深い体験

今ここに在る、とは、実は体験を深めることと同じことです。私たちは過去の経験に照らして、喜びや楽しみを味わおうとし、痛みや苦しさを避けようとする思考習慣を続けてきました。このような思考習慣は、私たちを今ここから遠ざけます。そしてその「喜び」とか「楽しみ」、「痛み」とか「苦しみ」とレッテルを貼った体験をエネルギー的な荷物として背負い込むことになります。

今ここに在ることは、その「喜び」や「痛み」と名付けられた体験をレッテルを貼らずに受けいれ感じることなのです。懸命に感じるのです。それは感じることによって「喜び」や「痛み」というものではないと気がつきます。その名付けていた体験が初めてのことであり、どんなに貴重なものか、どんなにありがたいことなのかが感じられます。
この体験を深めるということは、喜びや痛みだけではありません。あらゆる習慣化した体験が、真にありがたいものに変わります。
食事をしているとき、口に入れた食べ物を本当に味わってみましょう。食物の命と自分の命が一体化します。運動している時には、呼吸と筋肉の躍動をしっかりと感じてみましょう。どんなに自分の魂が喜んでいるかが分かるでしょう。
どんな体験であっても、今ここにあり深く味わえれば、それを通して魂は喜びます。
「ああ、生きている!」と。

ありがとうございます。

「今ここ」と丹田

双葉山

丹田(ハラ)を強くすることについての重要性は様々なところで言われてきました。
健康になる、強くなる、頭が良くなる、などの効果もあげられています。
しかし、その本当の意味は、丹田の強さが「今ここ」に在ることとつながっているということなのです。物質的なものを超えて人間の存在を観察すると、丹田の位置にその存在の中心があります。今ここから離れると、その中心に輝いている球状の光の玉を曇らせたり歪めたりしていると観察できます。
つまり、今ここに在ることは、その丹田の玉の汚れを落とす、余計なものを剥ぐことになります。人間というのは実はもともと光り輝いているのですが、それに汚れがついている状態が、苦しみや迷いになっているのです。
自分の中心である丹田を意識していることは、同時に、自分ではないものである汚れを自分に寄せ付けないことであり、汚れがないということは丹田がキレイに輝いていることであり、純粋に今ここに在るということなのです。
丹田に意識を置いていれば、自然に汚れが落ちていき、今ここに在ることになるのです。ここにある写真の二人は「今ここ」丹田の良い例です。

ラマナ・マハルシ

全てに完璧さを見る

私たちは、状況や物事にどんな気持ちや印象をもつでしょうか。

何かが自分の身に起こった時、どんな感情を持つでしょうか。
そこに、それはそれで良しとする感情、つまり状況や物事に完璧さを見ることができるでしょうか。周りの全てのものの中に、完璧さをみることができるでしょうか。全てのことの中の荘厳さに気づけるでしょうか。

その状況や物事の完全性に気付き始めると、物事が在るべき姿、美しさが見え始め、それを表現し始めます。
それは普段の行為として、例えば掃除や整理整頓であったり、清潔にすることであったり、すっきりとした考え方をすることであったりということに現れます。
物事の内にある輝く本質が表現されるべきものだと知るので、それが自ずから表現できるものは表現させ、表すのを助けることができるものは助け、見つめるだけしかできないものは見つめるようになるのです。

できる限り物事を在るがままにしようとします。在るがままとは、そのままということではありません。その物がどこにどんな風に在るものなのかが理解でき、そこに在るよう助けるでしょう。
また、秩序だった考えをし、美しい言葉使いをするでしょう。人に対してもその中に光を、完璧さを見て、その通りのものを引き出すのです。
それは自分自身にも当てはまります。自身の中に完璧さを見ると、自分の才能、健康などが在るがままの最高の状態になるでしょう。
自身に完璧さを見る人には、自然とこの言葉が心に浮かびます。
私は愛なり光なり。
どこかの誰かが同じようなことを言っていましたね。

ありがとうございます。☆☆☆

世の中で一番必要なこと

今ここに在るという在り方と、自分が世の中でしなければならないことは一体どんな関係があるのか、と私たちは疑問に思います。

世の中には自分の意志とは関係なくやらなければいけないことがあるのではないか。世の中には行う必要があることがたくさんあり、そのことを考えると、今ここにあることは後回しになってしまうのではないか。家族を養うため、子供を育てるため、生きていくため、そうして生きているのに今ここに在ることは本当に利益になるのか、と。

しかし、その疑問自体が物事をうまく行かなくする原因なのです。
今ここに在ることは、必要なものは何もないと悟ること、必要なものは今ここに全てあると悟ることなのです。そして、実は、世の中で一番必要なのは、私たち自身が今ここに在り、その結果生き生きとしているということなのです。

もし、自分を生き生きとさせて、今ここに在る状態にしてくれるものがあるなら、その生き生きさせてくれるものをどんどんやったほうがいいのです。
生き生きしている人を見て文句を言う人が出てくるかもしれません。それはその文句を言っている人の問題なので気にする必要はありません。生き生きしていることを否定する人の理屈によってやめないでください。いずれ文句を言う人に対しても、今ここ生き生きは良い影響を与えます。

世の中に必要なのは「今ここ・生き生き」の輝きなのです。
でも、死ぬ時はどうするって?大丈夫です。そういう人は、生き生きと死んでいくでしょう。死も生も変化なのですから。

全ては在り方の絶え間ない変化です。変化の今ここに、生き生きと在りましょう。

それが、世の中で一番必要なこと。

ありがとうございます。

全てで在ること

「今ここ」に完全に在る、それは体と精神と魂が統合し、全人的な存在になることです。
それ以前には、自己という制限された存在の中に意味を見いだし、自己以外のものに意味を見出し、それを所有することによって自分の存在を主張してきました。
しかし、今ここに完全にあれば、宇宙の大きなパターンと融合し、その秩序を理解することができ、智というものは直接知であり、自分の人格を周りの全てと統合することになります。
今ここは聖なる場所で、無限に広がる今ここの現実性を超越した状態に繋がります。物理的世界を超え、自身の中に全体性を創り出し、その存在に現実の世界で与えられる限りの最高の意義を持たせることになります。
人が生きていることの意味、人間の体がなぜこういう形なのか、なぜ宇宙を今そう見えているように見ているのか、なぜ私たちがさまざまな物事で悩んだり、努力をしたりしているのか、全てのことを直接に理解します。
「私」というものはいなくなり、全ての存在、宇宙、全てのエネルギーが私と同意になります。私が宇宙に溶け込むと言うのでしょうか。
一滴の水が、「私は水滴だ」「私は雲だ」「私は雨だ」「私は川だ」「私は汗だ」「私は涙だ」などと言っていたのが、海に戻り「私は海だった、そして全てだった」と悟ります。
私以外のものとの差が取れるのです。これこそ差取りの本当の意味なのでしょうね。
そして、全ての物事に対して、感謝の気持ちがあるだけなのです。

ありがとうございます。

自と他

なぜ世界には自分があり、自分以外の他があるのでしょう。
それは体験のためです。
体験するためには自と他が必要なのです。
宇宙は最初(時空を作り出す前は)、自だけでした。しかし自だけでは『体験』がないのです。
自を分けて、自と他を作り出せば、自は他を認識し働きかけることができます。そこで時空間ができます。そういう言わばゲームを作り出したのです。しかし究極の宇宙は自だけなので、そこでは自も他も一緒です。そして時空の分離はありません。
自と他、そしてそれが結びつくことによる新たな自他の創造。これがさまざまな時空レベルで経験されています。

肉体三次元世界では自と他が設定されているので、他の中に自を見ることができるのです。
時空間の中では、今ここに在るというその在り方自体は目に見えないので、他を見て自分の在り方の結果であり鏡である現実を見て、自分の在り方を認識します。

自他がもともと一つの自であった痕跡が私たちが自分たちのことを「私」や「自分」と呼ぶことに表れています。私たちは意識の奥では、自分たちがたった一つの同じ存在だと気づいているのです。
この地球上の70億の私は、一つの私がこの地球上で70億通りの体験をするためにあるのです。
また、人だけでなくその他の動物、植物、鉱物など、また異なったレベルで「私」というものを体験しているのです。

そのことを思い出すと、あらゆる体験、あらゆる物事、あらゆる人々を感謝で受け止めるようになるでしょう。

在るのは感謝だけです。

☆☆☆


モノがこころになる時代

一つの時代がおわりつつあるのを感じます。

モノや情報で溢れかえっている時代は、もう無くなりつつあります。

もっと多くの財産、もっと多くの知識、もっと良い学校、もっと良い仕事、もっと多くの年収、もっと良い頭脳、もっと早く、もっと幸せになること、もっともっとという時代がもう無くなります。
それを支えてきた情報やテクノロジー、そしてそれを支えてきた価値観自体がもう役割を終えました。
多くの人が、自分の意識やこころが最高のテクノロジーであり、世界が自分のこころの鏡であると気づき始めています。
自分の生きている世界で何かを求めたり否定したりすること自体が、ただ自分の存在を宣言している行為だということだと知り始めたのです。

新しい生き方をしている人は、周囲の状況・世界に対する解釈は、自分の在り方が出ているということを知っています。
これからは、“モノ”は無くなります。
“モノ”は“こころ”と同一なのです。
近い将来、私たちの考え方の中には、買ったり捨てたりする“モノ”というのは、ほとんど無くなるでしょう。
買うのではなく預かる、捨てるのではなく感謝で手放す。モノを買ったり捨てるという考え方が、自分自身のこころを買ったり捨てたりすることだからです。

今ここでの自分を見つめて、何が不足なのか、何が不満なのか思い起こしてみてください。
何かが足りないと感じたら、それは自分が世界に対して、つまり大きな自分に対して与えていないものなのです。
物質として経験しているこの世界は自分のこころの鏡です。すべての経験が今ここでの自己存在の宣言なのです。
人も動物も自然もモノも、すべてはこころです。
モノがこころと同じように思えるなら、あなたはもう新しい世界の住人ですね。
ありがたいことです。

ありがとうございます。

7つの感謝の解説(7)

「7.人に何かをしてあげたら感謝しましょう。」

何かをしてもらう、例えば、席を譲ってもらう、荷物を運んでもらう、道を教えてもらう、商品を買ってもらう、褒めてもらう、プレゼントをもらう、などをしてもらった時に感謝を想起するのは簡単で在るかもしれません。
しかし逆の行為、自分が、席を譲ってあげる、荷物を運んであげる、道を教えてあげる、商品を買う、褒めてあげる、プレゼントをあげる、などをした時に感謝をするのです。

人に何かをしてあげるということは、自分の感謝を表現する貴重な機会なのです。人に何かを「させて頂いている」といったほうが良いでしょう。何かをしてあげるためには、してもらう存在が必要です。
そのしてもらう相手や対象の存在に感謝するのは自然なことなのです。

親切をするには、親切にされる人が必要です。医者になるには、病人がいなければなりません。医療行為をさせてもらえる人がいなければ、医者がする行為はないのです。
学校などでの先生の行為は生徒の存在に支えられ、席を譲る行為は譲られる人の存在に支えられているのです。

あらゆる行為がその行為の対象の存在に支えられているのです。このことを知ると今後はできるだけ多くの機会に、「〜をさせて頂いてありがとうございます」と想起することでしょう。「私」という存在が「私たち」というより大きな存在になるでしょう。私たちという言葉さえ調和の中に消え去り、世界との一体感だけとなるでしょう。全ての存在が自身の最大の可能性を実現し、輝きだすでしょう。

7つの感謝。何度も読んで下さいね。
読むたびに何か新しいものに光を当てるでしょう。

読んでいただいて、ありがとうございます。

7つの感謝の解説(6)

「6.人に何かをしてもらったら感謝しましょう。」

人に何かをしてもらった時、それが近しい人ほど感謝を現わすのが難しいようです。
それは、やはりそのしてもらっている行為に慣れてしまっているからだと考えられます。当たり前だと思ってしまっているのです。
生きていること自体がとてつもなく大きな感謝の対象であるのですから、プラスアルファ何かをしてもらうということはそれ以上の感謝の対象なのです。

命を授かった上に、他人に何かをしてもらう。どれだけありがたいことでしょう。
私たちは生まれた時には一人では助けなしでは生きられない存在でした。生まれた最初から何かをしてもらって生きているのです。
自分で何かをできるようになったのも、自分以外の人に助けられた結果なのです。

今ここがいつでも生きるスタート地点だと考えると、これから生きていくのにずっと人に何かをしてもらうことでしょう。
その基本的な感謝は、私たちを生命の基本に立ち返らせてくれます。

人に何かをしてもらう時に感謝をすると、
生まれてから今まで、自分一人で生きてきたのではないのだ。ずっと何か自分以外のものに助けられて生きてきたのだ。
そういう思いが心を満たします。

感謝に在る時、私たちはあらゆる存在と結びつき、調和の中で自神を持って生きていることでしょう。
新しい時代には,皆がそう在ることでしょう。

今ここ感謝ですね。
有り難いことです。

何かをしてもらうという範囲を広げると、感謝は一層広がります。
それは次の(7)で。

ありがとうございます。

7つの感謝の解説(5)

「5.使っているものに感謝しましょう。」

使っているものの最初に来るのは、自分の身体ですね。
生まれてきた時に最初に使いはじめ、死ぬまで使わせてもらう身体は、最初に感謝の対象になります。
自分の身体に感謝すると、身体はいかに活動するのか、いかに休むのか、いかに食事を取るのか、などを自然に伝えてくれます。
それに調和しないと身体に不調をきたします。
身体は私たちが調和の中に生き、自神を現わすように最大限に助けてくれるのです。

自分の身体と同様、使わしてもらっている全てのものが、感謝に答えます。
日常生活で使う様々なもの、住んでいる住居や使っている家具、衣服やパソコン、歯ブラシやトイレ、ペンやテレビ、車や自転車、帽子や靴、花瓶やライト、メガネやカップ、その他仕事で使っている様々なもの。

どんな小さなものも、私たちの生きる手伝いをしてくれています。私たちの世界を結びつけてくれています。
使っているもの一つ一つに感謝すると、行為そのものがものに伝わり、そのものを大切に使い、大切にすればするほど感謝も深くなります。そして、使っているものに関係している人やものにまで感謝が広がっていきます。
そして、その物、物体だと思っているものは、生命その物であり、意志を持って反応してくるのです。

まずは、いつも使っているもの、手に触れたものに感謝してみてください。
徐々に、私たちが見えるもの見えないもの、あらゆるものに支えられていることに気が付くでしょう。
そして、そこにあるのは喜び、感謝だけになるでしょう。
調和に生きることになるでしょう。

今日もいろいろなことに気付かされました。

ありがとうございます。