すでに幸せ

幸せになるにはどうすればいいのか。

あらゆる時代に、あらゆる場所で、あらゆる人がこのことを探求してきました。
単純なものから非常に複雑な理論まで、あらゆる宗教や最新の科学まで、現在でも「幸せ」になるために生み出したあらゆる方法を目にします。

実は、幸せになることは不可能なのです。これまでの幸せになるための方法全てが間違っているのです。

なぜ?

それは「幸せ」とは「生きていること」だからなのです。今ここに在ることだからなのです。
もうすでに私たちは幸せなのです。

生きているだけで幸せ。
いいえ。生きていることが幸せなのです。

私たちは(この文章を読むことのできる生きた皆さんは)、十分幸せな魂だから、この地球上に肉体を持って生まれることができたのです。
私たちは、すでに幸せなのです。

問題は、そのあとなのです。
幸せならどうするか。。。

答えは自ずと出てきます。幸せな人間はどんな在り方をするか.幸せな人間はどんな行動をするか。
幸せであればどんなことをしても大丈夫です。

なぜって?
幸せだからです。
幸せな人間からは、幸せが生み出されるのです。
幸せから生まれるものは、幸せなものだけだからです。

私たちは、今ここに生きていることが、ほんとうに幸せなのです。
私たちがそれに気付くことで、世界が幸せなものに変わっていくでしょう。

ありがとうございます。

マザー・テレサの祈り

マザー・テレサは毎朝仕事を始める前にお祈りをしていたそうです。
おそらく次のようなものだったと感じます。

「神様、この体と心と魂を人々のためにお使いください。」

マザー・テレサは祈るとき、自分が何かをしたいとか、神に何かをして欲しいとか祈ったのではなく、自身が神と一体となって人のために働いていると感じ、それに感謝していたのではないでしょうか。自分は今ここで感謝の中にあるという宣言をしていたのではないでしょうか。
マザー・テレサは「今ここ感謝」を真に理解していた人であったと思います。

以前、私がお世話になったヨガの先生のグループがインドに行き、マザー・テレサが行っている仕事を手伝う機会がありました。数日間手伝ったらしいのですが、毎日の仕事は想像以上にキツいものらしく、その先生のグループの皆が半日でバテてしまい,毎日最後まで手伝いができたのはそのヨガの先生一人だけだったそうです(この先生は特別にエネルギッシュなひとです)。腰の曲がった老齢の女性が、これだけの仕事を毎日こなすのは、やはり自我が生み出す以上の力があったからだこそ可能だったと感じます。

人間は、心が清明になり行動が正直なものになってくると、そこには「私」とか「自分」とかという主語は無くなり、全てに対して調和した「私たち」という言葉が出てくるのです。その時のエネルギーは自分が持っている以上のものになり、周囲のエネルギーと調和し、人々の喜びや苦しみを自分のことのように感じ取り、世界で起こっていることを我がことのように経験するのです。

生きていることは、自分で生きているのではなく、生かされているということを理解し、生きていることへの『感謝』に至るのです。
これからの時代は、その「今ここ感謝」の時代です。新しい時代の在り方です。
マザー・テレサはその新しい時代の在り方を先取りしていた人でしょう。

「今ここ感謝」、それが普通になる時代です。
「今ここ感謝」は新しい時代の在り方です。

ありがとうございます。

与えたものだけが与えられる

最近の書店を見ていると、売れている本が変化してきた気がします。大震災後の生き方について考えを見直そうと促したり、エネルギーや自然についてだったり、幸せとは何かを考えさせるタイプの本が目立ってきたように思います。

しかし、以前からあるような、「思考は実現する」、「引き寄せの法則」、「ポジティブ思考」、「能力開発」、「成功法則」、「~する技術」、「~ハック」などのビジネス書は,ただタイトルをより個性的なもの変えているだけのようです。

これらの本を読んでみると、大部分に、最低限のことをしてそれよりはるかに大きな結果を得る、一人勝ちする、他人より先んじる、自分だけ得する、というような不自然な考え方を感じます。

10の努力で100の結果を得ましょう、最低の投資で大きな配当を受けましょう、一か月の練習で5年分の技術を身に付けましょう、そのような発想です。

しかし、この世界というのは感謝の中で注いだエネルギーの分しか結果は得られません。アスリートや職人,芸術家や作家などのような人にはよく分かるでしょうが、結果というのは注いだ分しか出てこないのです。1km走るための練習では。10km走ることはできません。10km走るだけの練習が必要なのです。エネルギーを注いだ分だけしか結果は出ません。

それは自然なことなのですが、人は今ここ感謝から離れたり、好きでないことをしていたりすると、その自然なことを忘れてしまい、自分の力を注いだ以上の結果を要求し始めます。しかし、後で気がつくのですが、不自然な要求が通った場合はしっぺ返しが来ます。自分の生命が削られているのです。

感謝の中に在るともっともっと自分の力と愛情を注ぎ込もうと思いますが、しかし、不自然な「もっともっと」は、注ぐ力を増やさずに結果だけを増やそうとします。それはうまくは行かないので、必ずどこかで気が付きます。

時には、あまりに感謝から離れていると、気付きが遅れ、占いやパワーストーン等,自分の努力とは関係ないものに頼ろうとします。それで幸せになることはないでしょう。楽にあるいは幸せになったように見える時でも、それは結局見えないところで自身の感謝を弱め、生命力を削ります。最期の最期に分かります。

唯一、感謝の中で注いだ行為が実を結びます。10の力を注いだら10の結果です。それ以上でもそれ以下でもありません。

結果は求めるものではありません。
結果は出るものです。

では、感謝したらどんな結果が得られるのか、って?

それは、いつでも感謝の状態にいられる、という最高の結果です(^^)
自分が与えたものだけが、結果として出てくるのです。

ありがとうございます。

毎瞬が感謝

朝起きてから、今ここ感謝に在るのを前提に行動していくと、不思議なことが起きます。

例えば、私の一日で見ると、
朝、目が覚め、今日新しく生まれたことに感謝。
太陽に感謝。
空気に感謝。
水に感謝。
朝まで体を休ませてもらったベッド、布団や枕に感謝。
トイレに感謝。
上下水道に感謝。
洗面所に感謝。
感謝できることに感謝。
一分間、自身の存在全体で感謝。
朝ご飯を食べられることに感謝。
お米に感謝。
お米を作ってくれている人に感謝。
お米に関わる人全てに感謝。
納豆に感謝。
サラダに感謝。
おいしくて感謝。
おかずに感謝。
コーヒーに感謝。
新しい報道を提供してくれる新聞に感謝。
同じくテレビに感謝。
社説を音読できることに感謝。
IPadに感謝。
Macbook Proに感謝。
部屋に感謝。
部屋を掃除できることに感謝。
歯ブラシに感謝。
ひげそりに感謝。
ドライヤーに感謝。
仕事場に連れて行ってくれる車に感謝。
目的地に行ける道路に感謝。
行き交う車に、人々に感謝。
車の中でヴォーカルトレーニングができることに感謝。
仕事に感謝。
生徒に感謝。
人間関係に感謝。
仕事を一生懸命できたことに感謝。
様々な気持ちを味わえることに感謝。
経験が成長になることに感謝。
昼食を味わいながら感謝。
移動するのに使う自転車に感謝。
トレーニングジムのスタッフに感謝。
トレーニング器具に感謝。
合気道に出会えたことに感謝。
合気道の仲間に感謝。
様々なことができる自分の体に感謝。
水に感謝。
爽快感という感覚に感謝。
再び人間関係に感謝。
シャワーに感謝。
水に感謝。
清潔な衣服に感謝。
自分が恵まれていることに感謝。
ホッとできることに感謝。
仕事に使うパソコンに感謝。
それを通じて得られる情報に感謝。
大切な人に感謝。
大切な人がそばにいることに感謝。
自分が幸せで在ることに感謝。
日本の入浴という習慣に感謝。
文章が書けることに感謝。
ブログを読んでくれる人に感謝。
インターネットに感謝。
いつも適切なアドバイスをくれる友人に感謝。
自分が今ここにいることに感謝。
家族に感謝。
生きていることに感謝。
これまで支えてきてくれた人に感謝。
先祖に感謝。
先祖の大切さを教えてくれた叔父に感謝。
直截的、間接的に自分に影響を与えたあらゆるものに感謝。
感謝によって全ての本質が垣間見られたことに感謝。
自分が気付いていない感謝の対象に感謝。
今日一日感謝でいられたことに感謝。
全てに感謝。
自分に感謝。
今ここに感謝。

有り難うございます。
全ての前提が感謝になり、その在り方から生まれる行動や状況が全て感謝の対象になります。
いつも奇跡の瞬間を過ごすことになります。

ありがとうございます。

掃除はミタマ磨き

物事に行き詰まったときや、気持ちがモヤモヤしているときに、私が必ずしていることがあります。
一つは短時間のヨガ、もう一つは片付けと掃除です。最近では片付けと掃除のほうがヨガより効果があると感じます。
掃除というのは、すればするほど周囲がキレイになり、気持ちもスッキリします。

モヤモヤしている時私が最初にするのは、全てのモノをあるべき位置に片付け、それまで使用していたモノを机や床の表面からなくすことです。

片付けをしても気持ちがリセットできないときは、扉と窓を全て開け掃除機を一気にかけます。
大抵これで気分はスッキリします。しかしそうでない時もあります。そういう時は部屋のモノを磨きにかかります。磨くと言っても、雑巾で汚れを落とす程度ですが。

それでもモヤモヤが取れない時はトイレ掃除です。腕まくりをし便器の奥にまで手を突っ込んで、スポンジタワシでごしごし磨きます。結構汗もかきます。

ほとんどの場合、この掃除をしている間に、気分がスッキリとし、モノに対する感謝の念が湧いてきます。使わして頂いてありがとうございます、と。

掃除をマメにし、普段使っているものには感謝を気持ちを込めて「ありがとう」を言う。大切に使うモノ、大好きなモノに囲まれると、生活が気持ちの良いものになってくると思います。

掃除を続けて気がついたのは、掃除は御魂(ミタマ)磨きだということ。モノを磨けば磨くほど、自分の中が磨かれてきます。磨かれてくると少しの汚れでもすぐに気がつくように、心も磨けば磨くほど汚れがつけばすぐ気がつくようになります。

魂を磨くというのは、そういうことなのでしょう。何か漠然とした考えで魂をキレイにしましょうというのは無理な話なのです。行動と思いと言葉というものが魂を磨く道具なのです。
つまり、人生のあらゆる経験が魂を磨く場(あるいは汚す場)なのです。
人に語る言葉、今ここでの思い、普段の行い、全てが自身の魂を磨いているのか汚しているのかしているのです。

人生に行き詰まったり、悩んだり、気分が悪かったりした時は、ぜひ掃除をしてみてください。掃除を習慣にすればきっと魂が喜ぶと思います。
実は、外の世界に行うことは、自分の魂に行っていることなのですね。

その行いも、生きているからこそできるのですが。
生きていることに感謝します。

ありがとうございます。

褒め称える

モノの持ち方、集め方、扱い方は、その人が世界とどう関わっているかを顕著に表してしるのではないでしょうか。

例えば、孤独感や喪失感は、しばしば人を過食や過剰な買い物に走らせます。同じ人が気分が良い時には、大切にしているモノを人に躊躇なく与えることもあります。いつかそのモノを使うと言いながら家をゴミ屋敷にしてしまう人もいれば、後半生には3つのモノしか所有しない人もいます(写真)。

人が不要なモノを所有する時、それは自分と世界との分離感によって起こるようです。分離イコール孤立なので、世界と比べると自分というものが小さく思われます。小さい自我は自分を膨らませようとし、モノを所有することで、『これは私だ。これは私のモノだ。だから私は大きい、偉い。』と孤立感、世界との分離を解消しようとします。しかし、それはうまく行きません。うまく行かないことに気づけば良いですが、未だに優勢な現代の価値観は『まだまだ足りない、もっと所有して大きくなろう、“成功”しよう。』と自我を刺激します。

興味深いことに、人というのは自分の所有しているモノを欲しいとは思いません。モノが自分と一体化していると感じているのです。逆にそのモノは自分のものでない、自分と分離している、と考えるとそのモノを欲しいと思います。そしてそれを所有しようとします。人は分離感があるとモノを所有しようとします。そのものを愛しているというというよりは、そのものを所有することによって、分離から生じた小さな自我を膨らましている状態です。

自分の所有物を見直し、不要なモノを処分し、整理整頓することは、自我を整理整頓することになり、自分と世界との関わり、自分が世界とどのくらい一体化しているのか、どのくらい調和しているのかを見つめる機会を得ることにはなります。

モノを手放すということは、それによって、自我を小さくしていくことになり世界との一体化を容易にします。

モノを手放した後、残っているものに意識を注ぎ、それをこの世界での大切な借り物だと気付けば、ますます世界との一体化,調和に近づきます。

全ては借りものです。自分のモノなどないのです。この体でさえ借りたもの、預かりものなのです。不要なモノを手放し、残った預かりものを大切にすることは、世界と一体であり調和している現れでしょう。

調和した心は、咲いている花を見て、ああ綺麗だ、と感じ褒め称えます。世界と分離した自我は、花を自分とは別のものだと思い、その花を切り取って持ち帰り、こんな花を持っていると自我を満足させます。花を見た時に感動し褒め称えることは、私たちの世界との調和の体験を表しています。

モノを手放し、“預かりもの”を褒め称える時、私たちは世界と一体となっているのです。

それは今ここ感謝の現れなのです。

ありがとうございます。

*写真は、腰布・杖・水差しだけを持っていたと言われるラマナ・マハルシ。

自己の体験

私たち生命、ありとあらゆるものがなぜ存在するのかについて、ずっと疑問に思ってきましたが、やはり行き着く答えは「自己の体験」になります。
あらゆる存在は自己を体験したくて存在しているのだと。

究極の現実では、存在というのは一体であり、全てであり無であるということになるのですが、それでは自己というものが体験できないので、一体から分離して(本当は一体なので分離していない、だけど分離したと思い込む)、自と他を作り出した、ということでしょう。

私たちの多くは、自分が全体と一体であることを忘れ、自分の感覚に焦点を置きすぎて生きているので、分離感の中で悩み苦しむことになります。
自己を体験するのは喜びなのです。自分である状況を選びそれを乗り越えることで自己を体験する喜びを得るために生まれてきたのに、何のために生きているのかを忘れてしまったのです。

その理由は、私たちが自分の生き方をしないで他人がそうあるべきだとする生き方をしようとしていることにあると思います。
自分がやること、自分がやりたいことをやらないで、他人や社会が求める生き方をしているうちに自分が体験したいことを忘れてしまったのです。
例えば、新聞を読みたいと思い、新聞を取りに隣の部屋に入ったら,皆がテレビを見ているので一緒に見てしまった、ということに似ているでしょう。

自分が何を体験したいのか忘れないためには、過去や未来のあそこに意識を置くのではなく。やはり「今ここ」に在ることでしょう。

「今ここ」に完全に在ることは、体と精神と魂が統合し調和と全体的な存在を自分の中に思い出させます。物理的世界を超え、自身の中に全体性を創り出し、現実の世界で与えられる限りの最高の意義を持たせることになります。人間の体がなぜこういう形なのか、なぜ宇宙を今見えているように見ているのか、なぜ私たちがさまざまな物事で悩んだり、努力をしたりしているのか、全てのことを直接に理解します。全ての存在、宇宙、全てのエネルギーが私と同意になります。私が宇宙に溶け込むと言うのでしょうか。

一滴の水が、「私は水滴だ」「私は雲だ」「私は雨だ」「私は川だ」「私は汗だ」「私は涙だ」などと言っていたのが、海に戻り「私は海だった、そして全てだった」と悟り(差取り)ます。

行き着くところは、自己の体験と生きていることへの感謝。
ありがとうございます。

人格が個性を支える

私たちが常々話題にすることの一つに人の個性というものがあります。
やることが細かいとか、オットリしているとか、こだわりがあるとか、気が利くとか、そのようなことです。

これらの個性というのは、時と場合によって呼び方が変わるようです。物事にとらわれないと言われるか鈍感と言われるか、気が利くと言われるかおせっかいと言われるか、率先的と言われるか向こう見ずと言われるか、同じ個性が違う呼ばれ方をするのです。
考えてみると、個性というのはその人が一番良く使う道具のようなものです。道具を使う時と場合によって解釈のされ方も違ってくるのですね。

ほとんど人の個性というのは生まれもって身に付いているもの、あるいは三つ子の魂百までと言われるように3歳頃までに身につけたもののように思われます。
私の場合、小さい頃から抽象的なことばかり考えている割りには、人の前ではふざけてばかりいました。一人で行動することが好きで集団行動ができませんでした。このような言い方で表現している私の個性は、使い方によっては人を傷つけることもあるし、逆に人や世の中の役に立つこともはずなのです。

私は人を指導することが多いのですが、そこで気がついたのは、人が欠点と思っている性質ほど大切なものはないということです。欠点として現れる行動というのは強いエネルギー(個性)に支えられていることが多いのです。それは使い方が間違っているから欠点に見えるだけなのです。使い方を変えればそれは長所になるのです。

その個性はもともと持っているものなのですが、ここで問題になるのがそれを使う「人格」です。個性が良いものとして表現できるのか間違った現れ方をするのかはこの「人格」によるのではないでしょうか。

個性というのは生まれ持っている性質で、人格というのは育てることができるものだと思います。

ここで思い出したことがあります。私がプロのバレエダンサーを目指し始めた頃、ある高名なフランス人の指導者のレッスンを受けた時の話です。

ある一連の振り付けを練習していた時に、顔の表情や体の抑揚を表現しながら踊っていたのですが、その人に、「とっても個性があり表現が豊かですね。。。しかし、今は自分の個性を出さないで、しっかりと形だけを練習しなさい。個性は出そうとしなくても出てくるものです。3年間は自分の個性を出すのを忘れて基礎だけを練習しなさい。そうすればあなたは立派なプロになれるでしょう」と言われたのです。この言葉はプロになるまでずっと頭から離れませんでした。今でもそうです。
私はこの言葉を「個性を扱う人格を鍛えなさい。あなたには個性を扱う人格がまだ足りません」というふうに理解しています。

幼児にナイフやライターを持たせては危ないですね。同じように人類が核エネルギーを利用するのにはまだ人格が足りないようです。
持っている力やエネルギーである個性を扱えるだけの人格を育てることが、私たちがやるべきことなのではないでしょうか。

そしてその人格が最期に行き着くところは感謝だと感じます。

ありがとうございます。

迷ったら掃除

何か良いことがあった時や気分がいい時、そういう時は何の問題もなく感謝でいられるのですが、やはり人間というのは何かのきっかけで不平不満が出てくるし、不安や失望感に襲われることがあります。

私の周りの多くの人から、「そういう不安定な時にどうすれば、そのような今ここ感謝にいられるのですか」、という質問がしばしば出てきます。
このような人は、「もう一歩成長したい」という意志がありながら、その一歩をどうしても踏み出せない、どうしていいか分からない、やってもうまく行かない、というふうに思っていることが多いようです。
話を聞いていくと、大抵は何をすべきか分かっているということ、しかし、それを実行できないようです。それはなぜかという理由を探ってみると、大抵、そのように思う人ほど無駄なものを多く所有している傾向があります。不要なモノを所有し、それを無理に使おうとしている場合がほとんどです。また身の回りの整理整頓ができていません。自身はそれに気が付いていないようです。
答えは簡単なのです。余計なことをやり過ぎているだけなのです。その余計なことをやり過ぎているというのは、必ず生活空間に現れているます。言い換えると余計なものを持ちすぎているのです。整理、整頓、掃除、片付け、処分が足りないのです。
お勧めするのは、「迷ったら掃除」と「不要なモノの処分」です。
今ここで感謝の中にいないということは、つまり心に汚れがあるということです。その在り方は必ず現実世界に現れています。生活空間に現れているのです。
ですから、自分が生活空間をどれだけ整理整頓していると思っても、不平不満、不安失望があれば、それでは(心の)掃除がまだ足りないということなのです。
生活空間は心の現れであり、そこには必ず私たちの在り方が現れています。
整理整頓はしています、掃除も相当やりました、でも感謝は感じられません、と言ってる人はまだまだ手放す必要があるのです。余計なモノを処分していないのです。
とことん処分して、とことん掃除してください。
迷いがあるうちは掃除が足りません。
掃除をし、不要なモノを手放したら、今ここ感謝が見えてくるでしょう。
そして、そこから新しい行為が生まれてくるでしょう。やりたいことを実行しているでしょう。
そしてそれをやっていれば、残るは有り難いことだけです。感謝だけです。
ありがとうございます。

笑みが伝えること

今ここ感謝、この時私たちはどんな表情をしているのでしょうか。
思うに、それは笑みではないでしょうか。

喜び、感謝、至福、恍惚、感動。
全ての表情は笑みになるのではないでしょうか。
この現実では、思いより実際の表現、行動・形のほうがまだ強力です。
ですから、今ここ感謝という在りかたを実現するために、笑うこと、ほほ笑むことは現実世界では有効な方法です。
何があっても、微笑んでいることです。それは周囲の世界、人々にも強力な効果が在ります。人を本来の自分に戻します。

本来の自分とは、自然な自分、宇宙と調和した自分、全てと一体である自分です。
調和すると自分は世界と共振するでしょう。笑みは宇宙の振動です。

笑みは私たちを自分自身に戻します。
笑みは問題を解かします。
笑みはお互いを結びつけます。
笑みは恵みです。

今ここ感謝であることを伝えたい時、どうしても言葉では伝えられないことが多いのですが、その時には微笑むのが一番です。どうぞ笑っていてください。

笑みを絶やさないでいましょう。

微笑んでいると、その在り方が世界へこんなメッセージを発信しています。
「私は感謝でいっぱいです。ありがとうございます。」