スッタニパータ 70

70.
執着の消滅を求めて、怠らず、明敏であり、常に学び、よく気づき、理法を明らかにし、自制し、努力して、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分の心が何に捕らわれているのかをいつも見ていること、自分が何を考えているのかをいつも観察していること、それが道にあることです。です。全ての観念は自分が作り上げていると気づくことです。
自分の心を見つめるのは、やはり一人の時が良いでしょう。他人といるときは造られた世界に巻き込まれて、自分の心を見つめる余裕がありません。一人でいるときほど、自分がどんな思いをしているのかを見つめることができます。自分の心がどんな状態なのかを容易に知ることができます。
一人でいて他者がいなくなった時、初めて全ては自分の心が創り上げているということを見ることができるのです。
ただ一人在ることです。ただ一人在るときに、世界は自分の心が創り上げていると知ることでしょう。そして自分がなくなり、自分が世界と一体となります。創造する意識が、創造された世界と一体となるでしょう。

スッタニパータ 69

69.
独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に真理に従って行い、生存に伴う苦難のことを知って、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

どんな時でも、自分の心を見つめる習慣をつけることです。自分を取り巻く世界を解釈することは必要ありません。
自分を取り巻く世界がどんな状態でも、それに巻き込まれずにいることです。意味付けしているのは自分なのですから。
生きるということは楽しいことも苦しいこともあるのですが、それは自分の心が作り上げているものを経験しているに過ぎません。
自分を取り巻く世界がどんなものであるかを創り上げているのは、まさに自分自身なのです。
どんな些細なことであれ、それは自分の心が想像(創造)していることを経験しているだけなのです。
自分という存在でさえ、心・意識が創造しているのです。
それを知ると、自分と思っていたものが消え、全てが一体である意識に溶け込むでしょう。

スッタニパータ 68

68.
最高の目的を達成するために努力精進し、こころがひるむことなく、行いに怠ることなく、確固たる努力をし、強さと賢さとを具え、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

この世に身体を持って生まれてきた目的とは、真の自分を知ることです。
つまり真の自分は身体としての自分ではなく、自分は全てになり得る存在であると知ること、自分は意識そのものであり、その意識が自分という存在、そして自分以外のもの全てを生み出していると知ることなのです。

最高の目的を達成するためにできることは、ただ一つ、自分自身を見つめることです。自分自身を知ること、自分がどんな在り方をしているかを常に見つめていることです。真の強さ、真の賢さというのは、自分自身を知る覚悟を持つということなのです。
関心や力を自分以外のものに向けるのではなく、全てのエネルギーを自分自身にそそぐこと、心を自分の心自体に向けることです。
心が心を見つめるようになる時、心は全ての中に溶け込みます。

 

スッタニパータ 67

67.
楽しみも苦しみも過去のものとして手放し、また快さも憂いもを手放して、清らかな平静と安らぎを得て、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

過去の事象に関する思い・印象というのは、設定した時空間のある一部分に関して、自分がどんな在り方をしているのかを表しているに過ぎません。
ある事象が良い、ある事象が悪い、ある事象が心地よい、ある事象が心地悪い、と、ただ事象に対して自分がどんな在り方をしているのかをしているのかを表しているに過ぎません。

出来事が良い悪いというのは、その出来事が良い悪いということではなくて、真実は自分がどんな在り方をしているかを表しているだけなのです。ある事象を定義した途端それはあなた自身がどんな人間であるかを宣言しているに過ぎないのです。

楽しみや苦しみ、心地よさや憂いを、自分自身が作り出したものと知り、真の自分はそれらを作り出している意識であることに気づくでしょう。

スッタニパータ 66

66.
こころの五つの覆い(欲望、怒り、倦怠、不安、疑い)を断ち切って、そこから付随して起こる煩悩を除き去り、なにものにも頼ることなく、愛着と憎しみの念を断ち切って、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

欲望、怒り、傲慢、倦怠、後悔、不安、疑い、このような感情は人の心身を傷つけ弱めることになります。これらは自分の心を乱し、身体の状態を悪くし、日常生活や人間関係にも支障をきたすこともあります。
このような感情は、世界と分離した自我が、自分が作り上げた観念を守ろうとする時に起こります。
自分で作り上げた自己についての観念が本当の自分だと考えてしまうと、一体性の中におらず、自分と他者という分離した観念の中で生きていきます。そして、分離している自我は、常に満たされない状態にいるので、その満たされない状態に反応する観念を生み出します。
一体性から分離している自我は、自分が生み出した観念が絶対的なものだと信じ、それを再現しようとします。それが欲望や怒り、後悔や不安という感情となって表れます。
このような感情が出てきた時には、自我が生み出した観念に囚われていると気づきましょう。それらの観念はすべて自分の心・意識が生み出していると知ることです。
ただただ、自分の中で何が起こっているのかを見つめるとき、すべては意識・心が造り上げていることを知るでしょう。

スッタニパータ 65

65.
味を貪ることなく、選り好みすることなく、他人から養われることなく、戸ごとに食を乞い、家々に心を縛られず、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

これが良い、あれが悪い。
これは美味しい、あれはまずい。
これが正しい、あれが間違っている。
自分は価値あるものに関係している、価値あるものを所有している。
このような、良いもの、美味しいもの、正しいもの、価値の良し悪し、それら自分の感覚を気持ちよくしてくれるものを求め依存することは、自我が作り上げた世界観・幻想を守ろうとすることに過ぎません。
世界に自分の意味を押し付けているだけなのです。
それらすべての価値判断は、自分が作り上げている世界がどんなものであるかを宣言しているかに過ぎません。
作り上げられた世界観、作り上げられた自己像が自分なのではありません。
それを作り上げているものこそが真の自分なのです。つくり上げれられた自己像が自分ではなく、作り上げている創造者が、真の自分=宇宙=すべて=存在、なのです。
現れている世界、宇宙、現象、自分、他人、これらすべては作り上げられたものです。そして、それらを作り上げているものこそ、真の自分=心=道なのです。

自分と考えているもの、それは一体誰が作り上げているのか。
それをしっかりと見つめる時、すべてが現れるでしょう。

スッタニパータ 64

64.
葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、家庭生活者の様々なしるしを捨て去って、袈裟を身にまとい、出家して、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

人が自分だと思っているもの、それら全ては自分ではありません。
自分の財産、自分の知識、自分の価値観、自分の名誉、自分の家族、自分の能力、自分の考え、そして、「自分」という概念、さらには、自分がそう考えている他人、状況、世界、それらも単なる自分の概念であり、自分ではありません。
それらは常に変化するエネルギーであるに過ぎません。
変化するエネルギーに囚われることなく在ること。そこに本当の「自分=全て」の世界があります。
世界はただ在る、自分もただ在る。
喜びも苦しみも同じであり、幸も不幸も同じ。
自分も自分以外の世界も同じものなのです。
全ては、ただ生成して、そして消滅していきます。
その生成と消滅は自分であり、自分の意識なのです。
それら全てにこだわらずに、手放し、ただ流れるままに在る。
そうすると、世界が自分で在ると知ることでしょう。

スッタニパータ 63

63.
眼差しは下方に向け、あちこちと移ろうことなく、様々な感覚器官を防いで守り、こころを護り、自我が外に流れ出ることなく、それに焼かれることもなく、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

目の前の現象、世界が自分にとってどんな見え方をしているのか、それは結局は自分の在り方を表しているに過ぎません。事象がどういうものかと解釈していること自体が自分がどういう人間かということを表現しているに過ぎないのです。
それは世界を表していることにはなりません、それは自分自身を表明しているだけなのです。
自分を取り巻く状況が悪い、誰々が悪い、世の中が悪い、これらは全て自分の心の在り方を表しています。良いという想いも同様です。自分が創り上げた世界観に自分が左右されることは、世界と自分との二極化をさらに強めることになり、世界観を複雑にします。
世界と自分が別々にあるのではなく、自分と世界は一つであり、自分というものは世界から切り取られた存在ではなく、世界そのものです。
自分という存在などないのです。
自分という思いがなくなり、解釈やレッテル張りがなくなると、本来の存在自体が見えるでしょう(一体になるでしょう)。
自分の世界に対する解釈に喜んだり苦しんだりすることもなくなり、ただただ在るがままの自分=世界だけが残るでしょう。
自分が創り上げた解釈=自分が考える世界、それに反応することなく、ただ今ここに在ること、それが真の自分=世界なのです。

 

スッタニパータ 62

62.
水の中の魚が網を破って河の中で自由になるように、また火がすでに焼きつくしたところに戻ってこないように、世の中の様々な執着を引き裂いて、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自由であること、それは自分がしたいことをするということではありません。自分の思った通りにするということではありません。
自由とは自分の心が創り上げたものから解放されるということです。あなた自身を含む全ての世界に対する解釈、反応、考え、それらは全て自分が創り上げたもので、それはいわゆる真実ではありません。それを捨てることです。自分が創り上げた世界観を手放すことです。自分というものがあるという思いさえ捨て去ることです。
自分というものがあるという思いを捨てると、そこから派生する考え、思い、解釈、反応、感情、それらが幻想であると知るでしょう。
自分というものがあるという根源的な執着を一度手放すと、自分というものが全体から分離したものではないこと、全体から離れた自分などというものはないこと、全体が自分、自分が全体であるということを知るでしょう。そして自分というものが変化する一つの観点、考え方でしかないということも知るでしょう。自分と同様、他人の観点、考えも変化する宇宙の一つの在り方であり、それも自分の一つの表れ、他人も自分、自分というものがない、自分も他人も同じ、ということを知るでしょう。
場所が違うと見る景色が違うように、ただ存在の視点が違うことが自分と他人というものを創り出しているということを知るでしょう。
自分という枠を破った時、全てが一体であること、自分が全てであると知るでしょう。

 

スッタニパータ 61

61.
「これは執著の対象だ。ここでの楽しみはほとんどなく、満足感もほとんどなく、結局は苦しみの方が多い。これは釣り針だ」と知って、賢者は、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分の考え、心というのは、自分が使う道具です。自分の思いは自分で創っているのです。どんなことが起こっていてもそれに対する解釈・思いは自分が創っています。
それが苦しいことであっても楽しいことであっても、恨みや後悔、執着や中毒などが起こります。自分が創り上げた考えに囚われることで、自分を縛ることになります。
怒りや苦しみ、楽しいことや満足感というのは、自分で創り上げた考えに囚われているだけだと気づいたとき、それを手放し自由になることでしょう。そこにはただ一人自分が、創り上げているものであり同時に創り上げられているものという自分が存在していると知るでしょう。
全ては「自分・存在」が創り上げ、外に映し出された自分を経験していると知るでしょう。
結果としての苦しみや不幸という状態は、自分の考えが自分の経験を創り上げていることを知らないこと、あるいは、自分が創り上げている世界を否定していることなのです。
自分が創り上げた考え・解釈にとらわれることをやめると、「意識」は創られた考えから自由になります。
全ては「自分=存在」が創造しているのです。
それを知るとき、自分が自分で無くなり、世界が自分、自分が全てであるということを同時に知るでしょう。