出し切っている君へ

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できるとか、できないとか、そんなことじゃないんだ。

知ってるとか、知らないとか、そんなことじゃないんだ。

持ってるとか、持ってないとか、そんなことじゃないんだ。

意味があるとか、意味がないとか、そんなことじゃないんだ。

そんなことじゃなくて、

今この瞬間に、君が一生懸命生きているかどうかなんだよ。

今日一日、君が一生懸命生きているかどうかなんだよ。

君が、今この瞬間に、全てを出し切ったかどうかなんだよ。

君が、今日、全てを出し切ったかどうかなんだよ。

出し切った人だけが、生きてるって感じるんだよ。

自分の全てを出し切った人だけが、

生きてるってことが何か分かるんだよ。

出し切っている君は、ほんとに素敵だよ。

一生懸命なあなたへ

一生懸命

 

一生懸命なあなたへ。

一生懸命なあなたは輝いています。
一生懸命なあなたは美しいです。

あなたは自分が輝いていることに気づいていないかも知れません。それどころか思い悩んでいるかも知れません。もがき苦しみながら進んでいるかも知れません。悲しみの中で一生懸命生きているのかも知れません。人があなたのしていることに何の評価もしないことに嫌気がさしているかも知れません。疲れきって希望を失う限界かも知れません。

しかし、それでも「私」は言います。

あなたは輝いています。

本当に美しく輝いています。

自分が出せる限りの力を使って、自分が持っている全ての知恵を使って、一生懸命生きている、そんなあなたは輝いています。
そういうあなたは「私」にとって、涙が出るほど美しいものなのです。

ですから、外側から見てどんなものであろうと、あなたらしく一生懸命生きてください。
格好悪くても、恥をかいても、笑われても、傷ついても、何があっても一生懸命でいてください。
行為の結果が悪く見えても、自分の一生懸命を捨てないでください。

一生懸命なときのあなたは、命の炎を燃やして輝いています。
その輝きはこの世で一番美しいものです。

忘れないでください。
他の全ての人がそれを知らなくても、「私」だけは知っています。

ダメだなんて思わないで。
あきらめないで。

一生懸命なあなたは、輝いています。

常にそう在れ

先日、人に話しかけられました。
「あの〜、少しお話伺っていいですか〜?」
「はい、なんでしょうか?」
「どうしたら、そんな柔軟性をつけられるんですか?」
、、、、

それからの会話は、その人は自分で何もやってないのに「人の話ではこうなんですが、本当のところどうなんですか?」「そのストレッチとかに関するいい本があれば教えてください」「本の出版社はどこですか?」「専門家はこう言ってますよ」「それは初心者には無理な気がしますが」、、、

私は、「その感じの本なら書店にたくさん並んでますよ。書店で本を探してみてください」と早々と会話を終わりにしました。

このような人は、現実世界でも、メールやSNS上でもたくさんいるようです。

さて、
「何々をできるようになるにはどうすればいいですか?」とか「何々を教えてくれませんか?」と簡単に他人に聞く人は絶対うまく行きません!!!

これは、本当に普通の人がしていることなので、「聞いちゃいけないの?」と思うかもしれません。何かしたいことがある時、何か目標がある時、こうなりたいああなりたい、という時、自分よりも知ってる人に聞くのは当たり前と思うかもしれません。
しかし、本当にしたいことがあるなら、これをすると逆効果です。
こういう人は、うまくいきません。

理由1
質問に答える相手の時間を奪っているのを分かっていない。それさえ分かっていない人に深い話をしてくれる人はほとんどいません。質問に答えてもらえるかどうかよりも嫌われる可能性が高いです。

理由2
他人に自分のことを聞く癖があるので、その人は自分の人生に責任を持っていません。聞いたところでその情報を使えない(使わない)ので上手くいきません。どれだけいい情報が入っても「それは自分には合わない」「今は時期じゃない」などと言い訳する傾向にあります。

解決策
自分から調べよう、真似しよう、行動しよう、といつも努力していることです。「努力」というのは無理をするということではなく、自分でできる努力です。毎日のどこかの時間、5分でも毎日すること、もちろんできる人は24時間考えて工夫をすることです。
何かができるようになる、何かになる、というのは、そのしていることが習慣になっているということです。そういう習慣の人には同じような習慣を持っている人が近づいてきます。情報も自然に入ってきます。

何かができている、というのは、それが考えなくてもできるということです。考えなくてもできるようになるには、それができるようになるまで考え続けやり続けることなのです。
考えて考えて、やってやって、やり続けることなのです。
現状がどんなでもそれに惑わされないこと、動揺しないで続けることです。

なりたい自分になるというのは、それは毎日、普段、通常、24時間、何をしているかだけの問題なのです。
考えては行動し、行動しては修正し、修正しながら考えて、そういうあり方をするだけなのです。

もう一度言います。

他人に簡単に聞く人は絶対にうまく行きません!!!

どんな自分になりたいかは、「毎日、どんな瞬間でも、そういう生き方をしているか?」ということなのです。

何かで成功したかったら、そういう人間でいつもいられるかどうかです。

何かになりたかったら、24時間そのことだけをやってるかどうか、なのです。

すごい人の話を一回聞いても意味はないです。
すごい講座とかを受けても意味はないです。
毎日、毎日、1ヶ月、一年、3年、10年、いつもその生き方をできるかどうかなのです。

こう言っても、これを始めても普通の人は、本当に持っても3年くらいでやめます。

はっきり言って、3年できればかなり人間が変わってきます。
3ヶ月でも少しの結果は見えてきます。これがモチベーションになることもあります。しかし、モチベーションだけでは続けられません。それくらい人間の修正は変えられないのです。
3年続けましょう。

変化が見えてもほとんどの人があきらめます。

変化が見えても、「お、自分、変化してる」という思いに囚われないで、続けることです。
そういう人だけが10年、20年続けることができて、人生の習慣にまでなります。

長く書きましたが、ここで言いたいのは、
今の自分は習慣の結果でしかない、ということです。

自分が普段考えていて習慣になっていることが、自分を作り上げている、ということです。

いつも考えていること、それがあなたの在り方、なのです。

時々、何かを変えてもあなたは変わりません。
変わるのなら、常にそう在る、ことなのです。
ただただそう在る、ことなのです。

常にそう在れ!!!

私は誰か?(28)完

28.
解脱とは何でしょうか?

束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。


解説
世界、考え、感情、感覚、私、などの想念から解き放たれること、これが解脱だ。
「そう考えているのは誰か?」と問うことで、世界、考え、感情、感覚、意味、宇宙、その他のあらゆる想念は私が起こしていることを知る。そして私以外の想念しか残らなくなり、さらに「私は誰か?」と問うことで、私という想念でさえ消え去る。

私の体が私だと思うと、同時に自分以外の無数の体が他人として現れる。私の考えが私だと思うと、同時に無数の考えが存在するように考える。想念に自分を同化すると、たちまち世界や人といった様々な存在が現れるのだ。
想念が消え去ると、想念に同化していた私という想念もなくなる。そこには真の実在である真我がある。

「私は誰か?」
これが最後の問いだ。

原文
What is release?

Inquiring into the nature of one’s self that is in bondage, and realizing one’s true nature is release. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(27)

27.
探究と瞑想の違いは何でしょうか?

探究とは、真我の中に心をとどめておくことである。瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在―意識―至福であると思いなすことである。


解説

物事や現象世界を追求することは探求ではない。物事や世界は心により創られた想念だ。心が創りあげている世界を調べても、真の実在である真我は現れない。想念に捉われず、心を真我に固定しておく、これが本当の探求になる。
想念で溢れているうちは、一つの想念に心を集中すること。それは例えば、愛、至福、神、真我、道、私、存在、その他何でも良い。ひとつ選んだ想念に集中することによって、他の想念が消え去るだろう。一つの想念に集中すること、それが瞑想だ。
探求にせよ瞑想にせよ、最後には、心自体が消え去り、最後の一つの想念も消え去る。
探求も瞑想も、想念を消し去り、真の実在である真我に至る手段でしかない。探求も想念も最後には必要がなくなるだろう。

原文
What is the difference between inquiry and meditation?

Inquiry consists in retaining the mind in the Self. Meditation consists in thinking that one’s self is Brahman, existence-consciousness-bliss.

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(26)

26.
無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。智慧とは、何の対象物も現われないことを意味している。言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我を決して離れないことが智慧である。

解説
無欲というのは心が対象物に向かい、それに執着することだ。対象物というのは、物事、世界、感覚、感情、考え、私、これらの全てだ。これらの全てに心が向かうことを差し控えることが無欲だ。これは想念を手放すということと全く同じものだ。
智慧とは、心に実在ではないものが現れないことだ。実在ではないものが現れないとは、つまり、物事、世界、感覚、感情、考え、私、これらが現れないことだ。これらが心に現れないとは、真の実在である真我であることだ。
無欲・無執着と智慧は同じものだ。
どちらも実在である真我であることだ。

「そう考えているのは誰か?」と問い、想念を手放していき、「私は誰か?」と問うことで最後の想念が消え去る。
そして、想念が覆っていたものが現れるだろう。

原文
What is the relation between desirelessness and wisdom? 

Desirelessness is wisdom. The two are not different; they are the same. Desirelessness is refraining from turning the mind towards any object. Wisdom means the appearance of no object. In other words, not seeking what is other than the Self is detachment or desirelessness; not leaving the Self is wisdom. 

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あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(25)

25.
洞察力(ジニャーナ―ドリシュティ)とは何でしょうか?

静寂にあることが洞察力と呼ばれるものである。静寂にあるということは、真我の中に心を帰り着かせることである。過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。


解説
真の洞察力とはどういうものか。
真の洞察力とは世界が想念であると知ることだ。
過去を見たり、未来を予言したり、離れたところで起こっていることを見たり、というテレパシーや透視は、真の洞察力ではない。それらは単に想念の一部だ。想念を見ていることの延長でしかない。
同様に、その他の超能力のようなものも真の力ではない。テレポート、念動力、空中浮揚、未来予知、幽体離脱、瞬間移動、これらは全て想念の世界の一部でしかない。これらに意識を置くことは想念を増やし強化し、真の洞察力を覆い隠す。

真の洞察力とは、世界や物事の本質を見て、それが想念であることを知り、想念が静かになることだ。想念が静かになれば、自然と静寂が訪れる。
静寂が、真の実在である真我である。

原文
What is wisdom-insight (jnana-drsti)? 

Remaining quiet is what is called wisdom-insight. To remain quiet is to resolve the mind in the Self. Telepathy, knowing past, present and future happenings and clairvoyance do not constitute wisdom-insight. 

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ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
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私は誰か?(24)

24.
幸福とは何でしょうか? 

幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。世界のいかなるものごとの中にも幸福はない。我々は無智ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出て行くと、不幸を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは得たいと願っていたものが得られたり嫌っていたものが消え去ったりしたときには心は内面に向かい、純粋な真我を楽しむのである。このように心は休むことなく動き回り真我からさまよい出ては、また戻ってくるということを繰り返している。木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。灼熱の太陽の中を歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ猛暑の中を行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に無智な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさまよい歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき心は幸福を体験するのである。世界が現われると、不幸を味わうのである。


解説
幸福とは実在である真我の本姓だ。
世界に取り囲まれた私というものがある時は幸福はない。世界という想念が消え去る時に自然に幸福である。
世界という想念の中では幸福は想念の下に隠される。想念は生まれたり消えたりしているが、それらの想念が生まれる時には真我を見失うので幸福を隠している。想念が何かの拍子で無くなった時に真我が現れる。欲求が満たされた時や不安が解消された時、その時心は内面に向かい、次の想念が浮かび上がるまでしばらくは幸福の中にいる。
現れる想念がどんな想念であれ、そこに幸福はない。想念の中で幸福探しをしてはいけない。想念を離れたところが幸福なのだ。
実在としての真我は常在だ。太陽が雲に隠れていても常に輝いているように、幸福は常にここに輝いているのだ。

原文
What is happiness?

Happiness is the very nature of the Self; happiness and the Self are not different. There is no happiness in any object of the world. We imagine through our ignorance that we derive happiness from objects. When the mind goes out, it experiences misery. In truth, when its desires are fulfilled, it returns to its own place and enjoys the happiness that is the Self. Similarly, in the states of sleep, samadhi and fainting, and when the object desired is obtained or the object disliked is removed, the mind becomes inward-turned, and enjoys pure Self-Happiness. Thus the mind moves without rest alternately going out of the Self and returning to it. Under the tree the shade is pleasant; out in the open the heat is scorching. A person who has been going about in the sun feels cool when he reaches the shade. Someone who keeps on going from the shade into the sun and then back into the shade is a fool. A wise man stays permanently in the shade. Similarly, the mind of the one who knows the truth does not leave Brahman. The mind of the ignorant, on the contrary, revolves in the world, feeling miserable, and for a little time returns to Brahman to experience happiness. In fact, what is called the world is only thought. When the world disappears, i.e. when there is no thought, the mind experiences happiness; and when the world appears, it goes through misery. 

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あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻


私は誰か?(23)

23.
解脱を願うものにとって、本を読むことにはどんな価値があるでしょうか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが聖典の最終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問い続けるべきである。この探究がどうして書物の中でできるだろうか?人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は五つの鞘の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物の中に求めるのは無駄なことである。いずれは学んだことすべてを忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

訳注5  
五つの鞘:パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘
 アンナーマヤ・コーシャ、身体の鞘。
 プラーナーマヤ・コーシャ、生気の鞘。
 マノマヤ・コーシャ、心の鞘。
 ヴィジーニャーナマヤ・コーシャ、知性の鞘。
 アーナンダマヤ・コーシャ、至福の鞘。


解説
全ての聖典の共通する目的は、自分自身の心を静かにさせ、世界が想念であると知ることだ。
世界が実在と感じ、想念に振り回されている時には、聖典を読むことは価値があるだろう。世界が想念であると知り、自分の体や考えが私ではないと知れば、聖典の役割は終わる。
様々な想念が消え去り、最終的に「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」という問いに至れば、書物は必要がない。
聖典は言わば、梯子のようなものだ。登り終わった後には梯子は必要がないのと同様に、世界が想念であることを知れば聖典は必要がない。
目的地にいる人に地図が必要がないように、聖典も実在である真我にある人には必要がない。

原文
Is it any use reading books for those who long for release?

All the texts say that in order to gain release one should render the mind quiescent; therefore their conclusive teaching is that the mind should be rendered quiescent; once this has been understood there is no need for endless reading. In order to quieten the mind one has only to inquire within oneself what one’s Self is; how could this search be done in books? One should know one’s Self with one’s own eye of wisdom. The Self is within the five sheaths; but books are outside them. Since the Self has to be inquired into by discarding the five sheaths, it is futile to search for it in books. There will come a time when one will have to forget all that one has learned.

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ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(22)

22.
目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

目覚めている間は長く、夢を見ている時間は短い。これより他に何の違いもない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢の中では真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも想念、名前、形は同時に現われるのである。


解説
夢の世界は想念の世界だ。誰もが目覚めた時に夢の世界が現実ではないと分かる。しかし夢を見ている間はそれが現実として起こっているように見える。目が覚めれば夢の中のどの要素も真実ではないと知る。
夢が真実ではないように、目が覚めている時のこの世界も真実ではない。様々な人や物質が現れているように見えるが、全ては心の中で作られた想念の塊だ。
夢が覚めた途端にその世界が消えてしまうように、実在である真我が現れた時は私という想念とともに、私を取り囲んでいた全ての世界は消え去る。

原文
Is there no difference between waking and dream? 

Waking is long and a dream short; other than this there is no difference. Just as waking happenings seem real while awake. so do those in a dream while dreaming. In dream the mind takes on another body. In both waking and dream states thoughts. names and forms occur simultaneously. 

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