私は誰か?(22)

22.
目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

目覚めている間は長く、夢を見ている時間は短い。これより他に何の違いもない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢の中では真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも想念、名前、形は同時に現われるのである。


解説
夢の世界は想念の世界だ。誰もが目覚めた時に夢の世界が現実ではないと分かる。しかし夢を見ている間はそれが現実として起こっているように見える。目が覚めれば夢の中のどの要素も真実ではないと知る。
夢が真実ではないように、目が覚めている時のこの世界も真実ではない。様々な人や物質が現れているように見えるが、全ては心の中で作られた想念の塊だ。
夢が覚めた途端にその世界が消えてしまうように、実在である真我が現れた時は私という想念とともに、私を取り囲んでいた全ての世界は消え去る。

原文
Is there no difference between waking and dream? 

Waking is long and a dream short; other than this there is no difference. Just as waking happenings seem real while awake. so do those in a dream while dreaming. In dream the mind takes on another body. In both waking and dream states thoughts. names and forms occur simultaneously. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(21)

21.
解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素を探究する必要はあるのでしょうか?

ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したりそれが何であるか調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても意識の性質を調べたり、その構成要素を分析して数えたりする必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素のすべてを払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。


解説

意識というものが全て想念の集まりだと知っているなら、想念について探求する必要があるだろうか?
世界が想念であると知っているのに、その想念である世界を探求する必要はない。自分が作り上げている想念をなぜ自分が探求する必要ははい。自分が作り上げていると知り、単にそれを手放せばよい。
想念を手放すこと。それによって実在である真我が現れる。真我を熱望するのになぜ想念を手放さず、さらに想念を探求することは、真我をさらに覆い隠すことになる。
真我が現れるには、常に沸きあがる想念を捨て去ることだ。沸きあがる瞬間に捨て去ることだ。「そう考えているのは誰か?」、さらに「私は誰か?」と問い続けること。
私が消える時、私が覆っていた真我が姿を現すだろう。


原文
Is it necessary for one who longs for release to inquire into the nature of categories (tattvas)?

Just as one who wants to throw away garbage has no need to analyse it and see what it is, so one who wants to know the Self has no need to count the number of categories or inquire into their characteristics; what he has to do is to reject altogether the categories that hide the Self. The world should be considered like a dream. 

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私は誰か?(20)

20.
神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

神やグルは解放への道を示すだけだろう。神やグルが人を解脱の状態に連れて行くわけではない。実際は神とグルとは異なるものではない。トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないようにグルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ見捨てられることはないだろう。けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め解脱に達しなければならない。人はただ自分の智慧の目によってのみ、自分自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?


解説
神の信仰やグル(精神的指導者)の指導のもとにいるだけでは、実在に至ることはできない。これらは単なる実在への指標だ。私がどこに向かえば良いのかだけを示してくれるものだ。
神であろうがグルであろうが、実はすべてが自分が作り上げてる想念だ。実在に至るとそれらの想念もすべて消え去る。

実は、起こっていることはすべて真我への道、指標であると言える。起こっていることがすべて自分が起こしている想念であるなら、それらを消し去ることが道になるからだ。つまり、起こっているどんな想念であれ、それらを消し去ることで真我への道になるのだ。
真我は自分以外のものを消去していくことによってのみ現れる。目的地に着いたら地図は必要がないのと同じで、神であれグルであれ、すべての想念は、実在のもとでは必要がない。

「そう考えているのは誰か?」
「私は誰か?」

これらが最後の指標になる。

原文
Is it not possible for God and the Guru to effect the release of a soul? 

God and the Guru will only show the way to release; they will not by themselves take the soul to the state of release. In truth, God and the Guru are not different. Just as the prey which has fallen into the jaws of a tiger has no escape, so those who have come within the ambit of the Guru’s gracious look will be saved by the Guru and will not get lost; yet, each one should by his own effort pursue the path shown by God or Guru and gain release. One can know oneself only with one’s own eye of knowledge, and not with somebody else’s. Does he who is Rama require the help of a mirror to know that he is Rama? 

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私は誰か?(19)

19.
無執着とはどういうことでしょうか?

想念が起こると共に、その起こったまさにその場所で、あますことなく完全に消滅させること、それが無執着である。真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように誰もが無執着と共に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。


解説
無執着というのは、特定の物事に執着しないということではない。過去の記憶や後悔などの自分を苦しめる考えだけを手放すということではない。自分の中に起こってるくる考え、感情、感覚、言葉、行為、これらすべての想念を手放すことだ。
壮大な考え、美しい感情、完璧な理論、悟り、神、感謝、このような想念は一見美しく見えるが、これらは自我をさらに膨らます強力な想念だ。こういうものこそ手放すこと。それらすべてを消滅させること。
「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」こう問い続けること。
それによって私という想念が最後に消え去る。

原文
What is non-attachment?

As thoughts arise, destroying them utterly without any residue in the very place of their origin is non-attachment. Just as the pearl-diver ties a stone to his waist, sinks to the bottom of the sea and there takes the pearls, so each one of us should be endowed with non-attachment, dive within oneself and obtain the Self-Pearl. 

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私は誰か?(18)

18.
帰依者の中で最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?我々は列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい。


解説
真我が姿を現すためには、人は一体どんな状態でいればよいのか。
それは自我がない状態だ。私という想念でさえないことだ。
想念によって想念を無くそうとしてはいけない。想念の上塗りになるだけだ。「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」という問いを続けることで、問い自体を起こしている私という想念自体が消え去る。
私というものが存在していたという想念は消え去り、私が行動していたという想念も消え去り、私が生まれ死にゆくという想念も消え去る。私という想念が消え去ると私が抱え込んでいた様々な想念が消え去る。
ただ在るのは実在である真我だ。

原文
Of the devotees, who is the greatest? 

He who gives himself up to the Self that is God is the most excellent devotee. Giving one’s self up to God means remaining constantly in the Self without giving room for the rise of any thoughts other than that of the Self. Whatever burdens are thrown on God, He bears them. Since the supreme power of God makes all things move, why should we, without submitting ourselves to it, constantly worry ourselves with thoughts as to what should be done and how, and what should not be done and how not? We know that the train carries all loads, so after getting on it why should we carry our small luggage on our head to our discomfort, instead of putting it down in the train and feeling at ease? 

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私は誰か?(17)

17.
すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。太陽がただそこに存在するだけで日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人々が三つの宇宙的機能や五つの神聖な活動に支配され、それぞれのカルマに従って行為し、そして休息するのはただ神が存在しているという美徳によるものである。神は何の意思も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。それは、世間の行為が太陽に影響を与えず、すべてに遍在するエーテル(虚空)が他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

訳注3 
三つの宇宙的機能:創造、維持、破壊

訳注4 
五つの神聖な活動:
パンチャ・ヤジュニャと呼ばれるヒンドゥー教徒の義務。
1、「ヴェーダ」の学習
2、祖霊への食物の供養
3、ホーマの献火
4、すべての生き物への食物の供養
5、人間への供養


解説
全ての考えは想念だ。神が全てをなしているということでさえ考えないことだ。実在はどんな想念にも影響されない。想念の世界ではあらゆるものが現れる。その現れ方は無限だ。無限の現れ方は実在に支えられている。実在である真我があらゆる想念世界が現れることを可能にしている。
スクリーンに現れる映像によってスクリーンが影響されないように、実在は想念に影響されない。ただ実在である真我が、全ての想念が現れ消えることを可能にしている。


原文
Is not everything the work of God?

Without desire, resolve, or effort, the sun rises; and in its mere presence, the sun-stone emits fire, the lotus blooms, water evaporates; people perform their various functions and then rest. Just as in the presence of the magnet the needle moves, it is by virtue of the mere presence of God that the souls governed by the three (cosmic) functions or the fivefold divine activity perform their actions and then rest, in accordance with their respective karmas. God has no resolve; no karma attaches itself to Him. That is like worldly actions not affecting the sun, or like the merits and demerits of the other four elements not affecting all pervading space. 

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私は誰か?(16)

16.
真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、真我の内に現われるものである。これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。「私」という想念が絶対にないところ、それが真我であるそれは沈黙と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。


解説
真我と名付けられるものは、実はない。
真に在るのは真我だけなのだ。
世界、私、思考、感情、感覚、知覚、心、現象、科学、宗教、神、物質、生命、色、形、空間、時間、宇宙、素粒子、エネルギー、善悪、苦楽、美醜、幸不幸、どんなものも「私」のなかに浮かんでくる想念で在ると気づき、私というものも想念であると気づくとき、全ての想念が同時に消え去る。
真我でないものを全て否定し捨て去る時、在るのは真我だけだ。

原文
What is the nature of the Self?

What exists in truth is the Self alone. The world, the individual soul, and God are appearances in it. like silver in mother-of-pearl, these three appear at the same time, and disappear at the same time. The Self is that where there is absolutely no “I” thought. That is called “Silence”. The Self itself is the world; the Self itself is “I”; the Self itself is God; all is Siva, the Self. 

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私は誰か?(15)

15.
探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?

心の中にものごとの印象がある限り、「私は誰か?」と尋ねなければならない。想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって破壊されるべきである。もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めばそれだけで想念は消滅するだろう。要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば要塞は我々の手中に落ちるだろう。


解説
想念を捨て去りきるためにはどれくらいの期間を要するのか?
それは時間の問題ではない。真剣さの問題だ。常に想念を捨てることだ。
常に起こってくる想念の源を見つめること。どんな想念であれ、それがどこから起こっているのかを見つめること。それだけが想念が実在ではないことを見破る。
「真我に至るにはどれくらいの探求の期間が必要なのか?」という想念でさえ捨て去ること。どんな瞬間も起こってくる想念を見つめる真剣さにより、実在である真我が姿を現すことになる。
「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」という問いを続けることで、その問いでさえ消え去るだろう。
全ての想念が消えた時、実在である真我が姿を現す。

原文
How long should inquiry be practiced?

As long as there are impressions of objects in the mind, so long the inquiry “Who am I?” is required. As thoughts arise they should be destroyed then and there in the very place of their origin, through inquiry. If one resorts to contemplation of the Self unintermittently, until the Self is gained, that alone would do. As long as there are enemies within the fortress, they will continue to sally forth; if they are destroyed as they emerge, the fortress will fall into our hands. 

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ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
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私は誰か?(14)

14.
数知れない過去生から蓄積されてきた心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく真我への瞑想を続けるべきである。たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。心はただひとつだ。幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく心に刻まれる印象である。心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう戒められなければならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。自己が現われると、すべてが立ち現われ自己が静まれば、すべては静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。


解説
過去や過去生というものは、体や世界という想念と同じく、時間という想念の中で作られたもう一つの想念だ。それは過去の自分というものがいるという想念に囚われている自分がいるということだ。
「そう考えているのは誰か?」と問うことで、時間と空間という想念に囚われている自分に気づくだろう。
過去の不快な経験に囚われていたり、自我が強すぎるために感情的になるひとは、「そう考えているのは誰か?」という問いさえできないことがある。その時は瞬間に引き起こされる想念から離れ、より安心な想念に置き換えることから始める必要があるかもしれない。しかし、そのより良いと思われる想念もいずれは捨て去り、どんな種類の想念にも囚われないようにすることだ。
良い悪いという判断は、どんなものであれ自分が押し付けている想念である。それはただ自分の頭の中に起こっている想念だ。悪い想念を捨て去ることだ。そして、良い想念でさえも捨て去ることだ。
どんな壮大な、どんな偉大な、どんな神聖な想念でさえも、それは単なる幻想だ。全ての想念を捨て去ること。
真実でないものを全て否定し捨て去ること、それだけが真我が現れる方法だ。


原文
Is it possible for the residual impressions of objects that come from beginningless time, as it were, to be resolved, and for one to remain as the pure Self?

Without yielding to the doubt “Is it possible, or not?”, one should persistently hold on to the meditation on the Self. Even if one be a great sinner, one should not worry and weep “O! I am a sinner, how can I be saved?”; one should completely renounce the thought “I am a sinner”; and concentrate keenly on meditation on the Self; then, one would surely succeed. There are not two minds – one good and the other evil; the mind is only one. It is the residual impressions that are of two kinds – auspicious and inauspicious. When the mind is under the influence of auspicious impressions it is called good; and when it is under the influence of inauspicious impressions it is regarded as evil.
The mind should not be allowed to wander towards worldly objects and what concerns other people. However bad other people may be, one should bear no hatred for them. Both desire and hatred should be eschewed. All that one gives to others one gives to one’s self. If this truth is understood who will not give to others? When one’s self arises all arises; when one’s self becomes quiescent all becomes quiescent. To the extent we behave with humility, to that extent there will result good. If the mind is rendered quiescent, one may live anywhere.

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ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
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私は誰か?(13)

13.
心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。 いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。


解説
「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」という問いをしていても、どうしても心が動き回り、周囲の状況に対して良い悪いと反応したり、感情にとらわれてしまったりしてしまう。心が静かになるどころではない。そういう人も多くいるだろう。
とにかく、常に自分の想念を観察することから始めることだ。何度感情に巻き込まれても、後悔の念にさいなまれても、それでも諦めずに自分の想念を観察し続けること。「そう考えているのは誰か?」と。
「そう考えているのは誰か?」という問いをとにかく続けることだ。そうすることで、少しずつ想念が破壊されていく。
「そう考えているのは誰か?」
この問いが、際限のない想念を拭い去るだろう。

原文
The residual impressions (thoughts) of objects appear wending like the waves of an ocean. When will all of them get destroyed? 

As the meditation on the Self rises higher and higher, the thoughts will get destroyed.

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