床の間

以前紹介した『新・片づけ術「断捨離」』の中には、収納を「見えない収納」、「見える収納」、「見せる収納」の3つに分けて、それぞれの空間に対してのモノの占有率を7割、3割、1割りとしています。これは家の中をスッキリさせるには、とても良い基準になると思います。

詳しく知りたい方はこの本を読んでください。

ここではシンプルライフでの「見せる」方法を紹介します。

壁や机の上に様々なモノを飾って楽しんでいる人は多いでしょう。壁には好きな絵画やアイドルのポスター、机や窓際には植物や縫いぐるみや細かな置物、その他様々なモノを飾って楽しんでいることでしょう。

しかし、シンプルライフでお勧めするのは、モノを見せるのは「垂直面に一点」、「水平面に一点」だけです。

日本の家屋にはよく床の間があります。床の間の壁には掛け軸、床には花などを飾ります。壁という垂直面に一点、床という水平面に一点だけを飾っています。これは本当に美しいものです。この方法をシンプルライフは採用しています。

床の間がある家ではそれを使用すれば良いのですが、床の間がない場合も多いでしょう。私の家にもありません。その場合、自分で家の中に一カ所だけ床の間と同じような空間をつくります。何度も繰り返しますが、家の中に一カ所だけです。しばしば、玄関、リビング、和室、寝室など全ての空間に飾りを置いているのを見かけますが、これはお勧めしません。ただ一カ所です。シンプルですが本当に美しいです。

理想は家の中に一つですが、家族の一人一人の趣味があり自分の部屋に見せる空間を自由に作りたいという人はそれでもよいでしょう。基本は、その部屋の一つの垂直面(壁)と一つの水平面(テーブルなど)を決め、そこに一点ずつ飾るようにします。他には何も置きません。

水平面には、花瓶に挿した季節の花や植物を置くのも良いでしょう。あるいは気に入っている置物などでも良いでしょう。

垂直面には、絵画や書、または気に入った柄や色の布一枚を飾るのも良いでしょう。寒い季節には温かい色のモノを置くなど工夫してみてください。

これを行う当初は寂しく感じるかもしれませんが、シンプルライフに慣れてくると、この美しさを感じられるようになります。

ぜひ「床の間」の方法を行ってみてください。

心の部屋の片付け

シンプリストはモノに対して執着せず手放しますが、モノではなく心ではどんなモノを手放すのでしょうか。

心の在り方でそこに残しているのは、感謝です。それは知足であり、共感であり、交友であり、尊重であり、和合であり、正直であり、誠実であり、そして喜びであるのです。

そこに至るには、やはり不要な心を手放すしかないのです。

その不要な心は、不平、不満、物惜しみ、恨み、憎悪、快楽、慢心、飽くことなき欲求、退屈、疑念、不安、コントロール、嘘、いつわり、怒り、散漫、などです。

これらは、私たちの生活の中で、余計な情報が押し寄せてくるように、いくらでも私たちの心の中に侵入してきます。

モノを手放すうちにこれらの余計な心の状態も手放すようになってくるのですが、心の面でも何が余計で何が必要なのかを、あらかじめ知っておいた方がよいのです。

状況がなんであろうと、不要な心の状態は必要ありません。これは心という空間を乱すだけなのです。心を一つの空間と見なしてください。実際、本当にそうなのです。心というのは一つの空間、部屋であって、そこに何を入れるのかは私たちが自分で行っていることなのです。状況がこうだから私はこう思う、というのは、私たち自身がそう思う状態を選んでいるだけなのです。

誰かがこんな嫌なことを言った。それをモノだと考えてみてください。貰わないでいましょう。もう貰ってしまった? それなら捨ててください。心の空間をキレイに保ってください。心はあなたの魂の部屋だと考えてください。

心の部屋には、本当に大切なものだけを置きましょう。

私の心の部屋に残しておきたいのは、感謝です、清明正直です。

皆さんの心の部屋には何を置きますか?

深い体験

今ここに在る、とは、実は体験を深めることと同じことです。私たちは過去の経験に照らして、喜びや楽しみを味わおうとし、痛みや苦しさを避けようとする思考習慣を続けてきました。このような思考習慣は、私たちを今ここから遠ざけます。そしてその「喜び」とか「楽しみ」、「痛み」とか「苦しみ」とレッテルを貼った体験をエネルギー的な荷物として背負い込むことになります。

今ここに在ることは、その「喜び」や「痛み」と名付けられた体験をレッテルを貼らずに受けいれ感じることなのです。懸命に感じるのです。それは感じることによって「喜び」や「痛み」というものではないと気がつきます。その名付けていた体験が初めてのことであり、どんなに貴重なものか、どんなにありがたいことなのかが感じられます。
この体験を深めるということは、喜びや痛みだけではありません。あらゆる習慣化した体験が、真にありがたいものに変わります。
食事をしているとき、口に入れた食べ物を本当に味わってみましょう。食物の命と自分の命が一体化します。運動している時には、呼吸と筋肉の躍動をしっかりと感じてみましょう。どんなに自分の魂が喜んでいるかが分かるでしょう。
どんな体験であっても、今ここにあり深く味わえれば、それを通して魂は喜びます。
「ああ、生きている!」と。

ありがとうございます。

「今ここ」と丹田

双葉山

丹田(ハラ)を強くすることについての重要性は様々なところで言われてきました。
健康になる、強くなる、頭が良くなる、などの効果もあげられています。
しかし、その本当の意味は、丹田の強さが「今ここ」に在ることとつながっているということなのです。物質的なものを超えて人間の存在を観察すると、丹田の位置にその存在の中心があります。今ここから離れると、その中心に輝いている球状の光の玉を曇らせたり歪めたりしていると観察できます。
つまり、今ここに在ることは、その丹田の玉の汚れを落とす、余計なものを剥ぐことになります。人間というのは実はもともと光り輝いているのですが、それに汚れがついている状態が、苦しみや迷いになっているのです。
自分の中心である丹田を意識していることは、同時に、自分ではないものである汚れを自分に寄せ付けないことであり、汚れがないということは丹田がキレイに輝いていることであり、純粋に今ここに在るということなのです。
丹田に意識を置いていれば、自然に汚れが落ちていき、今ここに在ることになるのです。ここにある写真の二人は「今ここ」丹田の良い例です。

ラマナ・マハルシ

モノ以外も手放せます

モノを手放すことは、どれほど大きな意味を持っているのでしょうか。

私のように本に執着していたのは、そこに固定された行動、パターン化された心の状態が守れる、といった一種の安心感があったからだと思います。周囲の状況がどんなに変化しようが、自分のパターンの中からはずれなければ心が乱されることもないし、心が乱されそうになったらいつでも本を読んでそこに没頭することで安心感を得られるのです。

しかし、もちろんそこには本当の安心感などありません。世界に関わらずに、つまり自分の世界、経験を広げずに、自分を偽って生きているのです。モノを手放せない人はそこに偽の安心感を見出そうとしているのです。

なぜモノを所有することで安心感を得ようとするのでしょうか。 モノというのは人がこの世で一番コントロールできる(と思い込んでいた、あるいは社会がそう思わせていた)からではないでしょうか。いつの間にか、あなたはこれこれを持っていると安心ですよ幸せですよ、と思い込まされていたのです。そしてその誰かが言った幸せを得るためにモノを持つことに夢中になってしまったのです。

モノの所有というのは、コントロールできないものをコントロールしようとすることであり、コントロールできない現実からの逃避であり、思考の固定化であり、そして、自分の成長や変化を妨げるものなのです。

そういったモノを手放すことによって、あるいは預かりモノとして大切にすることによって、その他のことも手放し始めます。後悔や期待、先入観や偏見、ルールやコントロール、主義主張などを手放し始めます。毎日毎日が、一瞬一瞬が、生き生きと感じられ、一体感と調和の中で生き始めます。

モノを手放してみてください。手放しながら自分の心の変化を感じて、自分の固定した心があれば見つめてみましょう。うまく行くときも行かないときもあるでしょう。
しかし、続ければ続けるだけ自由と生き生きとした感覚を得られるでしょう。

 

パソコン画面もミニマルに

ミニマルライフでは、全ての表面にはできるだけ何も置かないのが基本です(机やテーブルの上、タンスの上、床の上、調理台の上、など)。これはパソコンのデスクトップ画面でも同じです。

デスクトップ画面とは、パソコンの机の上、作業台のことです。シンプルライフでは、デスクトップ画面も実際の机の上や作業台と同じように扱います。作業中以外はできるだけ何も置きません。

以下は私のパソコンのデスクトップ画面です。

私の場合、画面の下の方にドックがあります。キレイにするためにドックはなるべく小さくしてあります。

デスクトップ画面には何も置かないのが基本ですが、外付けSSDが取り付けてあるので右上に一つアイコンがあります。

この文章はScrivenerというソフトで書いています。Ulysses2というソフトと比べていましたが、どうもScrivenerの方が使い勝手が良いようです。見た目はUlysses2の方が“シンプル”で良いです。短い文章やメモなどを取る時は、OMMWRITERWriteRoomなどを試用中です。そのようなソフトのショートカットをドックに入れています。

保存してあるファイルは、部屋の中と同様に、いらないものは全て処分してしまっているので、探す必要もなく、また保存してあるものを探すにはランチャーという便利なソフトがあるので、それを使ってすぐに探し出せます。私はAlfredというランチャーを使っています。一つの窓を開け、そこに呼び出したいファイルや言葉を入れると、パソコン上とネット上の何でも検索して呼び出すことができます。ショートカットアイコンでデスクトップ画面が散らかることもなく、ファインダーをクリックし続けることもなく、ストレスフリーな道具です(シンプリストのソフトについてはいつか書きたいと思います)。

パソコンでも、「ガラクタや不要なものは手放す、捨てる」のが基本です。使っていない不要なファイルは処分しましょう。自分がお気に入りで使うのにワクワクし、大切に思うものを取って置き、使いましょう。

シンプリストとは

ミニマリスト 、シンプリスト、エッセンシャリスト、などなど、ミニマリスト という名称の代わりに様々な名称が使われていますが、私はシンプリストという名称が一番好きです。そこでシンプリストとは何かということを書いていきます。
シンプリストとは何でしょうか。

日本語のシンプルを調べると
*シンプル【simple】《形動》単純な様。また、飾り気やむだなところがなく、簡素なさま。「-な柄」「-な生活」(大辞泉)
とあり、また、英語のシンプリストsimplistとシンプリズムsimplismを調べると
*simplist【名】単純化志向の人、短絡的な人
*simplism 【名】過度の単純化、単純さの擁護、短絡的思考(英辞郎)
とあります。

シンプリストというのは単純な人です。ある意味でアホなのです。問題を複雑なものとして見ません。なぜなら、複雑なものの見方が問題を作り出していることを知っているからです。

シンプリストは、複雑なことはしません。代わりに単純に考え行動します。
シンプリストは、モノを集めません。代わりにモノを大切に使います。
シンプリストは、知識や情報を集めません。代わりに行動します。
シンプリストは、「しゃべり」ません。代わりに[話し」ます。
シンプリストは、自分のものはありません。代わりに預かりものがあるだけです。
シンプリストは、要求しません。代わりに感謝します。
シンプリストは、過去や未来に煩わされません。代わりに今ここに在ります。

これらが、シンプリストという言葉の私なりの解釈です。

ミニマルライフの基本

ミニマルライフを実践するには、どうすれば良いのでしょうか。

このブログでも紹介した『新・片づけ術「断捨離」』や『人生がときめく片づけの魔法』を読めば、誰でもスタートを切れるのではないでしょうか。その他英語で読みたい人はLeo Babautaの『Zen to Done』『The Power of Less』『Focus』などが良いでしょう。

ミニマルライフの基本は、

1、ガラクタや不要なモノは手放すこと。不要なモノは買わない、持たない、貰わない。

2、ガラクタやモノを減らしていく過程で、自分にとって何が大切なのかを明らかにする。

3、大切でワクワクするモノだけを持つ。

4、持っているモノを感謝の心で使う。

5、整理、整頓、清掃、清潔。

6、そして、これらを毎日改善する。

ミニマルライフの基本はモノに特化していますが、これを行っていくとモノだけでなく、仕事や人間関係、生活全体に浸透していきます。全てが影響を与え合っているので、その中の一つを変えることで全てのことが変わってくるのです。

これら1~6の作業は慌てずに行うことです。上で紹介した著者たちはおそらく上級レベルに達するまで10年ほどかかっています。自分だけで一朝一夕にはできることではありません。ただそういった経験者が近道を教えてくれているので、今まで片付けに関心があり実践してきた人はすぐにでもできるかもしれません。私のようにガラクタだらけだった人はもう少しかかるかもしれません。あるいは、ガラクタの何が問題なのか分からない人もいるかもしれません。

ただ始めてみてください。自分のレベルなりにやってみてください。やってみれば必ず気持ちがよいと感じるはずです。

全てに完璧さを見る

私たちは、状況や物事にどんな気持ちや印象をもつでしょうか。

何かが自分の身に起こった時、どんな感情を持つでしょうか。
そこに、それはそれで良しとする感情、つまり状況や物事に完璧さを見ることができるでしょうか。周りの全てのものの中に、完璧さをみることができるでしょうか。全てのことの中の荘厳さに気づけるでしょうか。

その状況や物事の完全性に気付き始めると、物事が在るべき姿、美しさが見え始め、それを表現し始めます。
それは普段の行為として、例えば掃除や整理整頓であったり、清潔にすることであったり、すっきりとした考え方をすることであったりということに現れます。
物事の内にある輝く本質が表現されるべきものだと知るので、それが自ずから表現できるものは表現させ、表すのを助けることができるものは助け、見つめるだけしかできないものは見つめるようになるのです。

できる限り物事を在るがままにしようとします。在るがままとは、そのままということではありません。その物がどこにどんな風に在るものなのかが理解でき、そこに在るよう助けるでしょう。
また、秩序だった考えをし、美しい言葉使いをするでしょう。人に対してもその中に光を、完璧さを見て、その通りのものを引き出すのです。
それは自分自身にも当てはまります。自身の中に完璧さを見ると、自分の才能、健康などが在るがままの最高の状態になるでしょう。
自身に完璧さを見る人には、自然とこの言葉が心に浮かびます。
私は愛なり光なり。
どこかの誰かが同じようなことを言っていましたね。

ありがとうございます。☆☆☆

世の中で一番必要なこと

今ここに在るという在り方と、自分が世の中でしなければならないことは一体どんな関係があるのか、と私たちは疑問に思います。

世の中には自分の意志とは関係なくやらなければいけないことがあるのではないか。世の中には行う必要があることがたくさんあり、そのことを考えると、今ここにあることは後回しになってしまうのではないか。家族を養うため、子供を育てるため、生きていくため、そうして生きているのに今ここに在ることは本当に利益になるのか、と。

しかし、その疑問自体が物事をうまく行かなくする原因なのです。
今ここに在ることは、必要なものは何もないと悟ること、必要なものは今ここに全てあると悟ることなのです。そして、実は、世の中で一番必要なのは、私たち自身が今ここに在り、その結果生き生きとしているということなのです。

もし、自分を生き生きとさせて、今ここに在る状態にしてくれるものがあるなら、その生き生きさせてくれるものをどんどんやったほうがいいのです。
生き生きしている人を見て文句を言う人が出てくるかもしれません。それはその文句を言っている人の問題なので気にする必要はありません。生き生きしていることを否定する人の理屈によってやめないでください。いずれ文句を言う人に対しても、今ここ生き生きは良い影響を与えます。

世の中に必要なのは「今ここ・生き生き」の輝きなのです。
でも、死ぬ時はどうするって?大丈夫です。そういう人は、生き生きと死んでいくでしょう。死も生も変化なのですから。

全ては在り方の絶え間ない変化です。変化の今ここに、生き生きと在りましょう。

それが、世の中で一番必要なこと。

ありがとうございます。