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一と多

私というものは何か?
私というのは意識であり心であるのですが、それは一つの幻想の在り方で、生成と消滅というドラマを繰り返しています。
それは、分離と統合、反感と共感、愛と不安、でもあります。

私は自身を体験するために、一(無、統合)から多(有、分離)という在り方をとります。
それは次のような繰り返しになります。

根本は一体なのですが、自と他の分離という認識によって他に映る自分を知覚し体験します。
これがあらゆる存在の段階で起こります。
この生成と消滅のおかげで、分離や統合、反感や共感、愛と不安が体験できるのです。
人間、動物、植物、鉱物、星も、銀河も、そして、宇宙もしかり。
そして、心での一体感や分離感、愛や不安、共感や反感もしかり。
これら相反する物事や在り方の両方とも必要なものなのです。
一方を否定するともう片方も否定することになるので、結局両方とも必要なのです。

愛が在るためには不安が必要なのです。
一体感を感じるためには分離感が必要なのです。
共感するには反感が必要なのです。
生徒がいなければ先生が必要ないように、患者がいなければ医者が要らないように、この宇宙には体験するために自分でないものが必要なのです。
ポジティブが存在するためにはネガティブが無ければならないのです。

すべての存在が自分と反対のものの認識を前提としています。
その無限の組み合わせの中から選択します。
そして、その選択した体験をし、それを十分に体験したら消滅(統合)します。

しかし、認識している裏では全てがつながっているので、そこには常に一体があります。
図(つまり認識)では薄いグレイ(一)と濃いグレイの丸の二つ(多)が見られますが、そのまわりの白い空白部分は私たちは認識していません。
認識していなくても一と多はいつでもつながっているのです。

これが生命・宇宙の経験のしかたです。
私たちはいつでも一体なのです。
一体というのは、ある意味パラドクスです。
そのことをいつも思い出して生きることです。

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