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常の道とは

『老子(道徳経)』では、最初に「常の道」である世界の始原について言及しています。

「道可道、非常道。」

『道』というのは、一体何のことなのでしょう。

神道の言葉に「カムナガラ」(「惟神、随神」などと書きます)という言葉があります。

「カミの御心のままに、カミそのままに」という意味です(西洋の神、GODではありません)が、そこでは「私」という限定された小さな意識というものは消えてしまうのです。「私」という限定された意識が消え、それを支えている始原である「道」にまで意識が広がり、それと一体となる経験なのです。「私」という存在を超えた意識があるのです。
意味や評価、解釈や分析、成功や失敗にとらわれていると、それは「私」という自我がいつでも道を経験することを邪魔するのです。

経験の善し悪しや意味の分析が問題のなのではないのです。経験そのものと一体となっているかが問題なのです。
実は体験、経験そのものが『常の道』なのです。カムナガラとは「私」というものが経験と一体となった経験のことなのです。経験と一体となることが、神道で言う「カミの御心」とともに在ることなのです。
解釈しようとする途端に「私」が現れ、経験から離れることになるのです。
解釈せずに経験を受け入れ(感謝とともに受け入れる)、今ここにいる。
感謝とともに経験一体となる。それが「カムナガラ」なのです。

そして、それこそが『道』なのです。

日常において『道』から離れていると、「私は」という表現が多くなるようです。
「私が」、「俺が」とか、「自分はこう思う」とか、あるいは「あなた」や『あの人」という二人称や三人称も、実は「私が」という一人称があるから生まれた表現です。
「自分が」があるから、その相対をなす「あなた」などが出てくるのです。

「道」である時は、せいぜい「すべて」や「私たち」という言い方になるのでしょう。
いいえ、そんな言葉さえ出てこないでしょう。

そこに在るのは、生きていることへの感謝の行為だけです。
すべてを包み込むような、すべてと一体となっている意識だけなのです。

そこから出てくる言葉は、ただただ「ありがとうございます」だけです。

ありがとうございます。

老子

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