スッタニパータ22・23

22.
牛飼いダニヤが言った、
「わたしの妻ゴーピは従順であり、欲望に心を震わせることがない。長い間ともに住んできたが、わたしの意に適っている。彼女にどんな悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
23.
師は言った、
「わたしの心は従順であり、解脱している。長い間修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

何かが意に敵っていることで心の平安を得ていること、それは心の平安を自分以外のものに頼っているということです。あることを善と設定するとき、無意識に悪を設定しているのです。意にかなっていることを善とし、それを心の平安の拠り所にするのは、「自分の心には平安がない」と自分で宣言しているようなものです。その頼っているものが頼れなくなった時には自分の平安も崩れます。
自分の心の状態がある状況に依存していると、その状況が変化した時に心の平安が崩れるという設定をしています。あることが良いという設定をすると、同時にあることが悪いという設定をしています。している本人は気づいていないことが多いのですが、無意識のうちに(自分で設定した)悪いことを避けようという思いを心の奥底に持ちます。
善という設定も悪という設定もしなくなったときに、初めて真の心の平安が現れるでしょう。

スッタニパータ20・21

20.
牛飼いダニヤが言った、
「ここには蚊や虻はいない。牛たちは牧草の茂った湿地で草を食んで歩む。雨が降っても、かれらは堪え忍ぶだろう。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
21.
師は言った、
「わたしの筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を離脱して、すでに渡りきって彼岸に到着している。もはや激流を渡るための筏は必要ない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

人というのはある条件によって、自分が幸せであるということを感じます。そしてその条件を一生懸命に維持しようと努力します。しかし、現実とは変化です。その条件が続くことはありません。
ただ、よく考えてみてください。ある条件によって引き出された幸せというのは、実はもともと自分の中に存在していたものです。自身の中にもともとある幸せという感覚がある条件によって引き出されているだけです。そんな条件を待っている必要はないのです。自分で自分の中にある幸せという感覚を出せばいいだけです。条件を維持する努力などいらないのです。自分の意識の中で自由に感覚を引き出せばいいだけなのです。条件に関係なく今ここで幸せであることができるのです。
今ここで完璧なのです。

スッタニパータ18・19

第2節 ダニヤ

18.
牛飼いダニヤが言った、
「わたしはもうご飯を炊いて、乳も搾ってしまった。わたしはマヒー河の岸のほとりに家族とともに住んでいる。わたしの家の屋根はよく葺かれているし、火も点され続けている。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
19.
師は言った、
「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿を借りるだけ。わたしの家の屋根の覆いはなくなり、欲情の火は消えている。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

人というのは、世間的に比較して自分が満足のいく衣食住を揃えて、それがあるから安心だと感じる。そうでない人を見て優越感さえ感じる。しかし、その心の奥底は不安に満ちています。
今持っている財産、家族、人間関係、名誉、仕事、収入、健康、知識、能力など、自身の幸せがそれらに依存していると、それを失った時には不幸のどん底に落とされるでしょう。それに依存していることで、失う不安をいつでも持っています。それなのに、人はそれらの所有物を躍起になって増やそうとします。
何かが自分のものであるという考えは、一種の妄想です。自分のものなど一つもないのです。それらは人生の借り物・道具・預かりものです。人は生まれた時には何も持っていません。すべては、自身の体を含めて、預かりものです。借り物です。それを知る人は、自身が預かっているものに感謝することでしょう。預かっているものを大切に有効に使うでしょう。使い終わったら手放すことでしょう。自分よりもその預かりものが必要な人がいれば、喜んでそれを手放し譲ることでしょう。それらはすべて体験のために与えられた道具です。この世に何持たずに来た私たちにとっては、すべての物事は感謝の対象でしかないのです。
生きていること、そこに起こるすべてのことは感謝の対象なのです。

スッタニパータ17

17.

五つの障害(欲求・怒り・怠惰・焦り・不安)を捨て、心が乱されず、疑いを超え、悲しみに飲み込まれることがないならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

欲求、情欲、怒り、悪意、怠惰、焦り、不穏、不信、疑い、不安、悲しみ、このような心の状態全てが、自我(観念)による「今ここ」からの分離、判断分別による純粋なエネルギーの流れの否定から生まれてきます。
自分の鏡である世界は、純粋な体験としてあります。それに飲み込まれると観念によって世界というものが自分と関係なく存在して、自分と関係なく変化しているように感じ、様々なドラマを生み出します。
ただ静かに在ると、心の反映である世界ではない、真の世界(自分と世界を生み出す意識そのもの)が姿を見せます。

スッタニパータ16

16.

人を輪廻の存在に縛りつける原因となる欲望が全くないならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

欲望があるところには、必ずその欲望を満たすことがセットとして存在します。
判断や分別が自分と世界を分離させるように、欲望や必要性は今ここの完全性を分離させます。「今ここ」では不完全で、ある未来の「今ここ」でその不完全性が満たされるであろう、という分離の観念を作り出しています。
欲望は新たな欲望を生み、そのために、永遠に終わることのない時間のループを作り出します。人が幾度も転生する所以です。
自分が作り出している欲望の本質も見抜くと、自分と世界が「今ここ」に統合され、ただ意識だけが存在することを知るでしょう。

スッタニパータ15

15.

この世に還る転生の縁となる不安や恐れが全くないならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

時間と空間を作り上げている観念の中では、「今ここ」が過去の「今ここ」における自分の在り方の結果であり、「今ここ」の在り方が未来の自分の状態の原因になります。いずれにせよ、「今ここ」だけが自分の全時空に働きかけることのできる場所なのです。
「今ここ」で自分の判断分別による不安や恐れを持ち、それによって世界が作り上げられると、自分で人生における問題を作り上げ自分でその問題を解決するゲームを行うことになります。
「今ここ」での在り方が全てを作り上げていると知ると、無駄な不安や恐れを手放します。すると、それが生み出している因果さえなくなります。そして「今ここ」からも自由になるのです。

スッタニパータ14

14.

判断分別の潜在的な習性がなくなり、観念の根を引き抜くならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

人は世界を見るとき、自分が考えて頭を働かせていると思っていますが、それはほとんどの場合習慣的な心の反応で自動的なものです。過去に繰り返してきた考え方の習慣を繰り返しているだけなのです。
まず自分で作り出している観念が、自分を取り巻く世界として目の前に映し出されているのだと知ること。世界に対して何か判断したら、その判断こそが自分自信の心の現れだと知ること。それから、世界の中での自分の「行為・思い・言葉」が世界を作り上げていたと知ること。
それらを知ることと、自と他、時間と空間という制限から外れることは同じことなのです。

スッタニパータ13

13.

先に行き過ぎることもなく、後に遅れることもなく、「この世の一切のものは実在しない」と知り、無知蒙昧から自由になるならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

自分の心の現れである世界に対して判断や分別を繰り返すことや真実を追求して観念を増やしていくことは、自分と世界に対する最初の幻想をさらに複雑にし、幻想世界のループに入り込みます。
一切が自分が作り上げた観念世界であると気づいた人は、判断や分別から離れ、作り上げた幻想世界から離れます。
そして、そこには意識の一体性が現れます。

スッタニパータ12

12.

先に行き過ぎることもなく、後に遅れることもなく、「この世の一切のものは実在しない」と知り、憎悪から自由になるならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

怒りや憎しみは、最初は自我が自己保存のために起こるエネルギーの停滞、変化に対して抵抗することから起こるエネルギー停滞です。実は自我は自分で自分を否定していることを奥底で知っています。しかし世界(それは真の世界ではなく、自我が鏡としてみている世界)は、自分を否定する現象を起こします。それは目の前の人であったり世間の出来事であったりします。自分が自分を否定していることを確認させてくれるのです。自我を必要以上に守ろうとする人は、自分で起こしている自己否定の現象を見せつけられると、自我を守ろうとそれに抵抗し、それを見せてくれた人や現象を攻撃します。自分で起こしている現象の再否定、それが怒りや憎しみのメカニズムです。

自分とそれを取り巻く世界は自分が作り上げたものだと知る人は、その世界を肯定も否定もしません。自分が意識を向けている現象と共にあるのです。

スッタニパータ11

11.

先に行き過ぎることもなく、後に遅れることもなく、「この世の一切のものは実在しない」と知り、欲情から自由になるならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

感情から生まれる激しい欲求はより複雑な分離感を生み出します。自分というものがあるという思い込みがなくなると、あえてそのような分離感を生み出す必要がなくなります。
自分と世界の分離を終わらせると、残るのは自分も他者もない「一」なる意識だけなのです。