スッタニパータ40

40.
仲間の中にいれば、休んでいる時にも、立ち止まっている時にも、どこかに行く時にも、旅する時にも、いつも話しかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

どんな仲間やグループであれ、その中にいる限りは必ず他人の価値観にさらされ続けることになります。他人や世界は自分の心の鏡なのですが、いつも鏡を見ている必要はありません。他人や世界が自分の心の写しだと知れば、他人や世界は必要がなくなります。結局は他人といようと一人でいようと全く同じことだと気づくでしょう。自分の心だけがある、と。
ただただ自分の心が作り出しているものに気がついていることです。全ては自分の心が作り出していることを知れば、世界というものはなくなり、自分自身もなくなり、全てが一体となるでしょう。そこにはただ「在る」ことだけが残るでしょう。

スッタニパータ39

39.
繋がれていない野生の動物が、森の中で食物を求めて思うがままに動き回るように、聡明な人は心に独立自由を抱き、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

真の自由というのは、心がどんなものにも執着しないことです。
どんなことであれ心がそれに執着しているというのは、執着している対象に囚われていて、そこに繋がれているということです。自分の心がどこに向いていて何に囚われているかを知ること、その囚われを捨てること、すると空虚に見えるその場所に真の自由が見出されることでしょう。真の自由こそが自と他が合わさり、全てが自身であると知ることなのです。

スッタニパータ38

38.
子どもや妻に対する愛著は、生長した竹の枝が他の竹の枝と互いに絡み合うようなものである。筍が他のものに絡み合うことのないように、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

人間関係の中で一番近い関係にあるもの、それが家族です。関係が近い分だけ家族は自分に近いもの、自分のもの、自分の所有物であるかのように思い込みます。
自分の肉体でさえ自分のものではないのですが、自分の肉体の次に自分のものであると思い込んでしまうもの、それが自分の配偶者や子供です。
自分の配偶者や子供も、それぞれがそれぞれの意識を持った存在です。自分の自由に生きています。ある意味で、家族でさえあなたとは関係なく自分の意識の中で生きているのです。ただそれぞれの人生の体験をするために、相手は自身の鏡として一緒にいるのです。
家族というのは、あなた自身のことを一番を映し出している鏡なのです。それを自身の現れと捉えないで、自分のものと思い込みコントロールしようとすると、結局は自分の人生をさらに複雑にしていくことになります。
自分に近い関係こそ、自分の自由になりそうなことこそ、それに執着しないことです。自分の心があらゆることから自由になり、自由になることが全てと一体になると知ることです。
全てを手放したとき、全てがあなたの中に流れ込むでしょう。

スッタニパータ37

37.
仲間や友人に共感し同情することによって、自身の目的を見失い心がとらわれてしまう。友人関係にはこの恐れのあることを観察して、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

親しい友人関係の中にいると、自分の中の不足感を見ないでおける状態に置かれます。楽しい時間の中にいるので、特に自分の心の奥底の不足感が見えなくなります。そこから離れた時に必ず自分の中に存在する不足感に気づきます。
その不足感・孤独感の中にあって、自分の中の完全性を見ていないと気づくことが大切です。その孤独感を満たすためにさらに友人との交流を求めることは、自分の中にさらなる不完全性を生みだし、また自分の外に幸せを探そうとする習慣を生み出すでしょう。
親しい友人関係の中で感じる幸せ感の中にこそ、自分が起こしている完全性の否定があります。自分では自覚していない自分自身の否定があります。
自分以外の物事と関係しながら自分の中の完全性に気づくとき、自分以外の物事が全て完全であること、全ては自分の心が生み出していること、一人で歩むということが、実は全てが一緒に歩むことだと気づくでしょう。

スッタニパータ36

36.
人間関係をもつと愛着が生じる。愛着の結果、今ここでの苦しみが生じる。愛着から様々な不幸が生じることを観察して、ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

人は人間関係を通して様々なことを体験します。そしてそれらはすべて自身が全体として完全であることを思い出すために起こります。
自分の中に不足があると設定すれば、その不足を補うような人間関係を求めることになります。自分の中の不足は一時は満たすことができるかもしれませんが、関係性というのは常時変化しています。自分の中の不足を満たしていた条件は必ずなくなります。その条件に執着すると、不足を満たすための人間関係を永遠に求めることになり、それは永遠に満たされないため、永遠に自分の中の不足間に苦しむことになります。

自分の中の不足感を埋めていた人間関係は、真に自分の中にある満足感を思い出すきっかけでしかありません。すべての不足感は、自分自身の中に完全性を見出していないという現れでしかありません。人間関係の中に愛着や不足感を感じる時こそ、自分の完全性を関係性のせいにしてしまっていると知ることです。

人間関係から生じる不足感や愛着はすべて、自分の中の完全性の否定から起こっていると知ることです。すべては自分の心が作っています。
自分の完全性は自分自身の中にあると知るとき、人は完全に一人で歩むことでしょう。そしてそれこそが全てが完全になるときなのです。

スッタニパータ35

第3節 犀の角

35.
あらゆる生きものに対して危害を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも苦しめることなく生きるものは、自分の子孫が欲しいなどと思うことがあってはならない。いわんや仲間などはいらない。ただ一人で歩むがよい、一角の犀のように。

解説

生まれるとき、死ぬとき、人生の最初と最後を思い浮かべてみましょう。
実は、人はただ一人で世界を歩んでいます。他者や世界というものと関わり様々な体験をしているのですが、それは全て自分の心が作り上げているのです。ただ在るのは自分、自分の心だけなのです。
何かを良いと思うのも自分の心、何かを悪いと思うのも自分の心、仲間がいて満足するのも自分の心、孤独で不満だと思うのも自分の心、全てが自分たった一人が行っている作業なのです。
ただ、自分の心が唯一のものだと知ると、ただ一人で歩むことが全ての世界とつながるでしょう。

スッタニパータ30・31・32・33・34

30.
すぐに大雲が現われて、雨を降らし、低地も丘も雨でみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のように語った。
31.
「私は尊き師にお目にかかりました、私の得たところは実に大きなことです。知恵の眼がある方よ。私はあなたに帰依します。あなたこそが私の師となってください。大いなる聖者よ。
32.
妻も私もともに従順です。幸せな人のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみの元を滅しましょう。」
33.
悪魔が言った、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。執著する元があることが喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」
34.
師は言った、
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。執著する元のない人は、憂うることがない。」

解説

どんなものであれ、それに執着すると、一時期はその執着により喜びが得られるのですが、それを失う時にはその喜びと同じ大きさの悲しみや失望感に襲われます。
執着による自分の心の条件付け、「何々があるから幸せだ」という設定が「何々がないと不幸せだ」という設定も同時にし、何かを失った時の苦しみを生みだします。
世界の状況と自分の心の状態を結びつけているのは自分です。
起こってることと自分の心は自分で繋げていたのだ、自分で意味づけをしていたのだ、と気づくと、そこで自分と世界が真の意味で同じものであり、自分が世界と言っているものが自分で作り上げていたと知るでしょう。

スッタニパータ28・29

28.
牛飼いダニヤが言った、
「牛を繋ぐ杭は、しっかり打ち込まれて固定されてる。ムンジャ草でつくられた縄は新しくてよくなわれていて丈夫だ。若い牛でさえもこれを断つことができないであろう。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
29.
師は言った、
「牡牛のように足枷を断ち、象のようにくさい臭いのする蔓草を踏みにじるように、わたしはもはや母胎に入り生まれ変わることはないであろう。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

この世におけるどんな保障も、それに頼ることによって自分のあり方が自分以外のものに依存していると設定します。そしてそのような体験を何度も(何千回、何万回も)繰り返すことになります。
今ここでの何らかの保障による心の平安を設定することによって、未来の今にその保障が亡くなった時の不安定を作り出しているのです。それは全て自分でやっていることです。
全てが自身の心が生み出している。
心が一つであるものを分離させ、安心と不安、善と悪、大と小、戦争と平和、様々な対象物を生み出しています。
生と死、それさえ心が生み出しているのです。
この心によって生み出されたものに気付いたとき、生まれることも死ぬことも超えたところに在るでしょう。

 

スッタニパータ 26・27

26.
牛飼いダニヤが言った、
「私には雌牛もいるし、子牛もいる。孕んだ雌牛もいるし、若い雄牛もいる。牛たちのリーダーである雄牛もいる。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
27 師は言った、
「私には雄牛もいないし、子牛もいない。孕んだ雌牛もいないし、若い雄牛もいない。牛たちのリーダーである雄牛もいない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

十分なお金があれば、、、
十分な健康があれば、、、
十分な技術があれば、、、
十分な時間があれば、、、
十分な人材があれば、、、
十分な制度があれば、、、
十分な地位があれば、、、
十分な能力があれば、、、
十分な環境があれば、、、
十分な人間関係があれば、、、

ほとんどの人たちはこのように考え、それが満たされれば自分は完全に平安を得られるだろうと考えています。

依存している物事からの保障が一生涯あるから安心できる、このような保障の依存による心の平安というのは結局は、自分の中に永遠に平安がないという宣言でしかありません。死ぬまで一生涯自分の心の平安を自分以外のものに託しているということです。
真の心の平安は、外部の状況には関係なく、経験の中にただ「在る」ことによって見出されます。
経験の中にただ在ること、善悪の判断なしにただ「在る」こと、そこに本当の自分を、全てと一体となった全体としての自分を見出すことでしょう。

スッタニパータ 24・25

24.
牛飼いダニヤが言った、
「私は自分の選んだ職業による収入によって自分を養っている。私の子供たちはみな一緒に住んでいて健康である。かれらにどんな悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」
25.
師は言った、
「私は誰からも雇われてはいない。みずから得たものによって全世界を歩んでいる。収入を得る必要もない。神よ、もし雨を降らしたいと望むなら、降らせるがいい。」

解説

自分で生きている、自分が自分を生かしている、そう思っていること自体が、自身を全世界と分離させ、自分を狭小なものに(自分というものに)限定しているのです。実は、自分という限定された自身の力で起きていることは何一つありません。生命・存在・全宇宙・真理・大いなるもの・愛(どう名づけても構いませんが)があるだけなのです。
あらゆる可能性がある宇宙、その場所に意識を置いているから体験というものが現れます。意識をどこに置くかということが自身の体験を決めているだけなのです。
自身が全生命であると知るとき、意識・心によって自身がどんな世界でも歩んでいけることが分かるでしょう。