私は誰か?(21)

21.
解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素を探究する必要はあるのでしょうか?

ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したりそれが何であるか調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても意識の性質を調べたり、その構成要素を分析して数えたりする必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素のすべてを払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。


解説

意識というものが全て想念の集まりだと知っているなら、想念について探求する必要があるだろうか?
世界が想念であると知っているのに、その想念である世界を探求する必要はない。自分が作り上げている想念をなぜ自分が探求する必要ははい。自分が作り上げていると知り、単にそれを手放せばよい。
想念を手放すこと。それによって実在である真我が現れる。真我を熱望するのになぜ想念を手放さず、さらに想念を探求することは、真我をさらに覆い隠すことになる。
真我が現れるには、常に沸きあがる想念を捨て去ることだ。沸きあがる瞬間に捨て去ることだ。「そう考えているのは誰か?」、さらに「私は誰か?」と問い続けること。
私が消える時、私が覆っていた真我が姿を現すだろう。


原文
Is it necessary for one who longs for release to inquire into the nature of categories (tattvas)?

Just as one who wants to throw away garbage has no need to analyse it and see what it is, so one who wants to know the Self has no need to count the number of categories or inquire into their characteristics; what he has to do is to reject altogether the categories that hide the Self. The world should be considered like a dream. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(20)

20.
神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

神やグルは解放への道を示すだけだろう。神やグルが人を解脱の状態に連れて行くわけではない。実際は神とグルとは異なるものではない。トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないようにグルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ見捨てられることはないだろう。けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め解脱に達しなければならない。人はただ自分の智慧の目によってのみ、自分自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?


解説
神の信仰やグル(精神的指導者)の指導のもとにいるだけでは、実在に至ることはできない。これらは単なる実在への指標だ。私がどこに向かえば良いのかだけを示してくれるものだ。
神であろうがグルであろうが、実はすべてが自分が作り上げてる想念だ。実在に至るとそれらの想念もすべて消え去る。

実は、起こっていることはすべて真我への道、指標であると言える。起こっていることがすべて自分が起こしている想念であるなら、それらを消し去ることが道になるからだ。つまり、起こっているどんな想念であれ、それらを消し去ることで真我への道になるのだ。
真我は自分以外のものを消去していくことによってのみ現れる。目的地に着いたら地図は必要がないのと同じで、神であれグルであれ、すべての想念は、実在のもとでは必要がない。

「そう考えているのは誰か?」
「私は誰か?」

これらが最後の指標になる。

原文
Is it not possible for God and the Guru to effect the release of a soul? 

God and the Guru will only show the way to release; they will not by themselves take the soul to the state of release. In truth, God and the Guru are not different. Just as the prey which has fallen into the jaws of a tiger has no escape, so those who have come within the ambit of the Guru’s gracious look will be saved by the Guru and will not get lost; yet, each one should by his own effort pursue the path shown by God or Guru and gain release. One can know oneself only with one’s own eye of knowledge, and not with somebody else’s. Does he who is Rama require the help of a mirror to know that he is Rama? 

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ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
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私は誰か?(19)

19.
無執着とはどういうことでしょうか?

想念が起こると共に、その起こったまさにその場所で、あますことなく完全に消滅させること、それが無執着である。真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように誰もが無執着と共に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。


解説
無執着というのは、特定の物事に執着しないということではない。過去の記憶や後悔などの自分を苦しめる考えだけを手放すということではない。自分の中に起こってるくる考え、感情、感覚、言葉、行為、これらすべての想念を手放すことだ。
壮大な考え、美しい感情、完璧な理論、悟り、神、感謝、このような想念は一見美しく見えるが、これらは自我をさらに膨らます強力な想念だ。こういうものこそ手放すこと。それらすべてを消滅させること。
「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」こう問い続けること。
それによって私という想念が最後に消え去る。

原文
What is non-attachment?

As thoughts arise, destroying them utterly without any residue in the very place of their origin is non-attachment. Just as the pearl-diver ties a stone to his waist, sinks to the bottom of the sea and there takes the pearls, so each one of us should be endowed with non-attachment, dive within oneself and obtain the Self-Pearl. 

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私は誰か?(18)

18.
帰依者の中で最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?我々は列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい。


解説
真我が姿を現すためには、人は一体どんな状態でいればよいのか。
それは自我がない状態だ。私という想念でさえないことだ。
想念によって想念を無くそうとしてはいけない。想念の上塗りになるだけだ。「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」という問いを続けることで、問い自体を起こしている私という想念自体が消え去る。
私というものが存在していたという想念は消え去り、私が行動していたという想念も消え去り、私が生まれ死にゆくという想念も消え去る。私という想念が消え去ると私が抱え込んでいた様々な想念が消え去る。
ただ在るのは実在である真我だ。

原文
Of the devotees, who is the greatest? 

He who gives himself up to the Self that is God is the most excellent devotee. Giving one’s self up to God means remaining constantly in the Self without giving room for the rise of any thoughts other than that of the Self. Whatever burdens are thrown on God, He bears them. Since the supreme power of God makes all things move, why should we, without submitting ourselves to it, constantly worry ourselves with thoughts as to what should be done and how, and what should not be done and how not? We know that the train carries all loads, so after getting on it why should we carry our small luggage on our head to our discomfort, instead of putting it down in the train and feeling at ease? 

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私は誰か?(17)

17.
すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。太陽がただそこに存在するだけで日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人々が三つの宇宙的機能や五つの神聖な活動に支配され、それぞれのカルマに従って行為し、そして休息するのはただ神が存在しているという美徳によるものである。神は何の意思も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。それは、世間の行為が太陽に影響を与えず、すべてに遍在するエーテル(虚空)が他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

訳注3 
三つの宇宙的機能:創造、維持、破壊

訳注4 
五つの神聖な活動:
パンチャ・ヤジュニャと呼ばれるヒンドゥー教徒の義務。
1、「ヴェーダ」の学習
2、祖霊への食物の供養
3、ホーマの献火
4、すべての生き物への食物の供養
5、人間への供養


解説
全ての考えは想念だ。神が全てをなしているということでさえ考えないことだ。実在はどんな想念にも影響されない。想念の世界ではあらゆるものが現れる。その現れ方は無限だ。無限の現れ方は実在に支えられている。実在である真我があらゆる想念世界が現れることを可能にしている。
スクリーンに現れる映像によってスクリーンが影響されないように、実在は想念に影響されない。ただ実在である真我が、全ての想念が現れ消えることを可能にしている。


原文
Is not everything the work of God?

Without desire, resolve, or effort, the sun rises; and in its mere presence, the sun-stone emits fire, the lotus blooms, water evaporates; people perform their various functions and then rest. Just as in the presence of the magnet the needle moves, it is by virtue of the mere presence of God that the souls governed by the three (cosmic) functions or the fivefold divine activity perform their actions and then rest, in accordance with their respective karmas. God has no resolve; no karma attaches itself to Him. That is like worldly actions not affecting the sun, or like the merits and demerits of the other four elements not affecting all pervading space. 

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私は誰か?(16)

16.
真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、真我の内に現われるものである。これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。「私」という想念が絶対にないところ、それが真我であるそれは沈黙と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。


解説
真我と名付けられるものは、実はない。
真に在るのは真我だけなのだ。
世界、私、思考、感情、感覚、知覚、心、現象、科学、宗教、神、物質、生命、色、形、空間、時間、宇宙、素粒子、エネルギー、善悪、苦楽、美醜、幸不幸、どんなものも「私」のなかに浮かんでくる想念で在ると気づき、私というものも想念であると気づくとき、全ての想念が同時に消え去る。
真我でないものを全て否定し捨て去る時、在るのは真我だけだ。

原文
What is the nature of the Self?

What exists in truth is the Self alone. The world, the individual soul, and God are appearances in it. like silver in mother-of-pearl, these three appear at the same time, and disappear at the same time. The Self is that where there is absolutely no “I” thought. That is called “Silence”. The Self itself is the world; the Self itself is “I”; the Self itself is God; all is Siva, the Self. 

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私は誰か?(15)

15.
探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?

心の中にものごとの印象がある限り、「私は誰か?」と尋ねなければならない。想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって破壊されるべきである。もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めばそれだけで想念は消滅するだろう。要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば要塞は我々の手中に落ちるだろう。


解説
想念を捨て去りきるためにはどれくらいの期間を要するのか?
それは時間の問題ではない。真剣さの問題だ。常に想念を捨てることだ。
常に起こってくる想念の源を見つめること。どんな想念であれ、それがどこから起こっているのかを見つめること。それだけが想念が実在ではないことを見破る。
「真我に至るにはどれくらいの探求の期間が必要なのか?」という想念でさえ捨て去ること。どんな瞬間も起こってくる想念を見つめる真剣さにより、実在である真我が姿を現すことになる。
「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」という問いを続けることで、その問いでさえ消え去るだろう。
全ての想念が消えた時、実在である真我が姿を現す。

原文
How long should inquiry be practiced?

As long as there are impressions of objects in the mind, so long the inquiry “Who am I?” is required. As thoughts arise they should be destroyed then and there in the very place of their origin, through inquiry. If one resorts to contemplation of the Self unintermittently, until the Self is gained, that alone would do. As long as there are enemies within the fortress, they will continue to sally forth; if they are destroyed as they emerge, the fortress will fall into our hands. 

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私は誰か?(14)

14.
数知れない過去生から蓄積されてきた心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく真我への瞑想を続けるべきである。たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。心はただひとつだ。幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく心に刻まれる印象である。心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう戒められなければならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。自己が現われると、すべてが立ち現われ自己が静まれば、すべては静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。


解説
過去や過去生というものは、体や世界という想念と同じく、時間という想念の中で作られたもう一つの想念だ。それは過去の自分というものがいるという想念に囚われている自分がいるということだ。
「そう考えているのは誰か?」と問うことで、時間と空間という想念に囚われている自分に気づくだろう。
過去の不快な経験に囚われていたり、自我が強すぎるために感情的になるひとは、「そう考えているのは誰か?」という問いさえできないことがある。その時は瞬間に引き起こされる想念から離れ、より安心な想念に置き換えることから始める必要があるかもしれない。しかし、そのより良いと思われる想念もいずれは捨て去り、どんな種類の想念にも囚われないようにすることだ。
良い悪いという判断は、どんなものであれ自分が押し付けている想念である。それはただ自分の頭の中に起こっている想念だ。悪い想念を捨て去ることだ。そして、良い想念でさえも捨て去ることだ。
どんな壮大な、どんな偉大な、どんな神聖な想念でさえも、それは単なる幻想だ。全ての想念を捨て去ること。
真実でないものを全て否定し捨て去ること、それだけが真我が現れる方法だ。


原文
Is it possible for the residual impressions of objects that come from beginningless time, as it were, to be resolved, and for one to remain as the pure Self?

Without yielding to the doubt “Is it possible, or not?”, one should persistently hold on to the meditation on the Self. Even if one be a great sinner, one should not worry and weep “O! I am a sinner, how can I be saved?”; one should completely renounce the thought “I am a sinner”; and concentrate keenly on meditation on the Self; then, one would surely succeed. There are not two minds – one good and the other evil; the mind is only one. It is the residual impressions that are of two kinds – auspicious and inauspicious. When the mind is under the influence of auspicious impressions it is called good; and when it is under the influence of inauspicious impressions it is regarded as evil.
The mind should not be allowed to wander towards worldly objects and what concerns other people. However bad other people may be, one should bear no hatred for them. Both desire and hatred should be eschewed. All that one gives to others one gives to one’s self. If this truth is understood who will not give to others? When one’s self arises all arises; when one’s self becomes quiescent all becomes quiescent. To the extent we behave with humility, to that extent there will result good. If the mind is rendered quiescent, one may live anywhere.

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ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
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私は誰か?(13)

13.
心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。 いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。


解説
「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」という問いをしていても、どうしても心が動き回り、周囲の状況に対して良い悪いと反応したり、感情にとらわれてしまったりしてしまう。心が静かになるどころではない。そういう人も多くいるだろう。
とにかく、常に自分の想念を観察することから始めることだ。何度感情に巻き込まれても、後悔の念にさいなまれても、それでも諦めずに自分の想念を観察し続けること。「そう考えているのは誰か?」と。
「そう考えているのは誰か?」という問いをとにかく続けることだ。そうすることで、少しずつ想念が破壊されていく。
「そう考えているのは誰か?」
この問いが、際限のない想念を拭い去るだろう。

原文
The residual impressions (thoughts) of objects appear wending like the waves of an ocean. When will all of them get destroyed? 

As the meditation on the Self rises higher and higher, the thoughts will get destroyed.

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私は誰か?(12)

12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

探究以外に適切な方法はない。他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで再び勢いを増して現われるだろう。呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間のことだけであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。心も呼吸も、その源は同じである。想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念でありそれが自我性である。自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。そのため、心が静かになれば呼吸も制御され呼吸が制御されれば心も制御される。けれども深い眠りの中では、心は静かでありながら呼吸は止まっていない。これは、身体が維持されるようにそして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。目覚めの状態とサマーディにあっては心が静まっていれば呼吸は制御されている。呼吸は心の粗大な姿である。死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も心を静める助けに過ぎない。神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて心は一点に集中される。心は常にさまよい続けるだろう。鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。すべての規則制限の中でも適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が最上のものである。これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我探究の助けとなるだろう。


解説

想念の世界を終わらせるには「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」と問い続けることだ。それ以外の方法は、結局は想念を想念で抑えることになり、想念がさらに勢いづくだろう。
想念が想念であると気づくには、「そう考えているのは誰か?」という問いによって、全ての想念を私というものに帰結させることしかない。想念は全て私から生まれているということを知るためだ。
真我が現れるには、それを見つけようとすると失敗するだろう。ただ真我ではないものを否定していくことだけが方法だ。
真我ではないものを否定してのぞいていく、そのためには想念の源を追求することが最初だ。「そう考えているのは誰か?」という問いで、全てが自分の意識の上にある想念であることを知ること。「世界は私が死んでも存在するのでは?」というような問いでも、「そう考えているのは誰か?」と問い続けること。想念にどっぷり浸かっていなければ、この問いだけで十分だろう。
しかし、やはり中にはあまりにも感情に巻き込まれてしまっている人たち、またこの世界が真実だと思い込んでしまっている人たちには、この問いだけではうまくいかないだろう。そのような人たちのためには行動や心の制御を通して想念を減らすための方法、呼吸のコントロールや瞑想が役に立つだろう。
一つの動作に集中することや一つの対象に集中することは、想念を一つにまとめ、その他の想念を手放す助けになる。そうすれば、次にその最後に残った想念を捨てる準備になるだろう。
人によっては心を過剰に興奮させないような生活の摂生も必要になるかもしれない。過食や不摂生をなくすことから始めなければいけないかもしれない。
何れにせよ、真実を知ろうとする真剣さだけが大切だ。


原文
Are there no other means for making the mind quiescent? 

 Other than inquiry, there are no adequate means. If through other means it is sought to control the mind, the mind will appear to be controlled, but will again go forth. Through the control of breath also, the mind will become quiescent; but it will be quiescent only so long as the breath remains controlled, and when the breath resumes the mind also will again start moving and will wander as impelled by residual impressions. The source is the same for both mind and breath. Thought, indeed, is the nature of the mind. The thought “I” is the first thought of the mind; and that is egoity. It is from that whence egoity originates that breath also originates. Therefore, when the mind becomes quiescent, the breath is controlled, and when the breath is controlled the mind becomes quiescent. But in deep sleep, although the mind becomes quiescent, the breath does not stop. This is because of the will of God, so that the body may be preserved and other people may not be under the impression that it is dead. In the state of waking and in samadhi, when the mind becomes quiescent the breath is controlled. Breath is the gross form of mind. Till the time of death, the mind keeps breath in the body; and when the body dies the mind takes the breath along with it. Therefore, the exercise of breath-control is only an aid for rendering the mind quiescent (manonigraha); it will not destroy the mind (manonasa).
 Like the practice of breath-control. meditation on the forms of God, repetition of mantras, restriction on food, etc., are but aids for rendering the mind quiescent.
 Through meditation on the forms of God and through repetition of mantras, the mind becomes one- pointed. The mind will always be wandering. Just as when a chain is given to an elephant to hold in its trunk it will go along grasping the chain and nothing else, so also when the mind is occupied with a name or form it will grasp that alone. When the mind expands in the form of countless thoughts, each thought becomes weak; but as thoughts get resolved the mind becomes one-pointed and strong; for such a mind Self-inquiry will become easy. Of all the restrictive rules, that relating to the taking of sattvic food in moderate quantities is the best; by observing this rule, the sattvic quality of mind will increase, and that will be helpful to Self-inquiry.

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