老子超訳(第三十五章)

大像

偉大なる像(かたち)、つまり像を超えた像としての『道』をつかんだ人があれば、世界中の人がそこに集まってくる。
集まりながらもお互いを害することなく、平穏で落ちついている。

音楽や美食は、通りすがりの旅人を立ち止まらせる。
しかし、『道』は言葉で表現されたとしても、淡白で味わいがなく、
見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえず、用いようとしても用いることができない。

『道』は在り方そのものであり、形や性質、感覚や思考の枠に収まるものではないのです。
それこそが、私たちを引きつけ生かしている源であり、私たちと一体である存在そのものなのです。
もしすべてが一体であるなら、私たちはどういう在り方をするだろうか、と意識すると、
そのとき私たちは、今ここで、感謝の中にあるでしょう。

 

原文
執大象,天下往。往而不害,安平太。樂與餌,過客止。道之出口,淡乎其無味,視之不足見,聽之不足聞,用之不可既。

 

 

words of wisdom

 

有ること無いこと生まれるということ死ぬということの四つを忘れなさい。
黒住宗忠

 

仕事とは愛を見える形にすること。
Work is Love made visible.
アイリーン・キャディ

 

感情とは選択である。

 

私がある存在のことを愛さない限り、その存在は私に真の本質を明らかにすることはできない。
ルドルフ・シュタイナー

 

自分自身を生命全体の一部と感じること。

 

私は愛にあふれ、光り輝いています。ここととからだは純粋なエネルギーで満ち、ますます純粋なエネルギーを引きつけます。エネルギーはスムーズに循環し、周りの人々や世界が美しく輝いていきます。

 

自分のすることすべてを通して愛を表現する。

 

全てのことに対して「理解しよう」という姿勢。

 

普段思っていることが自分を作り上げる。
習慣が人格を形成する。

 

人は自分自身であるときに一番魅力がある。

 

世の中にとって何が必要かなどと考えることはない。自分自身を生き生きとさせてくれるものを見つけて、それをどんどんやった方がいい。なぜなら、世の中に必要なのは、そういう生き生きとした人だからだ。
ハワード・マーティン

 

Simple is Best!

 

最初に幸せを求めれば、その他のすべてが後についてくる。

 

友達は遊んでいるとすぐできる。

 

できると思えばできる。できないと思えばできない。

 

自分に与えられるすべてのものに対する感謝の感情を育てる。

 

私という存在は宇宙からの贈り物である。

 

「人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死ぬ」ことを肝に銘じる。

 

私は光である。

 

私は私のままで大丈夫。

 

楽しげな幼子のようになりなさい。今というときを輝いて生きなさい。次の瞬間、何が起こるかなど、少しも心配したり気にしないで。
アイリーン・キャディ

 

愛、調和、感謝、あるがまま。

 

思うこと、語ること、行うこと、これらすべてに目的と計画を持つようにしなさい。

 

Just do it!

 

今まで思考パターンやあらゆる執着をキレイサッパリ手放して行動したらどうなるか、という実験。

『いいのかな→いいんだ→やろう→行動』

 

いつも最善を期待すること。

 

「迷うこと」「責任のとれないこと」「きらいなこと」「したくないこと」「自信のないこと」などは即座に「No」。

 

自分の体と心と魂の健康を促進するように注意を払うこと。

 

つき動かされたら、すぐ行動しなさい。

 

私はいつも正直に自分を表現しています。なぜなら、それが自分の成長につながり、愛を与え、調和し、感謝することになるからです。

 

毎日を本当に喜びあふれる日々にしましょう。愛を惜しげもなくあふれさせてください。与えて、与えて、与え続けるのです。

 

すべてはうまくいっている。すべては完璧である。

 

自我を世界に向かって開く。

 

今、ここ。Be Here Now.

 

すべてを与えるものには、すべてが与えられる。

 

私の内面生活は世界に対して重要な意味を持っている。

 

私の行動だけでなく、私の思考と感情も、同様に世界に対して重要な意味を持っている。

 

いつも心の中で微笑んでいなさい。

 

私が見ているのは、物事それ自体ではない。そこには常に自分の心が投影されている。

 

いつも光に向かって歩いていきなさい。すべては完璧にうまくいきます。意識を高め、そのまま高いレベルに保ちなさい。動機は純粋でかげりのないようにすること。すべてを隠さずに明かし、わだかまりのないようにしなさい。

 

呼吸

 

肚で呼吸

 

食事とは、命をいただくこと。

 

一度自分で決めたことは確固とした態度で守りとおす。行為へと駆り立てるものはすべて、行為に対する愛そのものの中に姿を現わさなくてはならない。

 

常に自らの振動波を調和の取れた方向へ変換する努力を継続していくことを深く決心し、淡々と今可能なことを調和のとれた形で謙虚に精一杯行うこと。

 

行動のときがあり、そして安らぎのときがあります。どちらの状態も楽しむことを学び、それがどれだけ大切か気づきなさい。生命の息吹を吸い込むときがあり、またそれを吐き出すときがあるのです。いま起きていることすべてには完ぺきなリズムがあります。そのリズムの内に安らぎと静けさを見出してください。

 

自分に話しかけたり、どうしてそうなっているのか考えたりしないように努めること。見ているとおりに描くこと。“考える”ことはやめましょう。必要なものはすべて目の前にあり、これを“解明”する必要はありません。

「ありがとう」と「ごめんなさい」

どんなことでも、結局は日々の習慣が影響します。
最後に問題になるのは、自身に染みついた習慣です。

「今ここ感謝」も、習慣として継続することによって自身に身に付きます。
様々な問題や困難に出会ったときに、それを乗り越えることができ、その問題や困難に対してで感謝にあることができるのです。
今ここ感謝の積み重ねが、あらゆる出来事を感謝の対象にしてくれます。

「謝」という字には「礼を言うこと」と「あやまること」という意味があります。
つまり感謝は、自分が生かされていることに対して「ありがとう」を言うことと、自分がその生を生かしてないときに「ごめんなさい」を言うことなのです。
人間は間違いも犯します。その時には自身の非を認め深く反省し、今後気をつければ良いことです。

「ありがとう」と「ごめんなさい」は最高の言葉ですね。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を心から言える人は、それだけでその人生を充実させています。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を素直に言える人は本当に幸せな人です。
今ここ感謝は、「ありがとう」と「ごめんなさい」です。

今日も本当にありがとうとうございます。
今日起こったこと全てに感謝します。

ありがとうございます。

常の道とは

『老子(道徳経)』では、最初に「常の道」である世界の始原について言及しています。

「道可道、非常道。」

『道』というのは、一体何のことなのでしょう。

神道の言葉に「カムナガラ」(「惟神、随神」などと書きます)という言葉があります。

「カミの御心のままに、カミそのままに」という意味です(西洋の神、GODではありません)が、そこでは「私」という限定された小さな意識というものは消えてしまうのです。「私」という限定された意識が消え、それを支えている始原である「道」にまで意識が広がり、それと一体となる経験なのです。「私」という存在を超えた意識があるのです。
意味や評価、解釈や分析、成功や失敗にとらわれていると、それは「私」という自我がいつでも道を経験することを邪魔するのです。

経験の善し悪しや意味の分析が問題のなのではないのです。経験そのものと一体となっているかが問題なのです。
実は体験、経験そのものが『常の道』なのです。カムナガラとは「私」というものが経験と一体となった経験のことなのです。経験と一体となることが、神道で言う「カミの御心」とともに在ることなのです。
解釈しようとする途端に「私」が現れ、経験から離れることになるのです。
解釈せずに経験を受け入れ(感謝とともに受け入れる)、今ここにいる。
感謝とともに経験一体となる。それが「カムナガラ」なのです。

そして、それこそが『道』なのです。

日常において『道』から離れていると、「私は」という表現が多くなるようです。
「私が」、「俺が」とか、「自分はこう思う」とか、あるいは「あなた」や『あの人」という二人称や三人称も、実は「私が」という一人称があるから生まれた表現です。
「自分が」があるから、その相対をなす「あなた」などが出てくるのです。

「道」である時は、せいぜい「すべて」や「私たち」という言い方になるのでしょう。
いいえ、そんな言葉さえ出てこないでしょう。

そこに在るのは、生きていることへの感謝の行為だけです。
すべてを包み込むような、すべてと一体となっている意識だけなのです。

そこから出てくる言葉は、ただただ「ありがとうございます」だけです。

ありがとうございます。

老子

新しい時代を導く人

周りをみていると、多くの人が生かされていることに感謝しながら生きています。
この世に生きていること自体が十分有り難いということが、いつも心の中にあるようです。

どんな人でも、怪我や病気、失敗や喪失、そして身近な人の死などを経験します。その時にこそ、その人の今の在り方が出てきます。
ある人は怪我をすると意気消沈したり不満をぶちまけたり、あるいはいかに自分が不幸なのかを嘆いたりします。
他方では、怪我や喪失などによって、自分自身の在り方を見つめなおし、もう一度最初からやり直そうと決心をし、生きているだけで良かったと感謝に在る人がいます。

私たちは何も持たずに生まれてきました。生まれてきたこと自体が感謝です。どんな失敗や喪失によって全てを失っても、命ある限り、生まれたときのゼロ段階での在り方が感謝なのです。
ですから、それを知っている人は、何を失っても、自分が生きている限り感謝に在り、不平不満によって自神をさげすむこともなく、「有り難い有り難い」と生きているのです。

生命や宇宙の真理というのはシンプルなものです。
幸せになるために複雑な方法を取る必要はありません。何かで成功する必要もないし、人よりすぐれている必要もありません。
感謝であることです。

『何事も有り難いにて世に住めば むかふものごと有り難いなり』(黒住宗忠)

過去に世界を動かしていたのは「何をやっているか」でした。
しかし人間が成長した今、「何をどんな在り方でやっているか」が世界に影響をあたえます。人々は自身の在り方によって、世界が変わるのを知り始めています。

そして、自分の在り方が世界を作っているのを知るでしょう。
そう生き始めた人がこれからの新しい時代を導く存在になっているでしょう。

3.11で日本人が示した在り方は世界を導く準備ができていることを示しています。東北の人たちから始まり、それが日本人全体の意識に浸透してきています。大きな喪失を経験した日本人の在り方は世界の見本になるでしょう。これからの新しい時代を導き、世界中を照らすようになるでしょう。

日(太陽)という名を冠した日本に生きていることに感謝します。

ありがとうございます。

感謝を行為する

私たちは今ここに生かされています。
生かされていると感じると、今ここに感謝で生きるようになります。今ここで感謝を表すでしょう。

もちろん、ここで言う感謝を表すというのは、言葉で「ありがとうございます」ということだけを言っているのではありません。その在り方(想像)をこの世界に形として現わ(創造)していくことなのです。
世界にはいつも自他の関係性が映し出されているので、それを使って想像と創造とを結びつけることができるのです。

以前、「迷ったら掃除」と書きました。
それは、掃除によって在り方と行動が結びつき、心の中がスッキリとしやすいためです。

しかしなお、意識の汚れを取り感謝に戻った後でも、想像を創造に結び付けられない人が多いようです。
そうなると、行為が与える結果を感じることができないので、人の気持ちが感じられないことになります。
そうならないためには、自身の行為が体験と密接に結びついていることをすることです。
例えば、穴を掘る行為は手で行うと、行為の感覚と結果が自分の手や体、疲れや満足感として直接かんじられます。しかし、シャベルカーを使って掘った場合、その感覚と行為の結果は手によるものほど感じられないでしょう。

手書きの文章とキーボードから打つ文章の違いもそうです。手書きでは微妙な力加減が文字に現れますが、キーだと強く叩こうが弱く叩こうが押すだけで同じ文字が出てきます。
自分で走るのと車に乗って走るの違いもそうです。アクセルを踏めば息もあがらずにスピードを出せます。
自分の足で走っていて人にぶつかれば自分の体に痛みを感じますが、車で人にぶつかっても何も感じません。このような行為は、私たちが注意していないと今ここ感謝から離れていく要因でもあるのです。そして注意していない場合がほとんどなのです。

子供のころにパソコンやゲーム、テレビやマンガばかりで育つと、この行為と結果の感覚に乏しい大人になり、今ここ感謝を表すのが難しい人が多いようです。
一方、泥遊びや木登り、絵を描いたり習字をしたり、雑巾がけや皿洗いをしたり、植物や動物を育てたり、相撲やドッジボールなど、自分の体を直接使って行為の結果を経験できることを多くしてきた人は、今ここ感謝にすぐ戻れるようです。

しかし、どんな人でも、今ここがスタートになります。
私たちは生かされているということを思いだし、心の鏡の汚れを落とし、自身の行為が世界にどう現れるのかを知り、生かされていることへの感謝を世界に現わすことです。
行為自体が感謝になるときが、きっと来るでしょう。

ありがとうございます。

今ここから離れない

人というのは、いつも過去や未来に思いを馳せて、心配し思い悩んでは物事を複雑にしています。

考えや物事というのはシンプルであればあるほど良いのですが、今ここから離れ過去や未来にとらわれると物事が複雑になります。

今ここで自分が持っているもの与えられているものが見られなくなり、今ここでの状況判断ができなくなります。与えられているものに対する感謝がなくなり、出てくるのは不平不満ばかりになります。

また、現実を混乱した思考でとらえることになり、確かなイメージを持つことさえできなくなります。それを再び世界に投影するので、余計に混乱した世界を創造することになります。

集中力がない、やりたいことが見つからない、アイデアがまとまらない、現状に不満があるなど、全て今ここ感謝から離れていることから起こります。

今ここ感謝にある人は、今ここの瞬間にある状況を理解する能力が自然と与えられます。その理解は実践的な手段で自分のアイデアを実行し実現することにつながります。

智慧,洞察力。今起きていることを直感でとらえ、その経験から学ぶという能力が出てくるのです。

アイデアが明確になり、そのアイデアを実行できるということは、今ここ感謝から生まれてくるのです。

そこには過去や未来が絡んだ複雑さは影を潜めます。シンプルに「今」だけです。

シンプルさは今ここ感謝から生まれ、私たちに智慧を与えてくれるのです。

過去や未来に思い悩むことはほどほどにして、今ここを感謝の気持ちで過ごせるといいですね。

何事も有り難い

感情(在り方)というものは、常に私たち自身が選んでいるものです。例外はありません。

嫌なことをされたら嫌な思いをするのは自然だ、大災害は誰にとっても不幸な出来事だ、辛さや哀しさやは自分で選べるものじゃない、などと考える人は多いでしょう。しかし、その同じような経験に対しての在り方が千差万別なのを見ると、やはり自分で選んでいることが分かります。

多くの人の場合、普段の感情があまりにも習慣化し自動的な反応になってしまっているために、自分の感情を最初に選んだことさえ忘れてしまっています。あるいは幼少時の教育や両親などの影響によって刷り込まれたことを忘れてしまっています。その選んだ感情をさらに複雑な経験に結びつけて習慣化しているので、なぜその感情があるのかも理解できなくなっています。

状況や物事がある決まった感情と結びついているのは、その状況や物事に対して自分がどんな在り方を選んでとっているのか、どんな在り方の条件付けをしてしまっているのかを示しているのです。

これまで物事や状況に対して持っていた感情を全て自分で選んでいたというっことが分かれば、これからは状況や物事に対して違った感情(在り方)を選ぶのではないでしょうか。
あることが起きた時に、自分がどんな感情的な反応をするのかを見つめ、そしてそれをどう変えたいのか考えるようになるでしょう。
どんな感情(在り方)を自分は望んでいるんだろうか。自身の内面を豊かにしてくれる感情は 何だろうか。

それを突き詰めた時、その在り方が感謝だということに気がつくのです。

あること(いままでは嫌だと感じたことでも)が起こったら「有り難いな」なのです。
どんなことが起こっても「有り難い」のです。
どこにいようと何をしようと何をしていなくても、誰といようと一人でいようと、出てくるのは、即「有り難うございます」です。

黒住宗忠の歌につぎのようなものがあります。

『何事も有がたひにて世にすめば 向かふものごと有がたひなり』
(『生命のおしえ』平凡社、P190、文集143号)

とても良い歌です。また、とても深い歌です。

さあ、もう選ぶのは、「今ここ感謝」ですね。

ありがとうございます。

清く正しく美しく

清く、正しく、美しく。

私が小学生の時、確か低学年のときだったと思います、教室の中にこの標語が書いてある半紙が貼ってありました。生徒たちがよく(冗談で)この言葉を口にしていたのを覚えています。しかしその後、全くと言っていいほどこの言葉は聞かなくなりました。

私自身は、これはとても良い言葉だと思います。自分の考えや行動が、「清いのか」、「正しいのか」、「美しいのか」をいつも自問自答し、それに沿うように生きていくのは世界にとっても良いことだと思います。

現代社会では主に、「どれだけ多く」、「どれだけ速く」、「どれだけ楽に」、「どれだけ便利に」等の基準で物事が評価されてきました。「どれだけ清く」、「どれだけ正しく」、「どれだけ美しく」という基準で物事を評価することはほとんどありません。ほぼ結果重視です。プロセスを無視した考え方が優勢です。

しかし、生きるということは「今ここでどんな在り方をしているのか」の連続です。プロセスを無視した結果というのは結局、その無視した行為が身に付くだけなのです。

既に多くの人が気付き始めています。どれだけできるか、どれだけ頭がいいか、どれだけ財産を持っているか、というように、どれだけ多く持っているかというのは全く意味がないことに気付き始めています。

これからの時代に問題になるのは、どれだけ自分が清らかな気持ちでいられるのか、どれだけ正しい思いでいられるのか、どれだけ美しく考えられるのか、なのではないでしょうか。

清く、正しく、美しく。

私の大好きな言葉です。

ありがとうございます。