スッタニパータ10

10.

先に行き過ぎることもなく、後に遅れることもなく、「この世の一切のものは実在しない」と知り、貪欲から自由になるならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

自分の体と心が自分だと思い、自分と世界を分離させるのをやめると、自分というものの不完全さがなくなります。
自分自身が実体のないものだと知らないと、自分自分は不完全で何かが不足しているという感情を生み出します。自分という存在の不完全性を完全にしようとし、心の不足感を埋めようとすることが強くなればなるほど現れる欲求も強くなります。
自分の体と心が自分だという思いを捨てると、自分と世界の分離がなくなり、同時に不完全な自分、不足した自分というものが消え去ります。
一切のものは実在しないと知ることは、完全も不完全もない、不足しているものもない、と知ること、満たすべき何ものも存在しないと知ることです。そこに貪欲さはありません。

スッタニパータ9

9.

先に行き過ぎることもなく、後に遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知るならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

自分自身を自分の体と心だと同一視していることが、自分の周囲の世界が現実世界だと思い込む原因になります。
自分の体と心が自分自身ではないと知ると、作り上げられたすべての感覚世界が実体のないものだと分かります。自分の体と心が自分だと思い込むことによって、一切の世界が認識されているのです。
一切のものは、自分というものを設定することから起こる派生物です。自分というものは無く、真の自分(真我)とは、自分というものを設定しているそのもの、意識そのものなのです。
意識そのものである時、自分も世界も幻想であると知るでしょう。

スッタニパータ8

8.

先に行き過ぎることもなく、後に遅れることもなく、すべての妄想を乗り越えるならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

自分で作り上げている想念にさらなる観念を付け加えて、慌てたり、躊躇したり、喜んだり、悲しんだり、安心したり、不安になったり、期待したり、後悔したり。このような思いはすべて最初の想念から派生してきます。これらの思いがすべて自分の妄想だと知り、それを乗り越えるならば、自分という観念さえ妄想だと知り、存在の生成消滅のサイクルを捨て去るでしょう。

 

 

スッタニパータ7

7.

湧き上がる想念をことごとく焼き尽くし、心の内で断ち切るならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

自分が世界や状況だと捉えているものが自分自信の思いの現れだと知ると、自分が起こすどんな想いも真実そのものではないと知ります。自分が起こしている想念が自分の幻想世界を創っていると知り、それを止めると、真の世界、存在そのものが現れます。自分が見ていなかったけれど、もともとそこにあったものが現れるのです。
全ては自分や他者という分離したものではなく、それを生み出すものであり生み出されるものであり、有であり無であり、存在、意識そのものなのです。

スッタニパータ6

6.

心に内にいかなる怒りもなく、繰り返される存在の生成消滅を超越するならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

心の状態は自分で作り上げていることを知ること。自分の心の中を自分で乱すことをしないこと。思い通りにならないことは自分の心が起こしていると知ること。状況に対して反応することは自分の心が作り上げていることを知ること。世界の見え方は全て自分の心の状態であると知ること。
そうすると、自分と他者を分離していた心が消え去り、自分という存在の生成消滅を超越し、意識という源にただ「在る」ことでしょう。

スッタニパータ5

5.

イチジクの樹々の中に花を探しても見つからないように、あらゆる状態の中に自己を探してもその存在が見えないならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

人は自分の存在の意味や証拠を、過去・現在・未来の中に見出そうとします。
自分はこんなことをした、自分はこんなものを持っていた、自分はこう思う、自分はこうなるんじゃないか、など。
自分とは何かと真剣に突き詰めると、自分というものが消え、観察の主体と客体を設定している「意識」だけが残ります。
意識が自分と自分以外を作ります。意識が自分と世界を作ります。意識が過去・現在・未来という時間を作ります。意識がこの世とあの世を作ります。意識がさまざまな道具を使って自分というストーリーを作ります。
作っているものと作られているもの、それら両方を合わせて「意識」なのです。
作るものと作られたものが同じものであると気づくこと、それが解脱であり悟りなのです。

スッタニパータ4

4.

激流が弱々しい葦の橋を押し流すように、高慢さを根こそぎ取り除くならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

自分が優れている、そういう考えはどこから来るのか観察してみることです。そうすると、自分の全てが自分以外のものに支えられていることがわかるでしょう。自分の存在は他の存在に支えられてのものです。
自分の体、能力、財産、人間関係、環境、全てが自分以外のものから得てきたものです。
生まれた時に自分のものだったものは一つもありません。死ぬ時にも自分のものだと思っているものは全て手放します。
自分があることに優れている、そのことは全て自分以外のものがあったからこそなのです。
自分が優れているという思いを完全に捨て去る時、それは自分は自分以外のものに支えられていることを知り、自分とその他の存在が一緒だと知り、そして、自分とその他の存在が一緒なら自分などない、あるのは意識だけだ、と知る時なのです。

 

スッタニパータ3

3.

激しく流れる川の水を枯らすように、欲望を跡形なく根元から断ってしまうならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

あれが欲しいこれが欲しいという欲望は、自分の心の中で不足感を設定することから起こります。自分で不足を作り自分でそれを満たそうとし、それがうまくいくと幸せになるという心の設定です。
それを続け、自分が設定していることを忘れてしまうと、自分で設定した不足が満たされない時には不幸になるということを起こします。

誰が不足を作り出したのでしょう。自分自身です。自分で作り出した不足感が欲望を生み出します。自分の外部に自分の内部を埋めてくれるものがあると信じてしまうのです。
もともと自分の中に不足はないのです。
自分に不足はなく満たすべきものなどない、そのままで完全である、と知ると、欲求を満たし続けようとする人生から離れます。
そして、すべてがこのままで完全なのだ、と知るでしょう。

スッタニパータ2

2.

水面に生える蓮華を水中にもぐって根茎から折るように、欲情を跡形なく根元から断ってしまうならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

自分の中から心から生まれる感覚的欲求を観察してみると、自分がその感覚的欲求に振り回されているのがわかります。自分が起こしている心(欲情)に自分が振り回されているとは、本末転倒ではないでしょうか。どちらが主人なのでしょうか。自分が心の主人ではないでしょうか。
自分がいつの間にか作り上げた心のプログラミングに振り回されているのに気づくことです。
心を観察してみてください。
誰がそれを起こしているのか?と

スッタニパータ1

第1章 蛇

第1節 蛇

1.
蛇の毒が身体に広がるのを薬で解消するように、こみ上げてきた怒りを解消するならば、そのような求道者は、あの世とこの世を行き来する輪廻転生を捨て去る。あたかも蛇が古い皮を脱皮して捨てるように。

解説

怒りというのは、自分で自分を傷つけること以外の何ものでもありません。
怒りというのは、自分の心の中で起こっていることです。
なぜ、自分で自分の心の中をメチャクチャにするのでしょうか。
「何々がこうだから、それで怒っている。」って。
あなたがそう怒っても(あなたが自分の心をぐちゃぐちゃに乱しても)状況は何も変わりません。
また、怒りを外に出せば、自分以外の人の心を乱すことにもなります。これはさらなる悪循環を生み出すことになるだけです。
怒りを解消する時、それは真我(意識)が自己という自分が設定した小さな枠の中から解き放たれることになります。設定から解き放たれると、時間と空間、自分と他人という意味づけからも解き放たれます。

そして、純粋な意識だけが存在するのです。