タオル

お気に入りのアイテム紹介です。

私がシンプルライフを目指して、モノを最小限にしようとする一方、以前から当たり前のように最小限にしているものがありました。

それは家で使うタオルです。

私が普段使っているタオルはフェイスタオル3枚だけです。
風呂用      1枚。
顔や手拭き用   1枚。
銭湯(サウナ)用 1枚。

風呂に入る時用には、体を洗うときも体を拭くときも1枚だけを使います。髪を拭くのも同じもので済ませます。拭く時には髪の毛、それから上半身を、最後に足を拭きます。タオルを使ったら固く絞り風呂場の横のタオル掛けに干しておきます。干しておけば次の日に風呂に入る時には乾いています。ですので、洗濯する必要がありません。

最後に足の指先までを拭いたタオルをそのまま洗わずに使うのは不潔だと思うかもしれません。私も一時はそのように思い、必ずもう一度洗ってから干すようにしていましたが、そこまで気を使う必要がないことに気がつきました。なぜなら、そのタオルを使っているのは私だけだということ、翌日に使う時に必ずお湯につけ石けんで泡立てるので、そこで殺菌されるだろうということ。
このようにフェイスタオルを風呂に使っていると、薄手のものだと半年くらい、丈夫なものだともう少し持ちます。

実は、以前はフェイスタオル1枚だけを風呂用と顔や手拭き用の両方に使っていました。風呂につかったタオルを次の日には乾いているので顔や手を拭くのに使っていました。この使い方だとお風呂用は年間に2枚だけしか使いません。しかし、その分タオルもゴワゴワに固くなり顔を拭くと顔が痛くなるので、これではダメだと顔や手拭き用のタオルを別に1枚用意することにしたのです。

銭湯用のタオルは、私はサウナに入ってタオルをお尻の下に敷いているので、タオルが熱と木の摩擦で痛み汚れます。これも年間2枚くらいになります。

ここ数年は、
風呂用    1枚(年間2枚)
顔や手拭き用 1枚(年間1枚)
銭湯用    1枚(年間2枚)
         (年間計5枚)
で定着しています。

今治タオル

今は今治タオルがお気に入りです。

と、言いたいところなのですが、

最近になってお気に入りが変わりました。

それは、セブンイレブンのタオルです。これは銭湯に行くときにタオルを持っていくのを忘れ、仕方なく途中のセブンイレブンで買ったものでした。

7イレブン
3枚組フェイスタオル

使ってみて驚いたのは、このタオルは薄くて軽いので、絞りやすく乾燥しやすいのです。
品質の良いタオルはほとんどの場合厚みがありフワフワしているので、水を多く含み絞りにくく、また、石鹸やボディソープを泡立たせるには多く量が必要で時間もかかります。また洗うのにも時間がかかります。
値段は3枚で300円くらいです。3枚中2枚が白、1枚が青です。サウナで使うタオルは板の色が移って汚れが目立つので青を使っています。青があってちょうど良かったです。

セブンイレブンの1枚400円くらいのタオルも人気のようです。→極ふわ贅沢仕上げフェイスタオル

こっちはかなり良いですが、私が今使っているのは3枚300円くらいのやつです。もしかしたら扱っている店舗が限られているかも知れません。
ちなみに同じ安さでも、100円ショップのものはゴワゴワしてダメです。

まとめ
タオルは薄くて柔らかいもの!理由は:
* 泡立てやすい
* 洗いやすい
* 絞りやすい
* 乾燥しやすい

タオルは粗品で頂くことが多いので、それを使う人も多いと思います。ただ私は、貰い物は全てバスタオルでもフェイスタオルでも、全て人に譲っています。気に入らないものは使いません。自分で気に入ったものを買い、それを使っています。

物の選ぶときは、自分の生活にぴったりする機能があるかどうかで選びましょう。余計な機能がついているものは、いずれ自分の生活全体を複雑にすることになるので、すぐにそれらを手放すか、シンプルなものに変えましょう。

今治タオル


シンプル イズ ベスト。

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自撮り棒

お気に入りのアイテム紹介です。

自撮り棒を購入しました。
これです。→自撮り棒Apsung

自撮り棒・セルカ棒
Bluetooth

主に運動中の自分の動画や、Youtubeなどに載せる動画を撮るために使います。
以前に一つ持っていたのですが、
*スマホを抑える部分がバネなので緩くて不安定
*ワイヤレスリモコンのスイッチのON,OFFがない
この二つの理由で古いのは手放し、新しいのを探すことにしました。

今回、購入するときの最低条件としては

* 軽くて持ち運びに便利
* ある程度頑丈
* 自撮り棒としても三脚としても使える
* スマホを強力に固定できる
* ワイヤレスリモコンのスイッチのON・OFFができる

色々と探し回った結果見つけたのは、Youtuberたちが推薦していたり、アマゾンでAmazon’s Choiceとして売られているものになりました。買う前にいろんな詳しい人の意見を参考にするのが必須ですね。

自撮り棒・セルカ棒
Bluetooth

これを使ってみて良いところは、

* 自撮り棒としても三脚としても使える
* コンパクトで持ち運びが楽
* ネジ式固定なのでスマホをしっかり固定できる

* ホルダーもネジ固定式なのでしっかり止まる
* ホルダー部分回転が可能なので全ての角度で撮影可能
* リモコンスイッチのON,OFFがでる

* リモコンが充電式バッテリーで電池交換がいらない
* スマホを固定する部分を離脱でき、その他のカメラなども設置できる
* 伸縮範囲は20cm~100cmなので地面や机上に置いて自由に使える
* 全体的な作りが頑丈


とても良いものに出会いました。
おそらく中国製だと思います。中国製品は、粗悪品が多いのですが、これはとても良いものだと思います。

こういう買い物は急いで買うのではなく、やはり、使い慣れてる人の意見や評判をもとに十分吟味して買うのがいいです。
また動画など撮りましたら、逐次アップしていきます。


*注
Amazonでは同じものがいくつかの会社から発売されていたり、送料無料のものや2000円以上で送料無料のものなどがあるので、ここでいくつか紹介しておきます。

私は誰か?(28)完

28.
解脱とは何でしょうか?

束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。


解説
世界、考え、感情、感覚、私、などの想念から解き放たれること、これが解脱だ。
「そう考えているのは誰か?」と問うことで、世界、考え、感情、感覚、意味、宇宙、その他のあらゆる想念は私が起こしていることを知る。そして私以外の想念しか残らなくなり、さらに「私は誰か?」と問うことで、私という想念でさえ消え去る。

私の体が私だと思うと、同時に自分以外の無数の体が他人として現れる。私の考えが私だと思うと、同時に無数の考えが存在するように考える。想念に自分を同化すると、たちまち世界や人といった様々な存在が現れるのだ。
想念が消え去ると、想念に同化していた私という想念もなくなる。そこには真の実在である真我がある。

「私は誰か?」
これが最後の問いだ。

原文
What is release?

Inquiring into the nature of one’s self that is in bondage, and realizing one’s true nature is release. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(27)

27.
探究と瞑想の違いは何でしょうか?

探究とは、真我の中に心をとどめておくことである。瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在―意識―至福であると思いなすことである。


解説

物事や現象世界を追求することは探求ではない。物事や世界は心により創られた想念だ。心が創りあげている世界を調べても、真の実在である真我は現れない。想念に捉われず、心を真我に固定しておく、これが本当の探求になる。
想念で溢れているうちは、一つの想念に心を集中すること。それは例えば、愛、至福、神、真我、道、私、存在、その他何でも良い。ひとつ選んだ想念に集中することによって、他の想念が消え去るだろう。一つの想念に集中すること、それが瞑想だ。
探求にせよ瞑想にせよ、最後には、心自体が消え去り、最後の一つの想念も消え去る。
探求も瞑想も、想念を消し去り、真の実在である真我に至る手段でしかない。探求も想念も最後には必要がなくなるだろう。

原文
What is the difference between inquiry and meditation?

Inquiry consists in retaining the mind in the Self. Meditation consists in thinking that one’s self is Brahman, existence-consciousness-bliss.

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(26)

26.
無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。智慧とは、何の対象物も現われないことを意味している。言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我を決して離れないことが智慧である。

解説
無欲というのは心が対象物に向かい、それに執着することだ。対象物というのは、物事、世界、感覚、感情、考え、私、これらの全てだ。これらの全てに心が向かうことを差し控えることが無欲だ。これは想念を手放すということと全く同じものだ。
智慧とは、心に実在ではないものが現れないことだ。実在ではないものが現れないとは、つまり、物事、世界、感覚、感情、考え、私、これらが現れないことだ。これらが心に現れないとは、真の実在である真我であることだ。
無欲・無執着と智慧は同じものだ。
どちらも実在である真我であることだ。

「そう考えているのは誰か?」と問い、想念を手放していき、「私は誰か?」と問うことで最後の想念が消え去る。
そして、想念が覆っていたものが現れるだろう。

原文
What is the relation between desirelessness and wisdom? 

Desirelessness is wisdom. The two are not different; they are the same. Desirelessness is refraining from turning the mind towards any object. Wisdom means the appearance of no object. In other words, not seeking what is other than the Self is detachment or desirelessness; not leaving the Self is wisdom. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(25)

25.
洞察力(ジニャーナ―ドリシュティ)とは何でしょうか?

静寂にあることが洞察力と呼ばれるものである。静寂にあるということは、真我の中に心を帰り着かせることである。過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。


解説
真の洞察力とはどういうものか。
真の洞察力とは世界が想念であると知ることだ。
過去を見たり、未来を予言したり、離れたところで起こっていることを見たり、というテレパシーや透視は、真の洞察力ではない。それらは単に想念の一部だ。想念を見ていることの延長でしかない。
同様に、その他の超能力のようなものも真の力ではない。テレポート、念動力、空中浮揚、未来予知、幽体離脱、瞬間移動、これらは全て想念の世界の一部でしかない。これらに意識を置くことは想念を増やし強化し、真の洞察力を覆い隠す。

真の洞察力とは、世界や物事の本質を見て、それが想念であることを知り、想念が静かになることだ。想念が静かになれば、自然と静寂が訪れる。
静寂が、真の実在である真我である。

原文
What is wisdom-insight (jnana-drsti)? 

Remaining quiet is what is called wisdom-insight. To remain quiet is to resolve the mind in the Self. Telepathy, knowing past, present and future happenings and clairvoyance do not constitute wisdom-insight. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(24)

24.
幸福とは何でしょうか? 

幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。世界のいかなるものごとの中にも幸福はない。我々は無智ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出て行くと、不幸を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは得たいと願っていたものが得られたり嫌っていたものが消え去ったりしたときには心は内面に向かい、純粋な真我を楽しむのである。このように心は休むことなく動き回り真我からさまよい出ては、また戻ってくるということを繰り返している。木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。灼熱の太陽の中を歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ猛暑の中を行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に無智な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさまよい歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき心は幸福を体験するのである。世界が現われると、不幸を味わうのである。


解説
幸福とは実在である真我の本姓だ。
世界に取り囲まれた私というものがある時は幸福はない。世界という想念が消え去る時に自然に幸福である。
世界という想念の中では幸福は想念の下に隠される。想念は生まれたり消えたりしているが、それらの想念が生まれる時には真我を見失うので幸福を隠している。想念が何かの拍子で無くなった時に真我が現れる。欲求が満たされた時や不安が解消された時、その時心は内面に向かい、次の想念が浮かび上がるまでしばらくは幸福の中にいる。
現れる想念がどんな想念であれ、そこに幸福はない。想念の中で幸福探しをしてはいけない。想念を離れたところが幸福なのだ。
実在としての真我は常在だ。太陽が雲に隠れていても常に輝いているように、幸福は常にここに輝いているのだ。

原文
What is happiness?

Happiness is the very nature of the Self; happiness and the Self are not different. There is no happiness in any object of the world. We imagine through our ignorance that we derive happiness from objects. When the mind goes out, it experiences misery. In truth, when its desires are fulfilled, it returns to its own place and enjoys the happiness that is the Self. Similarly, in the states of sleep, samadhi and fainting, and when the object desired is obtained or the object disliked is removed, the mind becomes inward-turned, and enjoys pure Self-Happiness. Thus the mind moves without rest alternately going out of the Self and returning to it. Under the tree the shade is pleasant; out in the open the heat is scorching. A person who has been going about in the sun feels cool when he reaches the shade. Someone who keeps on going from the shade into the sun and then back into the shade is a fool. A wise man stays permanently in the shade. Similarly, the mind of the one who knows the truth does not leave Brahman. The mind of the ignorant, on the contrary, revolves in the world, feeling miserable, and for a little time returns to Brahman to experience happiness. In fact, what is called the world is only thought. When the world disappears, i.e. when there is no thought, the mind experiences happiness; and when the world appears, it goes through misery. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻


私は誰か?(23)

23.
解脱を願うものにとって、本を読むことにはどんな価値があるでしょうか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが聖典の最終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問い続けるべきである。この探究がどうして書物の中でできるだろうか?人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は五つの鞘の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物の中に求めるのは無駄なことである。いずれは学んだことすべてを忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

訳注5  
五つの鞘:パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘
 アンナーマヤ・コーシャ、身体の鞘。
 プラーナーマヤ・コーシャ、生気の鞘。
 マノマヤ・コーシャ、心の鞘。
 ヴィジーニャーナマヤ・コーシャ、知性の鞘。
 アーナンダマヤ・コーシャ、至福の鞘。


解説
全ての聖典の共通する目的は、自分自身の心を静かにさせ、世界が想念であると知ることだ。
世界が実在と感じ、想念に振り回されている時には、聖典を読むことは価値があるだろう。世界が想念であると知り、自分の体や考えが私ではないと知れば、聖典の役割は終わる。
様々な想念が消え去り、最終的に「そう考えているのは誰か?」、「私は誰か?」という問いに至れば、書物は必要がない。
聖典は言わば、梯子のようなものだ。登り終わった後には梯子は必要がないのと同様に、世界が想念であることを知れば聖典は必要がない。
目的地にいる人に地図が必要がないように、聖典も実在である真我にある人には必要がない。

原文
Is it any use reading books for those who long for release?

All the texts say that in order to gain release one should render the mind quiescent; therefore their conclusive teaching is that the mind should be rendered quiescent; once this has been understood there is no need for endless reading. In order to quieten the mind one has only to inquire within oneself what one’s Self is; how could this search be done in books? One should know one’s Self with one’s own eye of wisdom. The Self is within the five sheaths; but books are outside them. Since the Self has to be inquired into by discarding the five sheaths, it is futile to search for it in books. There will come a time when one will have to forget all that one has learned.

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(22)

22.
目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

目覚めている間は長く、夢を見ている時間は短い。これより他に何の違いもない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢の中では真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも想念、名前、形は同時に現われるのである。


解説
夢の世界は想念の世界だ。誰もが目覚めた時に夢の世界が現実ではないと分かる。しかし夢を見ている間はそれが現実として起こっているように見える。目が覚めれば夢の中のどの要素も真実ではないと知る。
夢が真実ではないように、目が覚めている時のこの世界も真実ではない。様々な人や物質が現れているように見えるが、全ては心の中で作られた想念の塊だ。
夢が覚めた途端にその世界が消えてしまうように、実在である真我が現れた時は私という想念とともに、私を取り囲んでいた全ての世界は消え去る。

原文
Is there no difference between waking and dream? 

Waking is long and a dream short; other than this there is no difference. Just as waking happenings seem real while awake. so do those in a dream while dreaming. In dream the mind takes on another body. In both waking and dream states thoughts. names and forms occur simultaneously. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻

私は誰か?(21)

21.
解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素を探究する必要はあるのでしょうか?

ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したりそれが何であるか調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても意識の性質を調べたり、その構成要素を分析して数えたりする必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素のすべてを払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。


解説

意識というものが全て想念の集まりだと知っているなら、想念について探求する必要があるだろうか?
世界が想念であると知っているのに、その想念である世界を探求する必要はない。自分が作り上げている想念をなぜ自分が探求する必要ははい。自分が作り上げていると知り、単にそれを手放せばよい。
想念を手放すこと。それによって実在である真我が現れる。真我を熱望するのになぜ想念を手放さず、さらに想念を探求することは、真我をさらに覆い隠すことになる。
真我が現れるには、常に沸きあがる想念を捨て去ることだ。沸きあがる瞬間に捨て去ることだ。「そう考えているのは誰か?」、さらに「私は誰か?」と問い続けること。
私が消える時、私が覆っていた真我が姿を現すだろう。


原文
Is it necessary for one who longs for release to inquire into the nature of categories (tattvas)?

Just as one who wants to throw away garbage has no need to analyse it and see what it is, so one who wants to know the Self has no need to count the number of categories or inquire into their characteristics; what he has to do is to reject altogether the categories that hide the Self. The world should be considered like a dream. 

ラマナ・マハルシの本の紹介
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ラマナ・マハルシとの対話 第1巻
ラマナ・マハルシとの対話 第2巻
ラマナ・マハルシとの対話 第3巻