私は誰か?(1)

1.
『私とは誰でしょうか?
 七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚はそれぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが私はそれらではない。五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが私はそれらではない。五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするがそれは私ではない。ものごとを考える心でさえ、私ではない。対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。

訳注1 七つの要素:栄養液、血液、肉、脂肪、髄、精子
訳注2 五つの生気:パンチャ・プラーナ 身体で働いている五つのプラーナ(気)アパーナ、下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気。ヴィヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。』

解説

私とは何だろう?
いったい私が私と言うとき、それは何を指しているのだろう?
私は誰か?と問い続けると、それが何も指していないことが分かるだろう。
この体が私なのか?
この体は私ではない。この体はほぼ6ヶ月前の体とは別物だ。生まれた時からずっと変わり続けている。
感覚はどうだろうか。
聴覚、触覚、色覚、味覚、嗅覚、これらもただ世界を感じる器官だ。それらも私自身ではない。
能動的なものもそうだ。話し、動き、これらの動作も単なる手段であり私自身ではない。
考えでさえ私自身ではない。考えは絶え間なく変化する想念、ただのエネルギーの動きだ。
本当は、私というものはないのだ。
私というのは幻想なのだ。
私が幻想なら、私が取り囲まれていると思っている世界も幻想なのだ。

私が幻想だと知ること。それが最初で最後だ。

原文

Who am I ?
The gross body which is composed of the seven humours (dhatus), I am not; the five cognitive sense organs, viz. the senses of hearing, touch, sight, taste, and smell, which apprehend their respective objects, viz. sound, touch, colour, taste, and odour, I am not; the five cognitive sense organs, viz. the organs of speech, locomotion, grasping, excretion, and procreation, which have as their respective functions speaking, moving, grasping, excreting, and enjoying, I am not; the five vital airs, prana, etc., which perform respectively the five functions of in-breathing, etc., I am not; even the mind which thinks, I am not; the nescience too, which is endowed only with the residual impressions of objects, and in which there are no objects and no functioning’s, I am not.

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(序)

私は誰か?
Who am I ?
(Nan Yar)

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問いで探求する知識の道が最も重要な方法である。

解説

全ての存在は、その最奥においては愛の源にある。
人は真の自分自身を知らないために、作られた想念の中陥り、世界に翻弄される。
存在の最奥は常にここにある。

最奥を見失ったとき、「それを考えているのは誰か?」、「私は誰か?」と、これらの質問で真剣に探求することが重要だ。

そして、最奥の源は常に共にあることを思い出すだろう。


原文

As all living beings desire to be happy always, without misery, as in the case of everyone there is observed supreme love for one’s self, and as happiness alone is the cause for love, in order to gain that happiness which is one’s nature and which is experienced in the state of deep sleep
where there is no mind, one should know one’s self. For that, the path of knowledge, the inquiry of the form “Who am I?”, is the principal means.

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
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一人で在れ

一人でいて、完全で在る人間であれ。

人は一人で生まれ、一人で死ぬ。
それは生というもの、自と他という分離した現象世界が創造された作品・幻想で在り、それは一つに戻るということだ。
生という分離の現象は、一つで在る存在が無数の自身を体験するため。
また、その全ての無限の体験から生まれる無数の自分は、一人・一つで在ることに戻るため。

生きるというのは、一つが無数の存在を経験をするため。
そして、無数の経験は、一つで在ることを知るため。

自らが光を放つこと、それが一人・一つに戻ること。そして、その光に惹かれて他の人々がまた自ら光を放ち、生が一人・一つで在ることに気づく手助けをする。

無数の体験、それは一つで在ること。

一人で在れ。

信心銘(十二)

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すべてのことに相対的な観念を立ててあれこれと考えることは夢まぼろしで空想でしかないので、無理に努力して捉える必要もない。
得失や是非などの相対観念をすべて、いっぺんに手放すことだ。
眠っていなければ、すべての夢は自然と消え去っていく。
心が一つであれば、すべてのことは一つとして現れる。

解説

自と他、善と悪、良い悪い、すべての相対的な観念は頭で考え出されたもので、それに対して分析したり解釈したりする必要はないのです。自分とか他人とか、良いとか悪いとか、そのようなことを作っているのは心なのです。自分が作っていた観念を手放せば心が映し出していた観念世界が終わります。
世界という観念が終われば、自と他が消え失せ、自然と本来の一体性が現れるでしょう。

原文

夢幻空華 何勞把捉 得失是非 一時放卻
眼若不眠 諸夢自除 心若不異 萬法一如

その人はコーヒーが好きでした

その人はコーヒーが好きでした。

いつも自分のことよりも他人を気遣い、何一つ不平不満を言わず、穏やかな笑顔で落ち着いて、いるかいないかも気にしなくていいくらい自然な存在でした。

私もコーヒーが大好きでした。普段から自宅でもカフェでも様々な種類のコーヒー豆を購入し楽しんで飲んでいました。私は当時は仕事が忙しく、毎日のように仕事の合間にカフェで次の仕事の準備をしながら様々な種類のコーヒーを飲むのを楽しむのが常でした。

その人と月に数回は会っていました。
会っていても当たり前のように一緒に過ごしていました。
本当に自然に、当たり前のように。

ある日、食事を一緒にした時でした。いつものように普通に話し、笑って楽しい時間を過ごしていました。
食事の後、コーヒーを飲んでいましたが、その人が、「最近、エスプレッソマシンを買ったんだ」と嬉しそうに話してくれました。「すごく美味しいんだよ。あきおくん、今度飲ませてあげるから、マシンを持ってくるね」と。
私もコーヒー好きなのですが、そんなマシンまで持ってきて飲ませてくれるなんて、そこまでしなくてもと思いましたが、楽しみにしていると軽く返しただけでした。

そして、
次の週、その人は亡くなりました。
最初、その人の死を知った時、私は何も感じませんでした。
全く、何も、感じなかったのです。
何も感じないようにしたというのが本当でしょう。
心を麻痺させました。
一ヶ月は心が何も感じなくなりました。
コーヒーは飲まず、コーヒーを見ると、さらに心を麻痺させました。
一ヶ月ほどコーヒーというものから離れました。
カフェにも行きませんでした。
何も感じませんでした。
何も感じたくありませんでした。

その人の死の後、久しぶりに知人とカフェに行きました。
コーヒーを飲んだら、心が溶けました。
硬くなっていた心が、柔らかくなりました。
カフェで、周りの目をはばからず声を震わせ泣きました。
涙が止まりませんでした。
涙が枯れるまで泣きました。

その後も数ヶ月は心を麻痺させ、カフェに行けませんでした。
失ったもの、失う前は全く意識していなかったもの、どれだけ大切なものだったのか。

当たり前のものなど無いと知ること。
当たり前なものほど大切だと知ること。
当たり前なものほど大切にし、愛を送ること。
どんな時でも、どんなものにでも愛でいること。
伝わっても伝わらなくても、いつも愛でいること。

愛でいること。
それが最高の在り方なのだから。

手放すと大切なものが分かる

失ってみて初めて物事の有り難さが分かる、と言われます。
失ってしまったものはもう元には戻りません。失った物事からどれだけ自分が恩恵を受けていたのかを知り、戻らないがために悲しみ後悔します。
物事の有り難さを知るために、多くの人が失うという経験をしているようです。
しかし、そんな無駄なことをしなくても良いのです。
今ここ感謝に在り、全てのものを手放すことをすれば、実際に失ったと同じことを経験するのです。

失う前に手放してみましょう。
すると、失わないで済みます。
自分を傷つけるような経験をしなくて済むのです。
あらゆる物事が自分のものではないと、自分から手放すのです。
もちろん、最初は簡単なことから始めます。
まず要らないものを捨てることから始めます。これは簡単です。

次に、自分との関係が密接でないものを手放します。
これは少々自我が抵抗します。
今自分が使っているもの、真に大切なものだけを残します。

しかし、これでも不十分です。
最後には、全てを手放すのです。心の執着を手放すのです。その意識になれば最後に残っているものは、借りているもの、預かっているものという意識があるので、もうすでに感謝の心で接しています。

結局、全てを手放すという意識が、借りているものに対する感謝を導き、本当に大切なものだけが残るのです。

それは、一人の人間かも知れません。
一つのものかも知れません。
一つの地位かも知れません。
一つの考えかも知れません。
あるいは、関わっている全てかも知れません。
それは自分自身の在り方によります。

大切なものが周りに残ることによって、自分の人生自体が大切なものになります。
世界と自分は映し鏡なので、モノに対する感謝が人生の充実感につながるのです。

手放してから、すべては自分の上を流れるものであった、すべては変化する自分であったと気づくでしょう。
そして感謝という経験だけが残るでしょう。

ありがとうございます。

光がほんとうの自分

目を閉じて、胸に手を当てて、自分の心を感じてごらん。

なにが見える?

雲しか見えないって?

じゃ、雲を見てごらん。

どこかに隙間が見えないかい?

その雲の隙間に光が見えるだろう?

しっかり隙間をのぞいてごらん。

かすかな光が見えるかい?

その光だけを見てごらん。

ほんとうの自分は、その光なんだよ。

雲の向こう側にある光が、ほんとうの自分なんだよ。

光が、ほんとうの自分なんだよ。

あなたはそのままで美しい

R氏はいつも楽しそうに話していたので、彼が真剣に
「君は本当に自分のことをそんなふうに思っているのかい?」
と言った時には、少しびっくりした。
何年かぶりに人に怒られた気分になったからだ。

それは、R氏と知り合いになってから3ヶ月ほどたった時だった。物事がうまくいかないことは相変わらず多かったが、それをR氏の前でグチることは一度もなかった。
その日はじめて「はぁ、私なんて、もうダメです。何もできないし、、、」とボソッと口にしたのだ。

R氏は急に真顔になり、「自分がダメなんて、本当に思ってるのかい?」と私に言った。
そして、「私には君は完全に美しい存在に見えるんだよ」と。

「だが、君が自身を完全な存在と見ないで、他人が自分をどう見ているかを受け入れて、それを自分だとするのも自由なんだが。」

R氏はそれから、しっかりと私の目をみつめ、ゆっくりと話し始めた。
その間、私は一言も発しないで、R氏の話の中に沈んでいった。

この話は、私にはまだ理解できないところが多い。流れとか宇宙とか、それが何を言っているかもわからない。しかし、理屈とは関係なしに私の心に飛び込んできたので、ここに思い出せる限り書いておく。

——————————————————————-

「あなたはそのままで美しい」

この言葉をいつも忘れないことだよ。

君が何を経験していても、それはそのままでいいんだよ。
そのままでいいと受け入れている時、それこそが自分であることなんだよ。

君自身が自分を受け入れて、そのままの自分でいられて、自然に流れているとき、幸せだって感じているとき、宇宙とつながっているんだ。

「あなたはそのままで美しい」と宇宙が言っている状態なんだ。
君が宇宙そのものだと言ってもいいだろう。
安心感。幸せ。これが人間という存在が自然に流れている状態なんだ。

ところが、君が自分自身を否定した時、それは全存在を否定することにもなるんだよ。なぜなら君は宇宙と一体だからね。

なぜ人は自分自身を否定してしまうのだろうね。

社会が複雑化している現代は、そこに必ず恐怖というものを植え付けようとする要素があるんだ。
1つは、不足とか必要性。あなたはここが足りないから、これを得ないと幸せになれない、幸せのためにはこれこれが必要だよ、という恐怖感を与えること。
もう1つは、抑制。そんなことをしたら失敗するよ、人からこんな風に否定されるよ、そんなことをしたら不幸になるよ、という恐怖感を与えること。

君たちの社会はずっと、この恐怖を与えることでお互いをコントロールしあってきたんだ。

だから、君が自然の流れを知った時に、これを止めようとするものが現れる。でも、それは、上の二つの社会の恐怖感がお互いをコントロールすることからきているんだ。

これからは、「私はそのままで完全です」
「あなたはそのままで美しい」
これを忘れないようにするんだ。

二つの恐怖を信じて自分の中に受け入れないこと。恐怖からは生きないこと。

いつも忘れないでこの言葉を信じていること。
「あなたはそのままで美しい」
いつも完全だよ。
人がこれを受け入れた時、お互いを恐怖でコントロールするのをやめた時、全てが流れ出す、愛が流れ出す。

変えなくていい、変わらなくていい、なぜなら、変化は自然に起こるから。
君自身もその他のことも、変化していくだろう。
そのままでいいと受け入れた時、すべては変化するだろう。

これがすべての人にとっての真実なんだ。

「あなたはそのままで美しい」。

万華鏡

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その日、私はパーティに顔を出したあと、まだ帰る気分でなかったので、コーヒーを一杯飲んでから家に帰ろうと思い、コーヒーショップに入った。

すると、そこにはR氏の姿があった。

いつもの素敵な笑顔で手招きするR氏の席にいき、挨拶をしながら、バッグを椅子の背もたれに、パーティの景品であるテレイドスコープを机の上に置いた。

テレイドスコープというのは、万華鏡(カレイドスコープ)の一種で、筒の先端にレンズだけが付いており、そこを通る景色の光をもう一方の先端から覗いて、光のパターンを楽しむというものだ。

「あれからどう?」とR氏が聞いた。
今日のR氏は、まるで友達同士のような話しかただ。

私は、あれから少しずつ自分を見つめるようになって、自分が変わってきていると感じる、と答えた。
それから、自分が変化しながらも、その自分が一体なんだろう、時々これが自分だとわかってもそれを出していいのか、なんで自分がいて、なんで他人がいて、なんで世界があるのかということを知りたいんですと言った。
その後冗談で「悟りたいんですよ」と言った。

突然、「悟り」という言葉を聞いたR氏の目の輝きが増した。
R氏は「悟り」は「差取り」と書くといいよ、とも言った。

「ふむ、個性って万華鏡のようなものだよね。」と、R氏は、テレイドスコープをいじりながら、嬉しそうに顔を輝かせて話をし始めた。
R氏は自分の好きな話をするときは子供のように明るくなる。

その時のR氏の話は、当時の私にとっては全く現実味のない、荒唐無稽な話にしか思えなかった。

あれから一年が経っているので、少しだけR氏の話がわかってきたような気がする。
R氏が話してくれたことを、覚えている限りここに書いてみる。

————————

「万華鏡は光がなければ使えないよね。君も万華鏡のようなものなんだよ。

今回は、すごく分かりにくいけど差取りそのものについて話してみるね。
言葉で表せないことを言葉で表すのはすごく難しいけど。
だから、昔からこういうことを説明するのには例えが使われてきたんだ。

まだ、ボクらがこういう形を取っていなかった時、ただ無があったんだ。
無が有るなんて矛盾した表現だから、これを光としよう。
光だけ。光が一番例えやすい。
だから、世界も宇宙も何もなかった。光だけ。

光は、光だけで無限の時間をボ〜ッと過していたんだ。他に何もないから、もちろん時間もなかった。
光は自分が光だけが飽きてきて、経験したくなった。
なにもしてないとなにかしたくなる、これは人間と同じだね。

光はどうしたかというと、光自身を二つに、あるいは、それ以上に分離してみたんだ。

だけど、分離してみたけど、あれ、おかしいな、何も起こらないし、何も感じないぞ、って。
何でかって、経験しようとしたのに、光が二つになっても、ただ光り輝いて一つになっちゃうから、何も経験できなかったからだ。

ある意味、光は全能だ、次にちょっと工夫をしたんだ。分離したそれぞれの光の振動を変えて自分たちと違うものを作ってみようって。
そしたら、面白いことに、ある光が自分で作った光の中を通ると違う色の光が生まれるていうことを知ったんだ。

「お、なんか自分からできたこれを通り抜けると、自分は色がついて輝くんだ!」って喜んだんだ。

さあ、ここからは、元の光は自分から無数の光の変形(プリズムみたいなもの)を生み出していき、光はそこを通っていろいろな色になって経験というものを知る。
光がプリズムを通ると、それによって色という性質を持つ。つまりその性質を経験できる。

光の工夫はどんどん加速する。
多種多様なプリズムを創り、光はそこを通ってより多様な性質を持つ輝きを経験できる。
それが人という万華鏡なんだ。

光は自分の輝きを「うわ〜、楽しいな、楽しいな♩」って、遊ぶんだ。
あまりに長い時間それを経験していたら、面白いことに光は自分が万華鏡だと思ってしまった。光である自分たちが作ったプリズム、輝きを経験するためのプリズムが自分だと思うようになったんだ。

だけど、時々、光は自分がプリズムではないと思い出す。自分の本来の姿はなんだったんだろう、って。
本来の自分というのは万華鏡を通る光そのものなんだ。万華鏡が個性(自我)、そこを通る光が本当の自分(真我)だ。
自我とか真我って言われるのはこういうことなんだ。

もともとは万華鏡も光も、もともとはみんな一緒の自分だったんだ。
万華鏡も光もどちらもなければ自分という個性を体験できないんだ。

この全部が自分だっていうのを思い出して輝くことを「差取り」っていうんだ。
だから、君は君自身の個性を持ってここにいる。その個性を輝かやかすため君はここにいるんだよ。
個性を通っているのは君そのものである光なんだ。
その光は、いろいろなところで愛と呼ばれる。

個性をありのままに、そこに愛という光を流せば、それが原初の光が体験したかった輝きを放つんだ。この輝きを放つ人は愛で溢れている。
個性がそのまま出て輝いているんだ。

そして、その輝きの一つでも否定すると、君自身という個性を体験できないまま、輝けなくなってしまうんだ。

そのままの輝きで輝くこと、それが本来の自分がありたい自分なんだよ。

自分が本来の自分でいい。みんなも本来の自分でいていい。そのまま輝けばいい。
みんなが光であり万華鏡なんだ、お互いになんの差もないんだよ。

差がない、差を取る、それが差取りって言われるものなんだよ。」

 

今の自分から

Fraktur_R_symbol

私がR氏と知り合ったのは1年ほど前だ。あるコーヒーショップで出会った。

当時、私はどんなに物事がうまくいっても楽しくなく、親しい友達もなく、自分以外の人に不満を持っていた。
どうやったら人を変えられるのか、どうやったら人を動かせるのか、そんな勉強ばかりをしていた。
その日も、私はコーヒーを飲みながら、コミュニケーションに関する本を読んで考え込んでいた。

ふと、となりの席に一人の男性が座った。ちらっと顔をみると、60代半ばだろうか、ゆったりとした雰囲気で周囲を楽しんでいるようだ。
なんだかとても嬉しそうだ。「あ、こんなにいつも嬉しそうな人もいるんだな。」
相手も私と目が合うとニコリと笑った。
「目がキレイな人だな。」すぐに私は話しかけたくなった。

読んでいた本に「興味をもった人には、躊躇しないで話しかけなさい。そこから自分の道が生まれてくるから」と書いてあったのを読んだばかりだったので、勇気を出して、話しかけてみた。

すぐにR氏とは打ち解けた。話していると楽しくて、自分の悩んでいることも忘れてしまった。少し気分が良くなった私もR氏に、自分が今考えていること、いろんな本を読んで勉強していること、自分がこんな風になりたいと思っていること、自分がこんな理論を使って人を動かして物事を解決したい、などということを話した。

R氏は、私の話を聞いたあと、長い間黙っていた。
そして、一口コーヒーを飲むと口を開いた。

「ふむ、君はいろんなことを勉強して知っているが、それは全て君自身のことではないね。一度そういう理屈を忘れてみるといいかも知れないよ」と。

私にはその言葉の意味がよくわからなかった。
それからR氏は、私にいろいろなことを話しはじめた。

以下は、私が覚えている限りのR氏の話の一部だ。

——————

「まず、今の自分がスタート。今が最初のゼロ地点。まっさら。真っ白だ。
だから何を描いても、どんな色にしてもいい地点。全てが可能な地点なんだ。
こころのキャンパスに、今の瞬間、何を描くか決めているんだ。
だから、今この瞬間に自分が在りたい最高の在り方を選べるんだ。

どんなふうに感じてもいいと言われたら、君はどんな感情を選ぶだろう。
こんなことを聞かれても、どう答えていいか分からないかもしれない。

けれど、今この瞬間も、過去の感情プログラムが出ている。「こういう時はこういう感情になる」、「普通はこう感じる」、「こうやったらこうなるだろう」というパターンができあがっているからね。
さらに、油断していると、誰か他の人が隙を見て、「あなたはこう感じるべきだ」、って横から入って来るんだ。そういう時はたいてい戸惑うがね。

さて、君は純粋な個性として生まれてきたんだけれど、一般的に言われる感情というのは、その純粋な個性に対して付けられたブロックだと思っていい。これらは生まれた時から物心つくまでに、知らない間に自分以外の誰かに押し付けられている。
その自分で気がつかないうちに身につけた感情パターンを今ずっと続けている。
自分では、その感情は自然なものだと思っているがね。

そして、自分の感情っていうのは、どんな今も、自分で選んでいるんだ。その選んでいる感情は過去の自分が選んだものだったり、今新しく選んだものだったり、幼少時に身に親からつけたものだったり、社会的習慣から身につけたものだったり、学校で身につけたものだったりすんだ。
これを一日のうち何万回って選んでいるんだ。

人間は複雑な感情パターンを持つようになり、この感情はダメだ、こっちのはいい、とレッテルを貼りだすんだ。感じ切ったら感情は流れて終わりなのに、それを良いとか悪いとかってやってしまうんだ。
そうすると、出してはダメだというレッテルを貼られた感情の流れは止められ、流れなくなる。

ここで問題なのは、出してはダメ、悪いとレッテルを貼ってしまった感情って、出てくるたびに「この感情を出してはダメなんだ」って考えで何度も抑えてしまうことなんだ。抑え続けるとそれはそのうちに固まってしまうんだ。良いとレッテルを貼っているものは流しているから全く固まることがないんだ。

さらに問題になるのは、その感情を抑えてしまっていること以上に、感情が出るたびに自分自身を否定することになってしまう。「この感情はダメなんだ」というレッテルと、「このダメな感情を出している自分はダメな人間なんだ」っていう二重のレッテルを貼ってしまうことになるんだ。

これだと、ますます感情のエネルギーのもつれが複雑になってしまう。
二重のレッテルならまだマシな方なんだが、現代人のほとんどの感情は三重にも四重にも重なっていて、レッテルのレッテルのレッテルのレッテルって、複雑になっているんだ。

同時に、感情は溜め続けると膨らんでいき、今度は火山の噴火みたいに出てくることになる、溜まったらどこかで放出しないとダメだからね。

ありのままの自分でいい、それは、今のありのままを肯定することなんだ。
流すことによって、感情のブロックも溶けるし、溶けると今を純粋に体験できる。
止めていないエネルギーの流れ、実はそれこそが愛なんだと分かるんだよ。
今は愛については深く語らないけど、そういうことだよ。

さて、これってみんながありのままにいられるなんていうのは、まあある意味では理想なんだけど、でも、この社会は複雑になりすぎているから、複雑なレッテル人間は、自分が固まってしまっているから自分で変わることができない。だから自分以外のものの流れを変えようとする。他人を、状況を直そう、正そうとする。
君も知ってるとおり、今の社会がそれを表しているだろう。
複雑なレッテル文化が造り上げた社会、それが今君が入り込んでいるところなんだよ。

だからこそ、まずは自分がしているレッテル張りに気づく、それから在り方を見つめることが重要なんだ。

まずは、今の自分を見つめることから始めることだよ。

自分を見つめること、それが全てのスタートでゴールなんだよ。」