信心銘(十)

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うまくいかないと精神が疲れてしまうし、どうして良いとか悪いとか価値判断する必要があるのか。
本来の一体性と一つになろうと思うならば、感覚世界を否定してはならない。
感覚世界は否定しなければ、それはかえって正しい悟りなのだ。
本当の知恵があるものは作為がなく自然だが、愚かなものは自分の観念に縛られてしまう。

 

解説

本来の一体性にあるために、感覚世界を否定することはありません。自分の中に浮かび上がる感覚をそのままを見つめ感じていること、ただその感覚が通り過ぎていくのを見つめること、それこそが本来の在り方そのものなのです。
感覚にとらわれずにいることが、自分の中を通り抜けるすべての感覚を体験することになります。自分の中を通り抜ける感覚の一部に捕らわれ、それを掴んで離さないと、狭い感覚の中に埋没することになります。
良いとか悪いとかという価値判断は小さな概念作用が起こしていることです。物事が起こっていることについて誰が良いとか悪いとか判断しているのでしょうか。あなたの小さな自我です。現象自体が自分自身が良いとか悪いとかを言っているでしょうか?あなたが勝手に価値判断していることです。
良いとか悪いとかいうものは本当は存在しません。それは概念であり幻想です。感覚というのははただ変化し流れゆくものです。「自分」という感覚でさえ一つの観念であり幻想なのです。
すべての感覚や思考が変化していると知ると、すべてがあるべきところにあり、起こるべき時に起こり、それゆえにすべては完全であると知るのです。そして、すべてが完全であるというふうに生きるようになるのです。

 

原文

不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵
六塵不惡 還同正覺 智者無為 愚人自縛

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