スッタニパータ 65

65.
味を貪ることなく、選り好みすることなく、他人から養われることなく、戸ごとに食を乞い、家々に心を縛られず、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

これが良い、あれが悪い。
これは美味しい、あれはまずい。
これが正しい、あれが間違っている。
自分は価値あるものに関係している、価値あるものを所有している。
このような、良いもの、美味しいもの、正しいもの、価値の良し悪し、それら自分の感覚を気持ちよくしてくれるものを求め依存することは、自我が作り上げた世界観・幻想を守ろうとすることに過ぎません。
世界に自分の意味を押し付けているだけなのです。
それらすべての価値判断は、自分が作り上げている世界がどんなものであるかを宣言しているかに過ぎません。
作り上げられた世界観、作り上げられた自己像が自分なのではありません。
それを作り上げているものこそが真の自分なのです。つくり上げれられた自己像が自分ではなく、作り上げている創造者が、真の自分=宇宙=すべて=存在、なのです。
現れている世界、宇宙、現象、自分、他人、これらすべては作り上げられたものです。そして、それらを作り上げているものこそ、真の自分=心=道なのです。

自分と考えているもの、それは一体誰が作り上げているのか。
それをしっかりと見つめる時、すべてが現れるでしょう。

スッタニパータ 64

64.
葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、家庭生活者の様々なしるしを捨て去って、袈裟を身にまとい、出家して、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

人が自分だと思っているもの、それら全ては自分ではありません。
自分の財産、自分の知識、自分の価値観、自分の名誉、自分の家族、自分の能力、自分の考え、そして、「自分」という概念、さらには、自分がそう考えている他人、状況、世界、それらも単なる自分の概念であり、自分ではありません。
それらは常に変化するエネルギーであるに過ぎません。
変化するエネルギーに囚われることなく在ること。そこに本当の「自分=全て」の世界があります。
世界はただ在る、自分もただ在る。
喜びも苦しみも同じであり、幸も不幸も同じ。
自分も自分以外の世界も同じものなのです。
全ては、ただ生成して、そして消滅していきます。
その生成と消滅は自分であり、自分の意識なのです。
それら全てにこだわらずに、手放し、ただ流れるままに在る。
そうすると、世界が自分で在ると知ることでしょう。

スッタニパータ 63

63.
眼差しは下方に向け、あちこちと移ろうことなく、様々な感覚器官を防いで守り、こころを護り、自我が外に流れ出ることなく、それに焼かれることもなく、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

目の前の現象、世界が自分にとってどんな見え方をしているのか、それは結局は自分の在り方を表しているに過ぎません。事象がどういうものかと解釈していること自体が自分がどういう人間かということを表現しているに過ぎないのです。
それは世界を表していることにはなりません、それは自分自身を表明しているだけなのです。
自分を取り巻く状況が悪い、誰々が悪い、世の中が悪い、これらは全て自分の心の在り方を表しています。良いという想いも同様です。自分が創り上げた世界観に自分が左右されることは、世界と自分との二極化をさらに強めることになり、世界観を複雑にします。
世界と自分が別々にあるのではなく、自分と世界は一つであり、自分というものは世界から切り取られた存在ではなく、世界そのものです。
自分という存在などないのです。
自分という思いがなくなり、解釈やレッテル張りがなくなると、本来の存在自体が見えるでしょう(一体になるでしょう)。
自分の世界に対する解釈に喜んだり苦しんだりすることもなくなり、ただただ在るがままの自分=世界だけが残るでしょう。
自分が創り上げた解釈=自分が考える世界、それに反応することなく、ただ今ここに在ること、それが真の自分=世界なのです。

 

スッタニパータ 62

62.
水の中の魚が網を破って河の中で自由になるように、また火がすでに焼きつくしたところに戻ってこないように、世の中の様々な執着を引き裂いて、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自由であること、それは自分がしたいことをするということではありません。自分の思った通りにするということではありません。
自由とは自分の心が創り上げたものから解放されるということです。あなた自身を含む全ての世界に対する解釈、反応、考え、それらは全て自分が創り上げたもので、それはいわゆる真実ではありません。それを捨てることです。自分が創り上げた世界観を手放すことです。自分というものがあるという思いさえ捨て去ることです。
自分というものがあるという思いを捨てると、そこから派生する考え、思い、解釈、反応、感情、それらが幻想であると知るでしょう。
自分というものがあるという根源的な執着を一度手放すと、自分というものが全体から分離したものではないこと、全体から離れた自分などというものはないこと、全体が自分、自分が全体であるということを知るでしょう。そして自分というものが変化する一つの観点、考え方でしかないということも知るでしょう。自分と同様、他人の観点、考えも変化する宇宙の一つの在り方であり、それも自分の一つの表れ、他人も自分、自分というものがない、自分も他人も同じ、ということを知るでしょう。
場所が違うと見る景色が違うように、ただ存在の視点が違うことが自分と他人というものを創り出しているということを知るでしょう。
自分という枠を破った時、全てが一体であること、自分が全てであると知るでしょう。

 

スッタニパータ 61

61.
「これは執著の対象だ。ここでの楽しみはほとんどなく、満足感もほとんどなく、結局は苦しみの方が多い。これは釣り針だ」と知って、賢者は、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分の考え、心というのは、自分が使う道具です。自分の思いは自分で創っているのです。どんなことが起こっていてもそれに対する解釈・思いは自分が創っています。
それが苦しいことであっても楽しいことであっても、恨みや後悔、執着や中毒などが起こります。自分が創り上げた考えに囚われることで、自分を縛ることになります。
怒りや苦しみ、楽しいことや満足感というのは、自分で創り上げた考えに囚われているだけだと気づいたとき、それを手放し自由になることでしょう。そこにはただ一人自分が、創り上げているものであり同時に創り上げられているものという自分が存在していると知るでしょう。
全ては「自分・存在」が創り上げ、外に映し出された自分を経験していると知るでしょう。
結果としての苦しみや不幸という状態は、自分の考えが自分の経験を創り上げていることを知らないこと、あるいは、自分が創り上げている世界を否定していることなのです。
自分が創り上げた考え・解釈にとらわれることをやめると、「意識」は創られた考えから自由になります。
全ては「自分=存在」が創造しているのです。
それを知るとき、自分が自分で無くなり、世界が自分、自分が全てであるということを同時に知るでしょう。

スッタニパータ60

60.
妻子や父母、財産や穀物、親類やその他のあらゆる欲望も、すべてを捨てて、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

私の配偶者、私の子供、私の財産、私の地位、私の名誉、私が欲しいもの。これら全ては意識が「私」というものを作り出し、そしてその「私」がそう考えています。そしてその考えが作り出したものに執着しています。
どうして自分の意識が作り出したものに煩わされるのでしょうか。どうして自分という意識が作り出したものに振り回されるの必要があるのでしょうか。作り出された世界の創造主は自分の意識なのに、どうして創造主である自分が自分の作り出したものに影響されることがあるのでしょうか。
自分の意識が作り出したものに影響されるのではなく、自分の意識が作り出していると知ることです。本当は、ただ意識だけがあると知ることです。
意識は自由自在で、自分の体を自分だと思うこともできるし、自分が作り出したものに支配されるという自由もあります。意識は体の中に閉じ込めることもできるし、細胞や原子の中に閉じ込めることもできます。反対に体の外に広げることもできるし、宇宙や多次元の世界にまで広げることもできます。なぜなら、それらすべては意識が作り出したものなのです。
すべては意識が造り出したものであり、どのような在り方を選ぶかは自分の意識の自由なのです。

スッタニパータ59

59.
世間的な感覚を刺激する気晴らしや遊戯や娯楽に満足を感ずることなく、それらのことに関心を持つことなく、身を飾ることを離れて、真実を語り、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

自分の中に起こるあらゆる思いが、全てを創り上げている「意識」に戻る道になります。
自分が何かを楽しいと感じるとき、そこに引き込まれるのではなく、その感覚や思いは一体誰がそう感じているのかを追求することで、自分の大本を知る良い機会になります。
あらゆる思いや感覚、快不快、幸不幸、楽しさや苛立ち、満足感や不満感、どんな感覚でも、それを見つめ、それは誰がそう感じたり考えたりしているのかを知ることによって「意識」という根元に戻ることができます。
思いや感覚の対象、事件や状況というような自分以外のことを見ても、それは自分が創り上げたものを見ているだけです。それを創り上げているのは誰か、そちらのことの方が問題なのです。
創り上げられたものに関心を持つのではなく、それを創り上げている自分自身の考えや思いに関心を持つことです。一体誰がそれを思っているのか、一体誰がそれを創り上げているのか、それが全体である「意識」に戻る道になるでしょう。

 

スッタニパータ58

58.
学識があり真理を理解し、高邁で聡明な友と交際しなさい。ものごとの道理を知り、疑惑を払いのけ、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

人や自然や大宇宙に尊敬の念を抱くとき、それは一体の道を進んでいるときです。崇敬の念は自我を溶かし、自身の存在を固定化しているものを無くしていきます。自分という観念を溶かしつつ、その観念自体自分が作っていると気づきます。
世界に対して崇敬の念で向かい合う時、世界はその本質を現します。自分が状況に翻弄されているように感じる時、それは自分が世界に対してうまく機能しない意味づけをしているだけなのです。世界は心を開いて崇敬の念を持って対面するとき初めてその本来の姿を見せるのです。
全てに対して自分のあり方が反映されているのに気づくのは難しいと思うかもしれません。初めは人に対して尊敬の念を抱くことです。どんな相手にも尊敬の念を抱くのが難しい時は、尊敬できる人に近づき、できるだけ崇敬の念を自分の中に育てることです。自分の中に生まれた崇敬の念を自分の周りの世界にまで広がるように育てることです。
いずれ世界に対する共感と反感は自分が生み出していると知り、世界は自分の鏡であると知り、自分という存在自体が自分で創り上げてたと知るでしょう。そこにあるのはただ自分と世界を創り上げている意識だけだったと。

 

スッタニパータ57

57.
偏った見方にとらわれ、よこしまなことにふけっている悪い友を避けなさい。目的もなく怠っている人に関わることをやめなさい。ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

他人のことを判断し気にすること自体、自分の意識が作り出していることです。自分がなぜそう考えているのかを見つめることです。なぜ現象のある部分だけを切り取り気にしているのかを見つめることです。
他人に対する判断は、自分の心の在り方を映し出しているに過ぎません。他人であれ状況であれ、全ては自分が意味づけをしています。
他人に意味づけをしているなら、それは自分自身に対しても意味づけをしているということです。自分というものはありません。それは現象の一部を切り取り意味づけをした結果です。自分も他人も世界も意味づけであり現象の切り取りであるなら、それを起こしているのはなんでしょうか。それこそ意識なのです。意識、全てを想像しているもの、それが意識なのです。「自分」なのではありません、「意識」なのです。

 

スッタニパータ56

56.
貪ることなく、偽ることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、心の濁りと迷妄を取り除き、いかなる世界においても願望がないものとなって、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

全ては自分が作り上げている幻想です。人は自分で不足感を作り出し、何かが足りないと思い、それを欲しいと考え、それを得ようと行動し、それを得て満足する、あるいは求めた結果を得られず不服に感じます。
人は起こっている現象の一部を切り取り、その切り取ったものに自分なりの意味を与えストーリーを作り、それを評価し反応しています。自分が作った作品を自分とは分離した世界だと考え反応しているだけなのです。
自分が作り上げた世界に対して、何かが不足だと思ったり、欲しいと思ったり、嘘をついたり、評価したりする必要はないのです。世界とは自分の心の現れです。自分の心の動きの結果です。それが自分と別なものとして反応する意味はありません。ただただ自分が造り上げたことが起こっているだけなのです。
世界は自分の意識の範囲だけ広がります。自分の中に意識をおけば、それが自分だと思うでしょう。自分以外のもの、植物や動物、地球や星々、銀河や宇宙にまで意識をおけば、それが自分になるでしょう。意識は体である物質とは何の関係もないということを知るでしょう。意識はどんなものでも意識そのものが設定した存在になるのです。