その日、私はパーティに顔を出したあと、まだ帰る気分でなかったので、コーヒーを一杯飲んでから家に帰ろうと思い、コーヒーショップに入った。
すると、そこにはR氏の姿があった。
いつもの素敵な笑顔で手招きするR氏の席にいき、挨拶をしながら、バッグを椅子の背もたれに、パーティの景品であるテレイドスコープを机の上に置いた。
テレイドスコープというのは、万華鏡(カレイドスコープ)の一種で、筒の先端にレンズだけが付いており、そこを通る景色の光をもう一方の先端から覗いて、光のパターンを楽しむというものだ。
「あれからどう?」とR氏が聞いた。
今日のR氏は、まるで友達同士のような話しかただ。
私は、あれから少しずつ自分を見つめるようになって、自分が変わってきていると感じる、と答えた。
それから、自分が変化しながらも、その自分が一体なんだろう、時々これが自分だとわかってもそれを出していいのか、なんで自分がいて、なんで他人がいて、なんで世界があるのかということを知りたいんですと言った。
その後冗談で「悟りたいんですよ」と言った。
突然、「悟り」という言葉を聞いたR氏の目の輝きが増した。
R氏は「悟り」は「差取り」と書くといいよ、とも言った。
「ふむ、個性って万華鏡のようなものだよね。」と、R氏は、テレイドスコープをいじりながら、嬉しそうに顔を輝かせて話をし始めた。
R氏は自分の好きな話をするときは子供のように明るくなる。
その時のR氏の話は、当時の私にとっては全く現実味のない、荒唐無稽な話にしか思えなかった。
あれから一年が経っているので、少しだけR氏の話がわかってきたような気がする。
R氏が話してくれたことを、覚えている限りここに書いてみる。
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「万華鏡は光がなければ使えないよね。君も万華鏡のようなものなんだよ。
今回は、すごく分かりにくいけど差取りそのものについて話してみるね。
言葉で表せないことを言葉で表すのはすごく難しいけど。
だから、昔からこういうことを説明するのには例えが使われてきたんだ。
まだ、ボクらがこういう形を取っていなかった時、ただ無があったんだ。
無が有るなんて矛盾した表現だから、これを光としよう。
光だけ。光が一番例えやすい。
だから、世界も宇宙も何もなかった。光だけ。
光は、光だけで無限の時間をボ〜ッと過していたんだ。他に何もないから、もちろん時間もなかった。
光は自分が光だけが飽きてきて、経験したくなった。
なにもしてないとなにかしたくなる、これは人間と同じだね。
光はどうしたかというと、光自身を二つに、あるいは、それ以上に分離してみたんだ。
だけど、分離してみたけど、あれ、おかしいな、何も起こらないし、何も感じないぞ、って。
何でかって、経験しようとしたのに、光が二つになっても、ただ光り輝いて一つになっちゃうから、何も経験できなかったからだ。
ある意味、光は全能だ、次にちょっと工夫をしたんだ。分離したそれぞれの光の振動を変えて自分たちと違うものを作ってみようって。
そしたら、面白いことに、ある光が自分で作った光の中を通ると違う色の光が生まれるていうことを知ったんだ。
「お、なんか自分からできたこれを通り抜けると、自分は色がついて輝くんだ!」って喜んだんだ。
さあ、ここからは、元の光は自分から無数の光の変形(プリズムみたいなもの)を生み出していき、光はそこを通っていろいろな色になって経験というものを知る。
光がプリズムを通ると、それによって色という性質を持つ。つまりその性質を経験できる。
光の工夫はどんどん加速する。
多種多様なプリズムを創り、光はそこを通ってより多様な性質を持つ輝きを経験できる。
それが人という万華鏡なんだ。
光は自分の輝きを「うわ〜、楽しいな、楽しいな♩」って、遊ぶんだ。
あまりに長い時間それを経験していたら、面白いことに光は自分が万華鏡だと思ってしまった。光である自分たちが作ったプリズム、輝きを経験するためのプリズムが自分だと思うようになったんだ。
だけど、時々、光は自分がプリズムではないと思い出す。自分の本来の姿はなんだったんだろう、って。
本来の自分というのは万華鏡を通る光そのものなんだ。万華鏡が個性(自我)、そこを通る光が本当の自分(真我)だ。
自我とか真我って言われるのはこういうことなんだ。
もともとは万華鏡も光も、もともとはみんな一緒の自分だったんだ。
万華鏡も光もどちらもなければ自分という個性を体験できないんだ。
この全部が自分だっていうのを思い出して輝くことを「差取り」っていうんだ。
だから、君は君自身の個性を持ってここにいる。その個性を輝かやかすため君はここにいるんだよ。
個性を通っているのは君そのものである光なんだ。
その光は、いろいろなところで愛と呼ばれる。
個性をありのままに、そこに愛という光を流せば、それが原初の光が体験したかった輝きを放つんだ。この輝きを放つ人は愛で溢れている。
個性がそのまま出て輝いているんだ。
そして、その輝きの一つでも否定すると、君自身という個性を体験できないまま、輝けなくなってしまうんだ。
そのままの輝きで輝くこと、それが本来の自分がありたい自分なんだよ。
自分が本来の自分でいい。みんなも本来の自分でいていい。そのまま輝けばいい。
みんなが光であり万華鏡なんだ、お互いになんの差もないんだよ。
差がない、差を取る、それが差取りって言われるものなんだよ。」