スッタニパータ 75

75.
人々は自分の利益のために交友関係を結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は得がたい。自分の利益だけを見ることは人々を不浄にする。ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

人は自分が不完全だと思うとき、自分を完全にしようとします。自分の中の空虚を埋めようとします。自分の心が創り上げた不完全性を、自分以外のもので自分を満たそうとしようとするのです。
ところが、それをしたとしても自分が完全になることはありません。常に自分以外のもので自分を満たそうとする経験が永遠と続きます。その経験は永遠に自分が不完全であるという確認をさせているだけなのです。
常に不安でいるので、その不安を解消しようとする行為に陥ります。
誰かの機嫌をとる、何か自分を安心させてくれるものに頼る、酒やタバコや常習的な行為に頼る、宗教や信仰に頼る、同じ不安を抱えている人間と共にいることで不安を忘れようとする、心を麻痺させる過剰な刺激を浴びる、名誉や地位を得ること内面の不安を覆い隠す、その他様々な方法で自分の不完全性を埋めようとします。

本当は、概念で創り上げられた自分という存在はは真の自分ではありません。それは作品にすぎません。描かれた絵なのです。ほんとうの自分は、その自分という存在を創り上げている意識・心そのものなのです。自分という絵を描いている意識・心が真の自分なのです。

創り上げられた世界にこだわらず、世界を創り上げている意識・心、それがほんとうのあなたです。
喜んだり悲しんだり、楽しんだり苦しんだり、そのような経験をしているあなた、それは創り上げられたものなのです。
それを創り上げているものに目を向けてください。

ほんとうのあなたは現れている結果ではありません。
それを創り上げている原因です。
全てを創造する原因なのです。

真のあなたは創造主・原因であり、創造物・結果ではありません。
結果に悩まされる必要はないのです。

ただ一人輝きなさい。そしてその輝きで世界を照らしなさい。

あなたが輝くと、全てが輝くでしょう。

スッタニパータ 74

74.
貪りと怒りと無知とを捨て、諸々の束縛を引き裂き、生命の消滅を恐れることなく、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

意識・心が自分の世界を創っているのを忘れると、自分の完全性を忘れ、自分の存在が不完全なもの欠点があるものだと思い込みます。
自分というのは何かが足りない、もっとあれが欲しいこれが欲しい、それがあったら幸せになれる、と考えます。
自分というのは全体的な存在ではなく小さな存在であると信じて、それが生み出す小さな価値観にこだわり、その小ささに気付いたとき、あるいは他人から指摘されたとき、怒りを覚えます。
自分の完全性から遠く離れ、意識・心が創り上げた世界に迷い込むとき、自分が何も知らないという錯覚に陥ります。

自分という制限された存在を信じていると、それに伴う制限された思いや体験を生み出します。
実は、自分の命、生命という観念でさえ、自分という制限された考えから生み出されたものなのです。観念は波の泡のように生まれては消えていきます。
波によって起こる泡のような自分という観念が、意識・心によって創られたものだと知り、自分という制限された思いから解き放たれたとき、全てが一つである意識・心が現れるでしょう。

スッタニパータ 73

73.
慈しみと、平静と、あわれみと、解脱と、喜びとを、時に応じて修め、世間すべてに妨げられることなく、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

全ては意識が創り出していると知る、自分の存在でさえ意識が創り出しています。
自分の存在が意識が創り出しているなら、その他の自分・身体、つまり他人が自分自身を自分だと思っていることでさえ意識・心が創り出しています。
しかし、それぞれの作り出された個々の自分・身体は、この世界では別々に存在するので他人と見なされます。
自分以外の他人、その他人が自分自身が創造物であることに気づいていない時、自分というのは創造されたものであることを忘れてしまったいる時、それに対する自分の感情は、それでいい、というものになります。
自分が意識から創造されたものであると気づいている時、他人が創り出したものに対しては、それでいい、そのままでいいというものになります。

そのままでいい、全ては意識・心が体験するために創造したものなのだから。
その時、自分が意識・心から創造されたものであると気づいている存在は、そうでない存在に対してさまざまな在り方を表わします。
悲しんでいる存在に対しては、慈しむことがそのままでいいという在り方になり、迷い苦しんでいる存在に対しては平静という在り方を示すかも知れません。
そして、全ては一つである意識・心が全てを創造し体験していることを知る存在に対しては喜びで応えるでしょう。

意識・心という創造主であり、それが自分を創造し、他人を創造していいると知っている時、創造されたものである他人やその他の生物、そして状況にさえ対して、全てはそれでいい、全ては完全だ、という在り方をするでしょう。

スッタニパータ 72

72.
強い歯牙を持つ獅子が、百獣の王として一切を征服して歩むように、辺境の坐臥所に親しみ、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

ライオンが百獣の王たり得るのはその牙の力のためである。
同様に、私たちが全ての王たり得る、つまり、全てを創造したり得るのは、その心の力のためである。

世界は意識が創り出したものです。身体も意識が創り上げたものです。全ては意識・心が創っています。自分という観念でさえ、意識・心が創造しているのです。
創り出した意識が最初です。創り出された世界や自分が最初ではないのです。
身体が自分ではないのです。身体を創り上げた意識が真の自分なのです。
物質の世界、時間の世界、それらは意識が創り上げたものです。

世界・身体をいくら探っても何も分かりません。世界・身体というものを創り上げた意識・心・真の自分というものを見ることです。創り上げている主体こそが真の自分なのです。
「私」とか「自分」というものは、意識が創り上げた一つの作品なのです。
意識が創造主・主体であり、私や自分は作品であり創造物なのです。
作品・創造物を創り上げている意識が真の自分です。
創り上げている意識が真の自分であり、それは全てであるのです。

自分以外のものを見つめるのではなく、自分を見つめてみましょう。
すると、そこに全てが現れるでしょう。

スッタニパータ 71

71.
どんな物音にも驚かない獅子のように、網を通り抜ける風のように、水によって汚されない蓮のように、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

現象というのは私たちの意識が作り出した結果です。自分たちが作り出した結果に反応するのは全くおかしなことです。自分が創造したものに驚いたり、喜んだり、苦しんだり、安心したり、そのように反応することはどれだけ滑稽なことでしょう。
この世で起こっている現象に意味をつけて反応しているのは自分であると知ること。さらに、その現象でさえ意識そのものが創り上げていると知ることです。
そのためには現象という創り上げられた結果を見るのではなく、それを作り出している自分というものを見つめることです。常に自分の心を見つめていることです。自分の心を見つめ、自分が創り出した意味に反応している自分を見つめることです。
現象に意味付けしそれに反応している自分を見つめることによって、全てを創造している自分に気づき、自分という存在でさえ意識が創り出していたと知るでしょう。
ただ、そこには意識がある。どんな存在にでもなれる意識があると知り、全ては意識が創り上げていてそれを自ら経験していると知るでしょう。

スッタニパータ 70

70.
執着の消滅を求めて、怠らず、明敏であり、常に学び、よく気づき、理法を明らかにし、自制し、努力して、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分の心が何に捕らわれているのかをいつも見ていること、自分が何を考えているのかをいつも観察していること、それが道にあることです。です。全ての観念は自分が作り上げていると気づくことです。
自分の心を見つめるのは、やはり一人の時が良いでしょう。他人といるときは造られた世界に巻き込まれて、自分の心を見つめる余裕がありません。一人でいるときほど、自分がどんな思いをしているのかを見つめることができます。自分の心がどんな状態なのかを容易に知ることができます。
一人でいて他者がいなくなった時、初めて全ては自分の心が創り上げているということを見ることができるのです。
ただ一人在ることです。ただ一人在るときに、世界は自分の心が創り上げていると知ることでしょう。そして自分がなくなり、自分が世界と一体となります。創造する意識が、創造された世界と一体となるでしょう。

スッタニパータ 69

69.
独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に真理に従って行い、生存に伴う苦難のことを知って、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

どんな時でも、自分の心を見つめる習慣をつけることです。自分を取り巻く世界を解釈することは必要ありません。
自分を取り巻く世界がどんな状態でも、それに巻き込まれずにいることです。意味付けしているのは自分なのですから。
生きるということは楽しいことも苦しいこともあるのですが、それは自分の心が作り上げているものを経験しているに過ぎません。
自分を取り巻く世界がどんなものであるかを創り上げているのは、まさに自分自身なのです。
どんな些細なことであれ、それは自分の心が想像(創造)していることを経験しているだけなのです。
自分という存在でさえ、心・意識が創造しているのです。
それを知ると、自分と思っていたものが消え、全てが一体である意識に溶け込むでしょう。

スッタニパータ 68

68.
最高の目的を達成するために努力精進し、こころがひるむことなく、行いに怠ることなく、確固たる努力をし、強さと賢さとを具え、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

この世に身体を持って生まれてきた目的とは、真の自分を知ることです。
つまり真の自分は身体としての自分ではなく、自分は全てになり得る存在であると知ること、自分は意識そのものであり、その意識が自分という存在、そして自分以外のもの全てを生み出していると知ることなのです。

最高の目的を達成するためにできることは、ただ一つ、自分自身を見つめることです。自分自身を知ること、自分がどんな在り方をしているかを常に見つめていることです。真の強さ、真の賢さというのは、自分自身を知る覚悟を持つということなのです。
関心や力を自分以外のものに向けるのではなく、全てのエネルギーを自分自身にそそぐこと、心を自分の心自体に向けることです。
心が心を見つめるようになる時、心は全ての中に溶け込みます。

 

スッタニパータ 67

67.
楽しみも苦しみも過去のものとして手放し、また快さも憂いもを手放して、清らかな平静と安らぎを得て、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

過去の事象に関する思い・印象というのは、設定した時空間のある一部分に関して、自分がどんな在り方をしているのかを表しているに過ぎません。
ある事象が良い、ある事象が悪い、ある事象が心地よい、ある事象が心地悪い、と、ただ事象に対して自分がどんな在り方をしているのかをしているのかを表しているに過ぎません。

出来事が良い悪いというのは、その出来事が良い悪いということではなくて、真実は自分がどんな在り方をしているかを表しているだけなのです。ある事象を定義した途端それはあなた自身がどんな人間であるかを宣言しているに過ぎないのです。

楽しみや苦しみ、心地よさや憂いを、自分自身が作り出したものと知り、真の自分はそれらを作り出している意識であることに気づくでしょう。

スッタニパータ 66

66.
こころの五つの覆い(欲望、怒り、倦怠、不安、疑い)を断ち切って、そこから付随して起こる煩悩を除き去り、なにものにも頼ることなく、愛着と憎しみの念を断ち切って、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

欲望、怒り、傲慢、倦怠、後悔、不安、疑い、このような感情は人の心身を傷つけ弱めることになります。これらは自分の心を乱し、身体の状態を悪くし、日常生活や人間関係にも支障をきたすこともあります。
このような感情は、世界と分離した自我が、自分が作り上げた観念を守ろうとする時に起こります。
自分で作り上げた自己についての観念が本当の自分だと考えてしまうと、一体性の中におらず、自分と他者という分離した観念の中で生きていきます。そして、分離している自我は、常に満たされない状態にいるので、その満たされない状態に反応する観念を生み出します。
一体性から分離している自我は、自分が生み出した観念が絶対的なものだと信じ、それを再現しようとします。それが欲望や怒り、後悔や不安という感情となって表れます。
このような感情が出てきた時には、自我が生み出した観念に囚われていると気づきましょう。それらの観念はすべて自分の心・意識が生み出していると知ることです。
ただただ、自分の中で何が起こっているのかを見つめるとき、すべては意識・心が造り上げていることを知るでしょう。