自我の終焉

自分

私たちが「自分」と言うとき、それは一体何を示しているのでしょうか。

おそらく私たちは「自分」のことを、自分の体、自分の思考、自分の言葉、自分の感情などとして認識しています。
しかし、それらは本当に「自分」なのでしょうか。

実際にこれらについて確認してみましょう。
自分の身体。これは本当に自分の身体なのでしょうか。ずっと自分の身体と思っていたものは実際には消滅し変化しています。身体の細胞はほぼ6ヶ月ごとに入れ替わっているので、6ヶ月前の自分は今の自分とは全く違うものになります。
自分の思考についてはどうでしょうか。生まれたときには何も頭に入っていなかったのに親との接触や教育などによって様々な情報から思考が作られてきました。すべての思考は情報でありそれは自分以外のどこからかやってきたものです。言葉も同じく自分自身が作り出したものは一つもないでしょう。
感情も状況に対する思考の対抗反応です。ある状況に対して共感や反感が生まれるとき感情を使います。これも一つのエネルギー状態を経験しているだけなのです。もちろんこの感情が思考と結びつくと人生がよりドラマチックに感じられるのは事実ですが。

面白いことに、この情報の一つの状態である偽の自分(自我と言っていいでしょう)を、自分の意見、自分の身体、自分の感情などと同一化してしまうと、これらの自分の意見、自分の身体、自分の感情といったものを他者から否定されると、自分の全存在が否定されたと思い、怒ったり、憤ったり、悲しんだりします。自我が強い人ほど「いや、でも、しかし」という言葉が多く、議論好きで、不平不満を言う傾向にあります。これは過去の経験による思考と感情が固着したエネルギーブロック(一種のトラウマ)ができていることによります。

しかし、この同一化をやめしっかり観察してみると、これらの「自分」は体験の道具でしかなく、本当に体験しているのはそれより大きな存在の真我なのです。これに気づくとすべてが解放されます。生き方に調和があらわれ、今ここに生きるようになります。

様々な宗教や精神世界で「悟り」と言われるものは、この本当の自分と自分だと思い込んでいる自我をしっかりと見つめることなのです。自分の思考は自分ではないと観察し、自分の体は自分ではなく常に変化しているものであると観察し、自分の言葉は常に変化する情報でしかないと観察することなのです。「本当の自分」とか「真我」と言われるものはこの観察者なのです。それは探したり作り上げたりすものではなく、自我をしっかりと見つめたときに初めて起こること、つまり何かをやめた途端に現れるものなのです。もともと存在していたものを改めて確認することなのです。あることをやめた途端に現れるものなのです。

すべての答えは常に自分の中にあるのです。これまでも、これからも、ずっと自分の中に存在しているのです。
自我というものが終わったとき、自我が見ようとしなかった本当の自分の姿が現れるのです。

それは、ただただ起こるのです。

 

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