その人はコーヒーが好きでした

その人はコーヒーが好きでした。

いつも自分のことよりも他人を気遣い、何一つ不平不満を言わず、穏やかな笑顔で落ち着いて、いるかいないかも気にしなくていいくらい自然な存在でした。

私もコーヒーが大好きでした。普段から自宅でもカフェでも様々な種類のコーヒー豆を購入し楽しんで飲んでいました。私は当時は仕事が忙しく、毎日のように仕事の合間にカフェで次の仕事の準備をしながら様々な種類のコーヒーを飲むのを楽しむのが常でした。

その人と月に数回は会っていました。
会っていても当たり前のように一緒に過ごしていました。
本当に自然に、当たり前のように。

ある日、食事を一緒にした時でした。いつものように普通に話し、笑って楽しい時間を過ごしていました。
食事の後、コーヒーを飲んでいましたが、その人が、「最近、エスプレッソマシンを買ったんだ」と嬉しそうに話してくれました。「すごく美味しいんだよ。あきおくん、今度飲ませてあげるから、マシンを持ってくるね」と。
私もコーヒー好きなのですが、そんなマシンまで持ってきて飲ませてくれるなんて、そこまでしなくてもと思いましたが、楽しみにしていると軽く返しただけでした。

そして、
次の週、その人は亡くなりました。
最初、その人の死を知った時、私は何も感じませんでした。
全く、何も、感じなかったのです。
何も感じないようにしたというのが本当でしょう。
心を麻痺させました。
一ヶ月は心が何も感じなくなりました。
コーヒーは飲まず、コーヒーを見ると、さらに心を麻痺させました。
一ヶ月ほどコーヒーというものから離れました。
カフェにも行きませんでした。
何も感じませんでした。
何も感じたくありませんでした。

その人の死の後、久しぶりに知人とカフェに行きました。
コーヒーを飲んだら、心が溶けました。
硬くなっていた心が、柔らかくなりました。
カフェで、周りの目をはばからず声を震わせ泣きました。
涙が止まりませんでした。
涙が枯れるまで泣きました。

その後も数ヶ月は心を麻痺させ、カフェに行けませんでした。
失ったもの、失う前は全く意識していなかったもの、どれだけ大切なものだったのか。

当たり前のものなど無いと知ること。
当たり前なものほど大切だと知ること。
当たり前なものほど大切にし、愛を送ること。
どんな時でも、どんなものにでも愛でいること。
伝わっても伝わらなくても、いつも愛でいること。

愛でいること。
それが最高の在り方なのだから。

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