今の自分から

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私がR氏と知り合ったのは1年ほど前だ。あるコーヒーショップで出会った。

当時、私はどんなに物事がうまくいっても楽しくなく、親しい友達もなく、自分以外の人に不満を持っていた。
どうやったら人を変えられるのか、どうやったら人を動かせるのか、そんな勉強ばかりをしていた。
その日も、私はコーヒーを飲みながら、コミュニケーションに関する本を読んで考え込んでいた。

ふと、となりの席に一人の男性が座った。ちらっと顔をみると、60代半ばだろうか、ゆったりとした雰囲気で周囲を楽しんでいるようだ。
なんだかとても嬉しそうだ。「あ、こんなにいつも嬉しそうな人もいるんだな。」
相手も私と目が合うとニコリと笑った。
「目がキレイな人だな。」すぐに私は話しかけたくなった。

読んでいた本に「興味をもった人には、躊躇しないで話しかけなさい。そこから自分の道が生まれてくるから」と書いてあったのを読んだばかりだったので、勇気を出して、話しかけてみた。

すぐにR氏とは打ち解けた。話していると楽しくて、自分の悩んでいることも忘れてしまった。少し気分が良くなった私もR氏に、自分が今考えていること、いろんな本を読んで勉強していること、自分がこんな風になりたいと思っていること、自分がこんな理論を使って人を動かして物事を解決したい、などということを話した。

R氏は、私の話を聞いたあと、長い間黙っていた。
そして、一口コーヒーを飲むと口を開いた。

「ふむ、君はいろんなことを勉強して知っているが、それは全て君自身のことではないね。一度そういう理屈を忘れてみるといいかも知れないよ」と。

私にはその言葉の意味がよくわからなかった。
それからR氏は、私にいろいろなことを話しはじめた。

以下は、私が覚えている限りのR氏の話の一部だ。

——————

「まず、今の自分がスタート。今が最初のゼロ地点。まっさら。真っ白だ。
だから何を描いても、どんな色にしてもいい地点。全てが可能な地点なんだ。
こころのキャンパスに、今の瞬間、何を描くか決めているんだ。
だから、今この瞬間に自分が在りたい最高の在り方を選べるんだ。

どんなふうに感じてもいいと言われたら、君はどんな感情を選ぶだろう。
こんなことを聞かれても、どう答えていいか分からないかもしれない。

けれど、今この瞬間も、過去の感情プログラムが出ている。「こういう時はこういう感情になる」、「普通はこう感じる」、「こうやったらこうなるだろう」というパターンができあがっているからね。
さらに、油断していると、誰か他の人が隙を見て、「あなたはこう感じるべきだ」、って横から入って来るんだ。そういう時はたいてい戸惑うがね。

さて、君は純粋な個性として生まれてきたんだけれど、一般的に言われる感情というのは、その純粋な個性に対して付けられたブロックだと思っていい。これらは生まれた時から物心つくまでに、知らない間に自分以外の誰かに押し付けられている。
その自分で気がつかないうちに身につけた感情パターンを今ずっと続けている。
自分では、その感情は自然なものだと思っているがね。

そして、自分の感情っていうのは、どんな今も、自分で選んでいるんだ。その選んでいる感情は過去の自分が選んだものだったり、今新しく選んだものだったり、幼少時に身に親からつけたものだったり、社会的習慣から身につけたものだったり、学校で身につけたものだったりすんだ。
これを一日のうち何万回って選んでいるんだ。

人間は複雑な感情パターンを持つようになり、この感情はダメだ、こっちのはいい、とレッテルを貼りだすんだ。感じ切ったら感情は流れて終わりなのに、それを良いとか悪いとかってやってしまうんだ。
そうすると、出してはダメだというレッテルを貼られた感情の流れは止められ、流れなくなる。

ここで問題なのは、出してはダメ、悪いとレッテルを貼ってしまった感情って、出てくるたびに「この感情を出してはダメなんだ」って考えで何度も抑えてしまうことなんだ。抑え続けるとそれはそのうちに固まってしまうんだ。良いとレッテルを貼っているものは流しているから全く固まることがないんだ。

さらに問題になるのは、その感情を抑えてしまっていること以上に、感情が出るたびに自分自身を否定することになってしまう。「この感情はダメなんだ」というレッテルと、「このダメな感情を出している自分はダメな人間なんだ」っていう二重のレッテルを貼ってしまうことになるんだ。

これだと、ますます感情のエネルギーのもつれが複雑になってしまう。
二重のレッテルならまだマシな方なんだが、現代人のほとんどの感情は三重にも四重にも重なっていて、レッテルのレッテルのレッテルのレッテルって、複雑になっているんだ。

同時に、感情は溜め続けると膨らんでいき、今度は火山の噴火みたいに出てくることになる、溜まったらどこかで放出しないとダメだからね。

ありのままの自分でいい、それは、今のありのままを肯定することなんだ。
流すことによって、感情のブロックも溶けるし、溶けると今を純粋に体験できる。
止めていないエネルギーの流れ、実はそれこそが愛なんだと分かるんだよ。
今は愛については深く語らないけど、そういうことだよ。

さて、これってみんながありのままにいられるなんていうのは、まあある意味では理想なんだけど、でも、この社会は複雑になりすぎているから、複雑なレッテル人間は、自分が固まってしまっているから自分で変わることができない。だから自分以外のものの流れを変えようとする。他人を、状況を直そう、正そうとする。
君も知ってるとおり、今の社会がそれを表しているだろう。
複雑なレッテル文化が造り上げた社会、それが今君が入り込んでいるところなんだよ。

だからこそ、まずは自分がしているレッテル張りに気づく、それから在り方を見つめることが重要なんだ。

まずは、今の自分を見つめることから始めることだよ。

自分を見つめること、それが全てのスタートでゴールなんだよ。」

老子超訳(第六十九章)

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戦術について言われていることがある。
「私は自分から攻めようとはしない、むしろ守りの姿勢をとる。
少しも進撃しようとはしないで、むしろ大きく後退する」と。

これは、
並べる陣営がなく
振り上げる腕がなく、
向かう敵がなく、
用いる武器がない、
ということだ。

敵をみくびることほど大きな禍いはない。
敵をみくびれば、慈しみ、つつましさ、謙虚、という私の「三つの宝」を失うことになるだろう。
だから、二つの軍隊が戦う時、
慈しみをもっている方が勝利をおさめるのだ。

 

原文

用兵有言﹕「吾不敢為主而為客,不敢進寸而退尺。」是謂行無行,攘無臂,扔無敵,執無兵。禍莫大於輕敵,輕敵幾喪吾寶。故抗兵相加,哀者勝矣。

老子超訳(第六十八章)

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りっぱな武士は、猛々しくはない。
すぐれた戦士は、怒りにまかせることはない。
うまく敵に勝つものは、敵と正面から争わない。
うまく人を用いるものは、人に対して謙虚である。

これを「争わない徳」といい、
これを「人の力を利用する」といい、
これを「天の道と一致する」といい、
いにしえからの法則なのだ。

 

原文

善為士者不武,善戰者不怒,善勝敵者不與,善用人者為之下,是謂不爭之德,是謂用人之力,是謂古之極。

老子超訳(第六十七章)

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世界中の人々は言う、わたしの『道』は広大であるけれど、実際的なものではない、と。
そもそも広大であるからこそ、どんな実際的なものからも離れているのだ。
もしそれが何か実際的なものであるならば、とっくに小さなものになっていただろう。

私の『道』には三つの宝があり、それをたいせつに守り続けている。
その第一は「慈しみ」、
その第二は「つつましさ」、
そして第三は世界の先頭に立とうとはしないという「謙虚さ」だ。

「慈しみ」があるからこそ、勇敢になることができる。
「つつましさ」があるからこそ、余裕ができゆったりとすることができる。
「謙虚さ」があるからこそ、ものごとの長となれるのだ。

「慈しみ」によらないで勇敢になろうとし、
「つつましさ」によらないで余裕を持とうとし、
「謙虚さ」によらないで先頭に立とうとするなら、
その結末には滅亡があるだけだ。

「慈しみ」、
それによって人々の信望を得るから、
戦えば勝利し、まもれば堅固になる。
天も人を助けるときには、やはり「慈しみ」によって守るのだ。

 

原文

天下皆謂我道大,似不肖。夫唯大,故似不肖。若肖,久矣其細也夫﹗我有三寶,持而保之。一曰慈,二曰儉,三曰不敢為天下先。慈故能勇;儉故能廣;不敢為天下先,故能成器長。今舍慈且勇,舍儉且廣,舍後且先,死矣﹗夫慈以戰則勝,以守則固。天將救之,以慈衛之。

老子超訳(第六十六章)

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大河や海が多くの河川の水を集めて王者になれるのは、それらが十分に低い位置にありへりくだっているからだ。
だから多くの河川の王者になれるのだ。
こうしたわけで、統治者が人々を治めようとすれば、かならず謙虚な言葉を用いてへりくだり、人々の先に立ちたいと望むなら、かならず自分のことを人々の後ろに置かなければいけない。
こうしたわけで、聖人は統治者として人々の上にいても、人々はそれを重荷とは思わず、人々の前に立っていても、人々はそれを邪魔だとは思わない。
こうしたわけで、世界中の人々は喜んでかれを推戴して、誰も嫌がることがない。
聖人は人と争わないから、だからこそ世界中にかれと争って勝てるものがいないのだ。

 

原文

江海所以能為百谷王者,以其善下之,故能為百谷王。是以欲上民,必以言下之。欲先民,必以身後之。是以聖人處上而民不重,處前而民不害。是以天下樂推而不厭,以其不爭,故天下莫能與之爭。

老子超訳(第六十五章)

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『道』をしっかりと実践した昔の人は、人々を聡明にしたのではなく、逆に人々を愚直にしたのだ。
人々が混乱して治めにくいのは、かれらに知識が多すぎるからだ。
だから、知識を用いて国を治めるのは、国を害することになる。
知識を用いないで国を治めるのは、国にとって幸いをもたらすことになる。
この二つのことをわきまえるていることが人々を治める原則である。
いつでもこの原則をわきまえていること、これを深遠な徳、「玄徳」とよぶ。
この「玄徳」は底知れぬ深く、果てしなく広い。
一見、もののあり方とは反しているようにみえるが、
これによって最高の調和にゆきつくのだ。

 

原文

古之善為道者,非以明民,將以愚之。民之難治,以其智多。故以智治國,國之賊;不以智治國,國之福。知此兩者亦稽式。常知稽式,是謂玄德。玄德深矣,遠矣,與物反矣,然後乃至大順。

老子超訳(第六十四章)

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物事が安定しているうちは、その安定を維持しやすい。
物事のきざしが現れていないうちは扱いやすい。
物事が脆いうちは分解しやすい。
物事がかすかなうちは消散しやすい。
だから、問題が生じないうちに処理し、混乱しないうちに収めてしまうことだ。
抱きかかえるほどの大木も、小さな芽から生まれる。
九層もの高殿も、一盛りの土から築かれる。
千里の遠い旅も、足元の一歩から始まる。
このような小さなことを大切にしないで、特別なことをすると失敗するし、何かを無理に捕まえておこうとすると失うことになる。
そのため聖人は、特別なことをしないから失敗することはないし、何かを無理に捕まえておこうとしないから失敗することはない。
人々が何かをするときは、いつも完成しそうになったときに決まって失敗する。
始めの一歩と同じように、終わりまで慎重にしていけば失敗することはない。
こうしたわけで聖人は、欲を持たないことを欲とし、
珍しい品物を貴重と思うことはないし、
学ばないことを学とし、
そのことで、人々がよくおかす過ちから引きもどす。
こうして聖人は、万物のあるがままの在り方を助けて、特別なことは決してしないのだ。

 

原文

其安易持,其未兆易謀。其脆易泮,其微易散。為之於未有,治之於未亂。合抱之木,生於毫末;九層之臺,起於累土;千里之行,始於足下。為者敗之,執者失之。是以聖人無為故無敗,無執故無失。民之從事,常於幾成而敗之。慎終如始,則無敗事。是以聖人欲不欲,不貴難得之貨;學不學,復眾人之所過。以輔萬物之自然,而不敢為。

老子超訳(第六十三章)

行為がないことが行為であり、大した物事が起こっていないことが起こっていることだとみなし、味がないものほど味わいがあると思う。
小さものほど大きいと大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱い、怨みに対しては恩で報いる。

困難なものごとには、それが容易なうちに着手し、大きなことは、小さなうちに処理する。世界の難問題も必ずやさしいことからおこり、世界の難事件もちょっとした小さなことから起こる。
したがって、聖人は決して大きなことをしない。それでこそ、大きなことを成しとげる。
そもそも、いい加減に人の要求に応じると、必ず信用をなくすことになり、簡単だと思っていると、必ず困難なことにぶつかる。
こうしたわけで、聖人は常にものごとの難しい側面を見ようとする。だから、難しい状況に陥ることがないのだ。

 

原文

為無為,事無事,味無味。大小多少,報怨以德。圖難於其易,為大於其細;天下難事必作於易,天下大事必作於細。是以聖人終不為大,故能成其大。夫輕諾必寡信,多易必多難。是以聖人猶難之,故終無難矣。

老子超訳(第六十二章)

『道』はあらゆるものの奥深くに隠れていて、全てに浸透しているのです。
誠実な人はそれを大切なものと尊重して生きていますが、そうでない人もそれによって守られているのです。
言葉が良ければ人々から尊敬されるし、行いが良ければ人々上に立つようになるのです。
たとえ『道』から外れている不誠実な人でも、『道』は決してその人を見捨てることはないのです。

天子の即位や大臣の任命のときに玉や馬車を献上することよりも、『道』のことを教える方がよいのです。

遠い昔から『道』は人々から尊ばれてきました。
その理由は、『道』に在れば求めればすぐ得ることができ、『道』に在れば罪があってもそこから解放されるからなのです。
それだから、世界中で最も尊いものとされているのです。

どんなものを与えるよりも、『道』に在ることを教える方がよいのです。
『道』に在ることは、結局は、すべてを得る(すべてになる)ことなのです。

 

原文

道者萬物之奧。善人之寶,不善人之所保。美言可以市,尊行可以加人。人之不善,何棄之有。故立天子,置三公,雖有拱璧以先駟馬,不如坐進此道。 古之所以貴此道者何。不曰﹕以求得,有罪以免邪。故為天下貴。

老子超訳(第六十一章)

大きな国というものは、言ってみれば、もろもろの川が大河に集まり海に行き着くように、すべてのものが行き着くところです。
それは女性的な在り方であり、統合回帰するところであり、静かにつつましくしているのです。
それが分離発生する男性的な在り方を包み込んでしまえるのは、下にいてへりくだり、穏やかにしているからなのです。
ですから、大きな国が小さな国にへりくだって穏やかにしていれば、小さな国の尊敬や信頼を得ることができます。
また、小さな国が大きな国にへりくだって役に立とうとしていれば、大きな国の保護や信任を得ることができます。
したがって、あるものはへりくだって他者の尊敬や信頼を得ることができ、あるものはへりくだって他者の保護や信任を得ることがでるのです。

大きな国は小さな国を導き養いたいと望んでいるだけであるし、小さな国は大きな国に仕え役に立ちたいと望んでいるだけなのです。
そうすると、大きな国も小さな国も、その望むようにしたいならば、へりくだるということが大切なのですが、とりわけ大きな国がへりくだっていることが大切なのです。

どんな立場であろうと、その今ある立場でつつましく謙虚であることで、ものごとが自然と進んでいくようになるのです。

 

原文

大國者下流,天下之交。天下之牝,牝常以靜勝牡,以靜為下。故大國以下小國,則取小國;小國以下大國,則取大國。故或下以取,或下而取。大國不過欲兼畜人,小國不過欲入事人。夫兩者各得其所欲,大者宜為下。