私は誰か?(16)

16.
真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、真我の内に現われるものである。これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。「私」という想念が絶対にないところ、それが真我であるそれは沈黙と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。


解説
真我と名付けられるものは、実はない。
真に在るのは真我だけなのだ。
世界、私、思考、感情、感覚、知覚、心、現象、科学、宗教、神、物質、生命、色、形、空間、時間、宇宙、素粒子、エネルギー、善悪、苦楽、美醜、幸不幸、どんなものも「私」のなかに浮かんでくる想念で在ると気づき、私というものも想念であると気づくとき、全ての想念が同時に消え去る。
真我でないものを全て否定し捨て去る時、在るのは真我だけだ。

原文
What is the nature of the Self?

What exists in truth is the Self alone. The world, the individual soul, and God are appearances in it. like silver in mother-of-pearl, these three appear at the same time, and disappear at the same time. The Self is that where there is absolutely no “I” thought. That is called “Silence”. The Self itself is the world; the Self itself is “I”; the Self itself is God; all is Siva, the Self. 

私は誰か?(15)

15.
探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?

心の中にものごとの印象がある限り、「私は誰か?」と尋ねなければならない。想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって破壊されるべきである。もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めばそれだけで想念は消滅するだろう。要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば要塞は我々の手中に落ちるだろう。


解説
想念を捨て去りきるためにはどれくらいの期間を要するのか?
それは時間の問題ではない。真剣さの問題だ。常に想念を捨てることだ。
常に起こってくる想念の源を見つめること。どんな想念であれ、それがどこから起こっているのかを見つめること。それだけが想念が実在ではないことを見破る。
「真我に至るにはどれくらいの探求の期間が必要なのか?」という想念でさえ捨て去ること。どんな瞬間も起こってくる想念を見つめる真剣さにより、実在である真我が姿を現すことになる。
「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」という問いを続けることで、その問いでさえ消え去るだろう。
全ての想念が消えた時、実在である真我が姿を現す。

原文
How long should inquiry be practiced?

As long as there are impressions of objects in the mind, so long the inquiry “Who am I?” is required. As thoughts arise they should be destroyed then and there in the very place of their origin, through inquiry. If one resorts to contemplation of the Self unintermittently, until the Self is gained, that alone would do. As long as there are enemies within the fortress, they will continue to sally forth; if they are destroyed as they emerge, the fortress will fall into our hands. 

私は誰か?(14)

14.
数知れない過去生から蓄積されてきた心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく真我への瞑想を続けるべきである。たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。心はただひとつだ。幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく心に刻まれる印象である。心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう戒められなければならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。自己が現われると、すべてが立ち現われ自己が静まれば、すべては静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。


解説
過去や過去生というものは、体や世界という想念と同じく、時間という想念の中で作られたもう一つの想念だ。それは過去の自分というものがいるという想念に囚われている自分がいるということだ。
「そう考えているのは誰か?」と問うことで、時間と空間という想念に囚われている自分に気づくだろう。
過去の不快な経験に囚われていたり、自我が強すぎるために感情的になるひとは、「そう考えているのは誰か?」という問いさえできないことがある。その時は瞬間に引き起こされる想念から離れ、より安心な想念に置き換えることから始める必要があるかもしれない。しかし、そのより良いと思われる想念もいずれは捨て去り、どんな種類の想念にも囚われないようにすることだ。
良い悪いという判断は、どんなものであれ自分が押し付けている想念である。それはただ自分の頭の中に起こっている想念だ。悪い想念を捨て去ることだ。そして、良い想念でさえも捨て去ることだ。
どんな壮大な、どんな偉大な、どんな神聖な想念でさえも、それは単なる幻想だ。全ての想念を捨て去ること。
真実でないものを全て否定し捨て去ること、それだけが真我が現れる方法だ。


原文
Is it possible for the residual impressions of objects that come from beginningless time, as it were, to be resolved, and for one to remain as the pure Self?

Without yielding to the doubt “Is it possible, or not?”, one should persistently hold on to the meditation on the Self. Even if one be a great sinner, one should not worry and weep “O! I am a sinner, how can I be saved?”; one should completely renounce the thought “I am a sinner”; and concentrate keenly on meditation on the Self; then, one would surely succeed. There are not two minds – one good and the other evil; the mind is only one. It is the residual impressions that are of two kinds – auspicious and inauspicious. When the mind is under the influence of auspicious impressions it is called good; and when it is under the influence of inauspicious impressions it is regarded as evil.
The mind should not be allowed to wander towards worldly objects and what concerns other people. However bad other people may be, one should bear no hatred for them. Both desire and hatred should be eschewed. All that one gives to others one gives to one’s self. If this truth is understood who will not give to others? When one’s self arises all arises; when one’s self becomes quiescent all becomes quiescent. To the extent we behave with humility, to that extent there will result good. If the mind is rendered quiescent, one may live anywhere.

私は誰か?(13)

13.
心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。 いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。


解説
「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」という問いをしていても、どうしても心が動き回り、周囲の状況に対して良い悪いと反応したり、感情にとらわれてしまったりしてしまう。心が静かになるどころではない。そういう人も多くいるだろう。
とにかく、常に自分の想念を観察することから始めることだ。何度感情に巻き込まれても、後悔の念にさいなまれても、それでも諦めずに自分の想念を観察し続けること。「そう考えているのは誰か?」と。
「そう考えているのは誰か?」という問いをとにかく続けることだ。そうすることで、少しずつ想念が破壊されていく。
「そう考えているのは誰か?」
この問いが、際限のない想念を拭い去るだろう。

原文
The residual impressions (thoughts) of objects appear wending like the waves of an ocean. When will all of them get destroyed? 

As the meditation on the Self rises higher and higher, the thoughts will get destroyed.

私は誰か?(12)

12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

探究以外に適切な方法はない。他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで再び勢いを増して現われるだろう。呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間のことだけであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。心も呼吸も、その源は同じである。想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念でありそれが自我性である。自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。そのため、心が静かになれば呼吸も制御され呼吸が制御されれば心も制御される。けれども深い眠りの中では、心は静かでありながら呼吸は止まっていない。これは、身体が維持されるようにそして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。目覚めの状態とサマーディにあっては心が静まっていれば呼吸は制御されている。呼吸は心の粗大な姿である。死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も心を静める助けに過ぎない。神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて心は一点に集中される。心は常にさまよい続けるだろう。鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。すべての規則制限の中でも適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が最上のものである。これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我探究の助けとなるだろう。


解説

想念の世界を終わらせるには「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」と問い続けることだ。それ以外の方法は、結局は想念を想念で抑えることになり、想念がさらに勢いづくだろう。
想念が想念であると気づくには、「そう考えているのは誰か?」という問いによって、全ての想念を私というものに帰結させることしかない。想念は全て私から生まれているということを知るためだ。
真我が現れるには、それを見つけようとすると失敗するだろう。ただ真我ではないものを否定していくことだけが方法だ。
真我ではないものを否定してのぞいていく、そのためには想念の源を追求することが最初だ。「そう考えているのは誰か?」という問いで、全てが自分の意識の上にある想念であることを知ること。「世界は私が死んでも存在するのでは?」というような問いでも、「そう考えているのは誰か?」と問い続けること。想念にどっぷり浸かっていなければ、この問いだけで十分だろう。
しかし、やはり中にはあまりにも感情に巻き込まれてしまっている人たち、またこの世界が真実だと思い込んでしまっている人たちには、この問いだけではうまくいかないだろう。そのような人たちのためには行動や心の制御を通して想念を減らすための方法、呼吸のコントロールや瞑想が役に立つだろう。
一つの動作に集中することや一つの対象に集中することは、想念を一つにまとめ、その他の想念を手放す助けになる。そうすれば、次にその最後に残った想念を捨てる準備になるだろう。
人によっては心を過剰に興奮させないような生活の摂生も必要になるかもしれない。過食や不摂生をなくすことから始めなければいけないかもしれない。
何れにせよ、真実を知ろうとする真剣さだけが大切だ。


原文
Are there no other means for making the mind quiescent? 

 Other than inquiry, there are no adequate means. If through other means it is sought to control the mind, the mind will appear to be controlled, but will again go forth. Through the control of breath also, the mind will become quiescent; but it will be quiescent only so long as the breath remains controlled, and when the breath resumes the mind also will again start moving and will wander as impelled by residual impressions. The source is the same for both mind and breath. Thought, indeed, is the nature of the mind. The thought “I” is the first thought of the mind; and that is egoity. It is from that whence egoity originates that breath also originates. Therefore, when the mind becomes quiescent, the breath is controlled, and when the breath is controlled the mind becomes quiescent. But in deep sleep, although the mind becomes quiescent, the breath does not stop. This is because of the will of God, so that the body may be preserved and other people may not be under the impression that it is dead. In the state of waking and in samadhi, when the mind becomes quiescent the breath is controlled. Breath is the gross form of mind. Till the time of death, the mind keeps breath in the body; and when the body dies the mind takes the breath along with it. Therefore, the exercise of breath-control is only an aid for rendering the mind quiescent (manonigraha); it will not destroy the mind (manonasa).
 Like the practice of breath-control. meditation on the forms of God, repetition of mantras, restriction on food, etc., are but aids for rendering the mind quiescent.
 Through meditation on the forms of God and through repetition of mantras, the mind becomes one- pointed. The mind will always be wandering. Just as when a chain is given to an elephant to hold in its trunk it will go along grasping the chain and nothing else, so also when the mind is occupied with a name or form it will grasp that alone. When the mind expands in the form of countless thoughts, each thought becomes weak; but as thoughts get resolved the mind becomes one-pointed and strong; for such a mind Self-inquiry will become easy. Of all the restrictive rules, that relating to the taking of sattvic food in moderate quantities is the best; by observing this rule, the sattvic quality of mind will increase, and that will be helpful to Self-inquiry.

私は誰か?(11)

11.
「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのだろうか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。それに対して現われる答えは「私に」だろう。そこですぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると粗大な名前や形が現われる。心がハートの中にとどまっていれば名前と形は消え去る。心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させることは「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このように、心がハートの中にとどまっているときすべての想念の源である「私」は消え去り永遠に存在する真我が輝き出す。人は何をするときにも「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。


解説

「私は誰か?」という問いは、この想念の世界を終わらせる最後の問いになるだろう。
そこに至るまでにたくさんの想念が起こってくるのを経験することだろう。世界の見え方、現象の解釈、人や出来事に対する価値判断、という様々な考えを経験するだろう。不安、安心、悲しみ、喜び、苦しみ、満足、幸せ、快感、というような感情、そしてその複雑な組み合わせを経験するかも知れない。
どの想念が起こっても、それに囚われず、巻き込まれず、追いかけず、ただ「そう考えているのは誰か?」と問い続けることだ。どんな考えもだ。どんな考えも例外なく「そう考えているのは誰か?」と問い続けること。
この問いをするたびに現れる答えは「そう考えているのは私だ」だろう。全ての想念が私の中に現れていることに行きつく。そこからは「私は誰か?」という問いを続ける。これを繰り返せば想念・心が静まり、心の源に行きつく(心の源の位置は、この想念世界ではハートの位置にあると言うが、これも想念だ)。
心は脳を中心とする感覚器官を通ると、形や大きさ、時間や空間という想念を作り出し分類し名前をつける。さらに体や考えが私であり、私が世界に取り囲まれているという複雑な想念を作り上げる。
全ての想念が起こるとき、「そう考えているのは誰か?」「私は誰か?」と問い続けること。それによって「私」という想念も消え去る。それが全ての想念の終わりだ。
想念で覆い隠せれていた真我は自ずと姿を現し、輝き出す。

原文
What is the means for constantly holding on to the thought ‘Who am I?’ 

When other thoughts arise, one should not pursue them, but should inquire: ‘To whom do they arise?’ It does not matter how many thoughts arise. As each thought arises, one should inquire with diligence, “To whom has this thought arisen?”. The answer that would emerge would be “To me”. Thereupon if one inquires “Who am I?”, the mind will go back to its source; and the thought that arose will become quiescent. With repeated practice in this manner, the mind will develop the skill to stay in its source. When the mind that is subtle goes out through the brain and the sense- organs, the gross names and forms appear; when it stays in the heart, the names and forms disappear. Not letting the mind go out, but retaining it in the Heart is what is called “inwardness” (antar- mukha). Letting the mind go out of the Heart is known as “externalisation” (bahir-mukha). Thus, when the mind stays in the Heart, the ‘I’ which is the source of all thoughts will go, and the Self 

私は誰か?(10)

10.
どうすれば心は静かになるのでしょうか?

「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。


解説

どうすれば心が静かになるのだろうか。
心は想念を生み出し、想念は世界を形作る。作り出された想念を想念で静かにしようとすることはできない。それは無数にある想念にさらなる想念を付け足すだけだ。
想念の幻想から解放されるには、その想念を起こしているのは誰かを常に問うこと。「そう考えているのは誰か?」、そして「私は誰か?」と問い続けることだ。
「そう考えているのは誰か?」という問いは、あらゆる想念を自分が作り出しているということに行きつく。最後に「私」という一つの想念に行きつく。
そして、「私は誰か?」という問いは、世界や考えという想念が真の私ではないという「私」の否定に行きつく。
全ての世界を創造して支えてきた「私」が想念の否定とともに消えていく。
想念である自我として世界とともに現れていた「私」が消え去ると、在るのは全てを生み出している真我だけだ。

原文
How will the mind become quiescent?  

By the inquiry ‘Who am I?’. The thought ‘who am I?’ will destroy all other thoughts, and like the stick used for stirring the burning pyre, it will itself in the end get destroyed. Then, there will arise Self-realization. 

私は誰か?(8)

8.心の本性とは何でしょうか?

「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心はすべての想念を起こさせる源である。想念を離れて心のようなものは実在しない。それゆえ、想念が心の本性である。想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。深い眠りの中に想念はなく、世界もない。クモが自分の中から糸を出し、それをまた自分の中に引き入れるのと同じように心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身の中へ還元させる。真我の中から心が外に出るとき、世界が現われる。それゆえ世界が(実在として)現われているとき真我は現われない。人が絶え間なく心の本性を探究し続けるならば心は真我をあとにして死滅するだろう。「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。


解説
心、それは想念の集合だ。心が捉えている世界というものは想念の一つだ。
考え・想念に対して「それを考えているのは誰か?」「私は誰か?」と問い続けることによって、心の源を見つめることだ。そうすれば、心というのは想念の集合だということに気づくだろう。
私というものが現れるとその瞬間に世界という想念が現れる。深い眠りの中にいる時、私はなくなり想念もなくなる。世界もそこにはない。
私が現れ、その心が想念だと気付き、私が現れると同時に現れる世界が想念であり実態がないと気付くとき、心が消え失せ、実在である真我が現れる。

原文
What is the nature of the mind?

What is called ‘mind’ is a wondrous power residing in the Self. It causes all thoughts to arise. Apart from thoughts, there is no such thing as mind. Therefore, thought is the nature of mind. Apart from thoughts, there is no independent entity called the world. In deep sleep there are no thoughts, and there is no world. In the states of waking and dream, there are thoughts, and there is a world also. Just as the spider emits the thread (of the web) out of itself and again withdraws it into itself, likewise the mind projects the world out of itself and again resolves it into itself. When the mind comes out of the Self, the world appears. Therefore, when the world appears (to be real), the Self does not appear; and when the Self appears (shines) the world does not appear. When one persistently inquires into the nature of the mind, the mind will end leaving the Self (as the residue). What is referred to as the Self is the Atman. The mind always exists only in dependence on something gross; it cannot stay alone. It is the mind that is called the subtle body or the soul (jiva). 

私は誰か?(7)

7.
対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき、世界は消え去るだろう。


解説

世界が実在としてあるときは真我は現れない。世界はあまりにも強い印象を私に残すので、私を取り巻く世界は強烈に実在であるかのように私に迫ってくる。
それが私の中にある幻想であると気づくには、私というものに対して真剣に向き合わなくてはならない。
世界を認識している感覚や行為という体が起こす原因が全て想念であるということに気づく、ただそれだけだ。
それには、「それを考えているのは誰か?」「私は誰か?」を問い続け、私という心を見つめ、それが自ずと消えていくことによって幻想である世界が消えていくだろう。
そして、私という幻想が消えた時、実在である真我が姿を現す。

原文
When will the world which is the object seen be removed?

When the mind, which is the cause of all cognitions and of all actions, becomes quiescent, the world will disappear.

私は誰か?(6)

6.
なぜでしょうか?

見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。錯覚である蛇という知識がなくならない限り実体であるロープという知識は得られない。同じように世界が実在であるという確信がなくならない限り実在である真我の実現は得られないだろう。


解説

世界が実在するものであるという考えは、暗闇でロープ見て、それを蛇と思いこむようなものだ。蛇がいると思い込んでいるうちは、それがロープだという真実は見られないだろう。
同じように、世界が実在すると思い込んでいるうちは、真我は現れないのだ。しかし真我は常にここにある。
世界は実在ではない。それが想念であると気づくこと。
それには、いつも「それを考えているのは誰か?」「私は誰か?」と問い続けることだ。


原文
Why?

The seer and the object seen are like the rope and the snake. Just as the knowledge of the rope which is the substrate will not arise unless the false knowledge of the illusory serpent goes, so the realization of the Self which is the substrate will not be gained unless the belief that the world is real is removed.