい、そうしたい、という欲求が湧きあがり、その行為をしようとします。体験しようとします。

観察しているだけ、批評しているだけ、分析しているだけでは、「今ここに在る」から離れています。どうぞ実践者で在りましょう。体験者でありましょう。なぜ今ここに生きているのに、今ここから離れる必要があるのでしょうか。分離の中に生命はありません。

生命を知るには、それとともに生きてください。分離分解しないでください。
例えば、自分が飼っている犬を理解する時、脳や体を解剖して調べますか。それとも共に人生を楽しみ悲しみを共有しますか。答えは簡単ですね。

あなたは今ここに参加していますか。実践者でありますか。実践者でいるときだけ、生命を知るでしょう。

ありがとうございます。


深い体験

今ここに在る、とは、実は体験を深めることと同じことです。私たちは過去の経験に照らして、喜びや楽しみを味わおうとし、痛みや苦しさを避けようとする思考習慣を続けてきました。このような思考習慣は、私たちを今ここから遠ざけます。そしてその「喜び」とか「楽しみ」、「痛み」とか「苦しみ」とレッテルを貼った体験をエネルギー的な荷物として背負い込むことになります。

今ここに在ることは、その「喜び」や「痛み」と名付けられた体験をレッテルを貼らずに受けいれ感じることなのです。懸命に感じるのです。それは感じることによって「喜び」や「痛み」というものではないと気がつきます。その名付けていた体験が初めてのことであり、どんなに貴重なものか、どんなにありがたいことなのかが感じられます。
この体験を深めるということは、喜びや痛みだけではありません。あらゆる習慣化した体験が、真にありがたいものに変わります。
食事をしているとき、口に入れた食べ物を本当に味わってみましょう。食物の命と自分の命が一体化します。運動している時には、呼吸と筋肉の躍動をしっかりと感じてみましょう。どんなに自分の魂が喜んでいるかが分かるでしょう。
どんな体験であっても、今ここにあり深く味わえれば、それを通して魂は喜びます。
「ああ、生きている!」と。

ありがとうございます。

「今ここ」と丹田

双葉山

丹田(ハラ)を強くすることについての重要性は様々なところで言われてきました。
健康になる、強くなる、頭が良くなる、などの効果もあげられています。
しかし、その本当の意味は、丹田の強さが「今ここ」に在ることとつながっているということなのです。物質的なものを超えて人間の存在を観察すると、丹田の位置にその存在の中心があります。今ここから離れると、その中心に輝いている球状の光の玉を曇らせたり歪めたりしていると観察できます。
つまり、今ここに在ることは、その丹田の玉の汚れを落とす、余計なものを剥ぐことになります。人間というのは実はもともと光り輝いているのですが、それに汚れがついている状態が、苦しみや迷いになっているのです。
自分の中心である丹田を意識していることは、同時に、自分ではないものである汚れを自分に寄せ付けないことであり、汚れがないということは丹田がキレイに輝いていることであり、純粋に今ここに在るということなのです。
丹田に意識を置いていれば、自然に汚れが落ちていき、今ここに在ることになるのです。ここにある写真の二人は「今ここ」丹田の良い例です。

ラマナ・マハルシ

全てに完璧さを見る

私たちは、状況や物事にどんな気持ちや印象をもつでしょうか。

何かが自分の身に起こった時、どんな感情を持つでしょうか。
そこに、それはそれで良しとする感情、つまり状況や物事に完璧さを見ることができるでしょうか。周りの全てのものの中に、完璧さをみることができるでしょうか。全てのことの中の荘厳さに気づけるでしょうか。

その状況や物事の完全性に気付き始めると、物事が在るべき姿、美しさが見え始め、それを表現し始めます。
それは普段の行為として、例えば掃除や整理整頓であったり、清潔にすることであったり、すっきりとした考え方をすることであったりということに現れます。
物事の内にある輝く本質が表現されるべきものだと知るので、それが自ずから表現できるものは表現させ、表すのを助けることができるものは助け、見つめるだけしかできないものは見つめるようになるのです。

できる限り物事を在るがままにしようとします。在るがままとは、そのままということではありません。その物がどこにどんな風に在るものなのかが理解でき、そこに在るよう助けるでしょう。
また、秩序だった考えをし、美しい言葉使いをするでしょう。人に対してもその中に光を、完璧さを見て、その通りのものを引き出すのです。
それは自分自身にも当てはまります。自身の中に完璧さを見ると、自分の才能、健康などが在るがままの最高の状態になるでしょう。
自身に完璧さを見る人には、自然とこの言葉が心に浮かびます。
私は愛なり光なり。
どこかの誰かが同じようなことを言っていましたね。

ありがとうございます。☆☆☆

世の中で一番必要なこと

今ここに在るという在り方と、自分が世の中でしなければならないことは一体どんな関係があるのか、と私たちは疑問に思います。

世の中には自分の意志とは関係なくやらなければいけないことがあるのではないか。世の中には行う必要があることがたくさんあり、そのことを考えると、今ここにあることは後回しになってしまうのではないか。家族を養うため、子供を育てるため、生きていくため、そうして生きているのに今ここに在ることは本当に利益になるのか、と。

しかし、その疑問自体が物事をうまく行かなくする原因なのです。
今ここに在ることは、必要なものは何もないと悟ること、必要なものは今ここに全てあると悟ることなのです。そして、実は、世の中で一番必要なのは、私たち自身が今ここに在り、その結果生き生きとしているということなのです。

もし、自分を生き生きとさせて、今ここに在る状態にしてくれるものがあるなら、その生き生きさせてくれるものをどんどんやったほうがいいのです。
生き生きしている人を見て文句を言う人が出てくるかもしれません。それはその文句を言っている人の問題なので気にする必要はありません。生き生きしていることを否定する人の理屈によってやめないでください。いずれ文句を言う人に対しても、今ここ生き生きは良い影響を与えます。

世の中に必要なのは「今ここ・生き生き」の輝きなのです。
でも、死ぬ時はどうするって?大丈夫です。そういう人は、生き生きと死んでいくでしょう。死も生も変化なのですから。

全ては在り方の絶え間ない変化です。変化の今ここに、生き生きと在りましょう。

それが、世の中で一番必要なこと。

ありがとうございます。

全てで在ること

「今ここ」に完全に在る、それは体と精神と魂が統合し、全人的な存在になることです。
それ以前には、自己という制限された存在の中に意味を見いだし、自己以外のものに意味を見出し、それを所有することによって自分の存在を主張してきました。
しかし、今ここに完全にあれば、宇宙の大きなパターンと融合し、その秩序を理解することができ、智というものは直接知であり、自分の人格を周りの全てと統合することになります。
今ここは聖なる場所で、無限に広がる今ここの現実性を超越した状態に繋がります。物理的世界を超え、自身の中に全体性を創り出し、その存在に現実の世界で与えられる限りの最高の意義を持たせることになります。
人が生きていることの意味、人間の体がなぜこういう形なのか、なぜ宇宙を今そう見えているように見ているのか、なぜ私たちがさまざまな物事で悩んだり、努力をしたりしているのか、全てのことを直接に理解します。
「私」というものはいなくなり、全ての存在、宇宙、全てのエネルギーが私と同意になります。私が宇宙に溶け込むと言うのでしょうか。
一滴の水が、「私は水滴だ」「私は雲だ」「私は雨だ」「私は川だ」「私は汗だ」「私は涙だ」などと言っていたのが、海に戻り「私は海だった、そして全てだった」と悟ります。
私以外のものとの差が取れるのです。これこそ差取りの本当の意味なのでしょうね。
そして、全ての物事に対して、感謝の気持ちがあるだけなのです。

ありがとうございます。

自と他

なぜ世界には自分があり、自分以外の他があるのでしょう。
それは体験のためです。
体験するためには自と他が必要なのです。
宇宙は最初(時空を作り出す前は)、自だけでした。しかし自だけでは『体験』がないのです。
自を分けて、自と他を作り出せば、自は他を認識し働きかけることができます。そこで時空間ができます。そういう言わばゲームを作り出したのです。しかし究極の宇宙は自だけなので、そこでは自も他も一緒です。そして時空の分離はありません。
自と他、そしてそれが結びつくことによる新たな自他の創造。これがさまざまな時空レベルで経験されています。

肉体三次元世界では自と他が設定されているので、他の中に自を見ることができるのです。
時空間の中では、今ここに在るというその在り方自体は目に見えないので、他を見て自分の在り方の結果であり鏡である現実を見て、自分の在り方を認識します。

自他がもともと一つの自であった痕跡が私たちが自分たちのことを「私」や「自分」と呼ぶことに表れています。私たちは意識の奥では、自分たちがたった一つの同じ存在だと気づいているのです。
この地球上の70億の私は、一つの私がこの地球上で70億通りの体験をするためにあるのです。
また、人だけでなくその他の動物、植物、鉱物など、また異なったレベルで「私」というものを体験しているのです。

そのことを思い出すと、あらゆる体験、あらゆる物事、あらゆる人々を感謝で受け止めるようになるでしょう。

在るのは感謝だけです。

☆☆☆


モノがこころになる時代

一つの時代がおわりつつあるのを感じます。

モノや情報で溢れかえっている時代は、もう無くなりつつあります。

もっと多くの財産、もっと多くの知識、もっと良い学校、もっと良い仕事、もっと多くの年収、もっと良い頭脳、もっと早く、もっと幸せになること、もっともっとという時代がもう無くなります。
それを支えてきた情報やテクノロジー、そしてそれを支えてきた価値観自体がもう役割を終えました。
多くの人が、自分の意識やこころが最高のテクノロジーであり、世界が自分のこころの鏡であると気づき始めています。
自分の生きている世界で何かを求めたり否定したりすること自体が、ただ自分の存在を宣言している行為だということだと知り始めたのです。

新しい生き方をしている人は、周囲の状況・世界に対する解釈は、自分の在り方が出ているということを知っています。
これからは、“モノ”は無くなります。
“モノ”は“こころ”と同一なのです。
近い将来、私たちの考え方の中には、買ったり捨てたりする“モノ”というのは、ほとんど無くなるでしょう。
買うのではなく預かる、捨てるのではなく感謝で手放す。モノを買ったり捨てるという考え方が、自分自身のこころを買ったり捨てたりすることだからです。

今ここでの自分を見つめて、何が不足なのか、何が不満なのか思い起こしてみてください。
何かが足りないと感じたら、それは自分が世界に対して、つまり大きな自分に対して与えていないものなのです。
物質として経験しているこの世界は自分のこころの鏡です。すべての経験が今ここでの自己存在の宣言なのです。
人も動物も自然もモノも、すべてはこころです。
モノがこころと同じように思えるなら、あなたはもう新しい世界の住人ですね。
ありがたいことです。

ありがとうございます。