私たちの社会はモノや情報で溢れかえり、自分たちの環境を正面から見ることをあえてさせないようになっています。ちゃんと見てみると異常なことは一目瞭然なのですが、スッキリした社会になると一時的に損をする人たちがこれをさせないように脅したり刺激したりしています。
私たちの家の中も余分なモノで溢れ、そのグチャグチャな環境を見たくないので、敢えて考えない習慣がついていました。
しかし、不要なモノを手放し周囲がスッキリとしてくると、モノの一つ一つの性質が見えてきます。これまで見ようとしないで避けてきた状況を見ようとする態度ができてきます。そして、モノの在り方が見えてくると同時に、今まで習慣的に行ってきたことや考えてきたことにも違った光が当てられます。
これは何のためにここに在るのか。これを所有し使うことは私たちにどんな影響があるのか。なぜこれを持っていたいのか。これはここにあるのがベストなのか。そのような疑問が自然と湧いてきます。
おそらくこの辺りでは、使っているモノや必要なモノが手元に残っているのが一般的でしょう。しかし、ここで質問です。
使っているモノは手放さないほうがよいのか。
自分から見たら、使っているモノは確かに持っていて良いはずです。でも、その自分が使っている理由は何でしょう。必要のない欲求からそれを使おうとしていることはないでしょうか。
この段階にくると、自分の視点およびモノからの視点を超えて、自分とモノとの関係性が何によって成り立っているのかが見えてきます。
私の場合は、持っていたいと思っていたはずのモノに対してある違和感を感じ始めました。頭ではそれを持っている完璧な理由がきちんとあり、それを計画的に使っているのですが、どうしても気持ちの中に嫌なムズムズ感というのでしょうか、そういう感覚があるのです。考えている頭と心が、あるいは頭と体が一致していない感覚です。理性的な観点から見て正しいと思っていたことが、心の奥底ではそうではない、あるいは体そのものが否定しているのです。
私は違和感のあるモノは手放しました。頭では持っているべき理由だと思っていたのは、欲求が作り上げた「理由」と名付けられた「言い訳」なのです。人の持っている価値観や理由というのは、過去の経験を材料にして頭の欲求が作り上げたものです。そこから見た今ここは純粋に経験することができません。現代の多くの人の生活に現れているように余計に物事を複雑にします。
理屈を手放し、心の目で物事を見るようになると、敏感なセンサーがきちんと機能し始めます。その時の状況に調和した見方ができるようになります。自分と自分以外とが一体となった見方になるのです。物事を一瞬にしてシンプルに見ます。
モノを手放すことは、そのようなことにもつながっているのではないでしょうか。