「ありがとう」と「ごめんなさい」

どんなことでも、結局は日々の習慣が影響します。
最後に問題になるのは、自身に染みついた習慣です。

「今ここ感謝」も、習慣として継続することによって自身に身に付きます。
様々な問題や困難に出会ったときに、それを乗り越えることができ、その問題や困難に対してで感謝にあることができるのです。
今ここ感謝の積み重ねが、あらゆる出来事を感謝の対象にしてくれます。

「謝」という字には「礼を言うこと」と「あやまること」という意味があります。
つまり感謝は、自分が生かされていることに対して「ありがとう」を言うことと、自分がその生を生かしてないときに「ごめんなさい」を言うことなのです。
人間は間違いも犯します。その時には自身の非を認め深く反省し、今後気をつければ良いことです。

「ありがとう」と「ごめんなさい」は最高の言葉ですね。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を心から言える人は、それだけでその人生を充実させています。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を素直に言える人は本当に幸せな人です。
今ここ感謝は、「ありがとう」と「ごめんなさい」です。

今日も本当にありがとうとうございます。
今日起こったこと全てに感謝します。

ありがとうございます。

常の道とは

『老子(道徳経)』では、最初に「常の道」である世界の始原について言及しています。

「道可道、非常道。」

『道』というのは、一体何のことなのでしょう。

神道の言葉に「カムナガラ」(「惟神、随神」などと書きます)という言葉があります。

「カミの御心のままに、カミそのままに」という意味です(西洋の神、GODではありません)が、そこでは「私」という限定された小さな意識というものは消えてしまうのです。「私」という限定された意識が消え、それを支えている始原である「道」にまで意識が広がり、それと一体となる経験なのです。「私」という存在を超えた意識があるのです。
意味や評価、解釈や分析、成功や失敗にとらわれていると、それは「私」という自我がいつでも道を経験することを邪魔するのです。

経験の善し悪しや意味の分析が問題のなのではないのです。経験そのものと一体となっているかが問題なのです。
実は体験、経験そのものが『常の道』なのです。カムナガラとは「私」というものが経験と一体となった経験のことなのです。経験と一体となることが、神道で言う「カミの御心」とともに在ることなのです。
解釈しようとする途端に「私」が現れ、経験から離れることになるのです。
解釈せずに経験を受け入れ(感謝とともに受け入れる)、今ここにいる。
感謝とともに経験一体となる。それが「カムナガラ」なのです。

そして、それこそが『道』なのです。

日常において『道』から離れていると、「私は」という表現が多くなるようです。
「私が」、「俺が」とか、「自分はこう思う」とか、あるいは「あなた」や『あの人」という二人称や三人称も、実は「私が」という一人称があるから生まれた表現です。
「自分が」があるから、その相対をなす「あなた」などが出てくるのです。

「道」である時は、せいぜい「すべて」や「私たち」という言い方になるのでしょう。
いいえ、そんな言葉さえ出てこないでしょう。

そこに在るのは、生きていることへの感謝の行為だけです。
すべてを包み込むような、すべてと一体となっている意識だけなのです。

そこから出てくる言葉は、ただただ「ありがとうございます」だけです。

ありがとうございます。

老子

新しい時代を導く人

周りをみていると、多くの人が生かされていることに感謝しながら生きています。
この世に生きていること自体が十分有り難いということが、いつも心の中にあるようです。

どんな人でも、怪我や病気、失敗や喪失、そして身近な人の死などを経験します。その時にこそ、その人の今の在り方が出てきます。
ある人は怪我をすると意気消沈したり不満をぶちまけたり、あるいはいかに自分が不幸なのかを嘆いたりします。
他方では、怪我や喪失などによって、自分自身の在り方を見つめなおし、もう一度最初からやり直そうと決心をし、生きているだけで良かったと感謝に在る人がいます。

私たちは何も持たずに生まれてきました。生まれてきたこと自体が感謝です。どんな失敗や喪失によって全てを失っても、命ある限り、生まれたときのゼロ段階での在り方が感謝なのです。
ですから、それを知っている人は、何を失っても、自分が生きている限り感謝に在り、不平不満によって自神をさげすむこともなく、「有り難い有り難い」と生きているのです。

生命や宇宙の真理というのはシンプルなものです。
幸せになるために複雑な方法を取る必要はありません。何かで成功する必要もないし、人よりすぐれている必要もありません。
感謝であることです。

『何事も有り難いにて世に住めば むかふものごと有り難いなり』(黒住宗忠)

過去に世界を動かしていたのは「何をやっているか」でした。
しかし人間が成長した今、「何をどんな在り方でやっているか」が世界に影響をあたえます。人々は自身の在り方によって、世界が変わるのを知り始めています。

そして、自分の在り方が世界を作っているのを知るでしょう。
そう生き始めた人がこれからの新しい時代を導く存在になっているでしょう。

3.11で日本人が示した在り方は世界を導く準備ができていることを示しています。東北の人たちから始まり、それが日本人全体の意識に浸透してきています。大きな喪失を経験した日本人の在り方は世界の見本になるでしょう。これからの新しい時代を導き、世界中を照らすようになるでしょう。

日(太陽)という名を冠した日本に生きていることに感謝します。

ありがとうございます。

感謝を行為する

私たちは今ここに生かされています。
生かされていると感じると、今ここに感謝で生きるようになります。今ここで感謝を表すでしょう。

もちろん、ここで言う感謝を表すというのは、言葉で「ありがとうございます」ということだけを言っているのではありません。その在り方(想像)をこの世界に形として現わ(創造)していくことなのです。
世界にはいつも自他の関係性が映し出されているので、それを使って想像と創造とを結びつけることができるのです。

以前、「迷ったら掃除」と書きました。
それは、掃除によって在り方と行動が結びつき、心の中がスッキリとしやすいためです。

しかしなお、意識の汚れを取り感謝に戻った後でも、想像を創造に結び付けられない人が多いようです。
そうなると、行為が与える結果を感じることができないので、人の気持ちが感じられないことになります。
そうならないためには、自身の行為が体験と密接に結びついていることをすることです。
例えば、穴を掘る行為は手で行うと、行為の感覚と結果が自分の手や体、疲れや満足感として直接かんじられます。しかし、シャベルカーを使って掘った場合、その感覚と行為の結果は手によるものほど感じられないでしょう。

手書きの文章とキーボードから打つ文章の違いもそうです。手書きでは微妙な力加減が文字に現れますが、キーだと強く叩こうが弱く叩こうが押すだけで同じ文字が出てきます。
自分で走るのと車に乗って走るの違いもそうです。アクセルを踏めば息もあがらずにスピードを出せます。
自分の足で走っていて人にぶつかれば自分の体に痛みを感じますが、車で人にぶつかっても何も感じません。このような行為は、私たちが注意していないと今ここ感謝から離れていく要因でもあるのです。そして注意していない場合がほとんどなのです。

子供のころにパソコンやゲーム、テレビやマンガばかりで育つと、この行為と結果の感覚に乏しい大人になり、今ここ感謝を表すのが難しい人が多いようです。
一方、泥遊びや木登り、絵を描いたり習字をしたり、雑巾がけや皿洗いをしたり、植物や動物を育てたり、相撲やドッジボールなど、自分の体を直接使って行為の結果を経験できることを多くしてきた人は、今ここ感謝にすぐ戻れるようです。

しかし、どんな人でも、今ここがスタートになります。
私たちは生かされているということを思いだし、心の鏡の汚れを落とし、自身の行為が世界にどう現れるのかを知り、生かされていることへの感謝を世界に現わすことです。
行為自体が感謝になるときが、きっと来るでしょう。

ありがとうございます。

今ここから離れない

人というのは、いつも過去や未来に思いを馳せて、心配し思い悩んでは物事を複雑にしています。

考えや物事というのはシンプルであればあるほど良いのですが、今ここから離れ過去や未来にとらわれると物事が複雑になります。

今ここで自分が持っているもの与えられているものが見られなくなり、今ここでの状況判断ができなくなります。与えられているものに対する感謝がなくなり、出てくるのは不平不満ばかりになります。

また、現実を混乱した思考でとらえることになり、確かなイメージを持つことさえできなくなります。それを再び世界に投影するので、余計に混乱した世界を創造することになります。

集中力がない、やりたいことが見つからない、アイデアがまとまらない、現状に不満があるなど、全て今ここ感謝から離れていることから起こります。

今ここ感謝にある人は、今ここの瞬間にある状況を理解する能力が自然と与えられます。その理解は実践的な手段で自分のアイデアを実行し実現することにつながります。

智慧,洞察力。今起きていることを直感でとらえ、その経験から学ぶという能力が出てくるのです。

アイデアが明確になり、そのアイデアを実行できるということは、今ここ感謝から生まれてくるのです。

そこには過去や未来が絡んだ複雑さは影を潜めます。シンプルに「今」だけです。

シンプルさは今ここ感謝から生まれ、私たちに智慧を与えてくれるのです。

過去や未来に思い悩むことはほどほどにして、今ここを感謝の気持ちで過ごせるといいですね。

何事も有り難い

感情(在り方)というものは、常に私たち自身が選んでいるものです。例外はありません。

嫌なことをされたら嫌な思いをするのは自然だ、大災害は誰にとっても不幸な出来事だ、辛さや哀しさやは自分で選べるものじゃない、などと考える人は多いでしょう。しかし、その同じような経験に対しての在り方が千差万別なのを見ると、やはり自分で選んでいることが分かります。

多くの人の場合、普段の感情があまりにも習慣化し自動的な反応になってしまっているために、自分の感情を最初に選んだことさえ忘れてしまっています。あるいは幼少時の教育や両親などの影響によって刷り込まれたことを忘れてしまっています。その選んだ感情をさらに複雑な経験に結びつけて習慣化しているので、なぜその感情があるのかも理解できなくなっています。

状況や物事がある決まった感情と結びついているのは、その状況や物事に対して自分がどんな在り方を選んでとっているのか、どんな在り方の条件付けをしてしまっているのかを示しているのです。

これまで物事や状況に対して持っていた感情を全て自分で選んでいたというっことが分かれば、これからは状況や物事に対して違った感情(在り方)を選ぶのではないでしょうか。
あることが起きた時に、自分がどんな感情的な反応をするのかを見つめ、そしてそれをどう変えたいのか考えるようになるでしょう。
どんな感情(在り方)を自分は望んでいるんだろうか。自身の内面を豊かにしてくれる感情は 何だろうか。

それを突き詰めた時、その在り方が感謝だということに気がつくのです。

あること(いままでは嫌だと感じたことでも)が起こったら「有り難いな」なのです。
どんなことが起こっても「有り難い」のです。
どこにいようと何をしようと何をしていなくても、誰といようと一人でいようと、出てくるのは、即「有り難うございます」です。

黒住宗忠の歌につぎのようなものがあります。

『何事も有がたひにて世にすめば 向かふものごと有がたひなり』
(『生命のおしえ』平凡社、P190、文集143号)

とても良い歌です。また、とても深い歌です。

さあ、もう選ぶのは、「今ここ感謝」ですね。

ありがとうございます。

清く正しく美しく

清く、正しく、美しく。

私が小学生の時、確か低学年のときだったと思います、教室の中にこの標語が書いてある半紙が貼ってありました。生徒たちがよく(冗談で)この言葉を口にしていたのを覚えています。しかしその後、全くと言っていいほどこの言葉は聞かなくなりました。

私自身は、これはとても良い言葉だと思います。自分の考えや行動が、「清いのか」、「正しいのか」、「美しいのか」をいつも自問自答し、それに沿うように生きていくのは世界にとっても良いことだと思います。

現代社会では主に、「どれだけ多く」、「どれだけ速く」、「どれだけ楽に」、「どれだけ便利に」等の基準で物事が評価されてきました。「どれだけ清く」、「どれだけ正しく」、「どれだけ美しく」という基準で物事を評価することはほとんどありません。ほぼ結果重視です。プロセスを無視した考え方が優勢です。

しかし、生きるということは「今ここでどんな在り方をしているのか」の連続です。プロセスを無視した結果というのは結局、その無視した行為が身に付くだけなのです。

既に多くの人が気付き始めています。どれだけできるか、どれだけ頭がいいか、どれだけ財産を持っているか、というように、どれだけ多く持っているかというのは全く意味がないことに気付き始めています。

これからの時代に問題になるのは、どれだけ自分が清らかな気持ちでいられるのか、どれだけ正しい思いでいられるのか、どれだけ美しく考えられるのか、なのではないでしょうか。

清く、正しく、美しく。

私の大好きな言葉です。

ありがとうございます。

すでに幸せ

幸せになるにはどうすればいいのか。

あらゆる時代に、あらゆる場所で、あらゆる人がこのことを探求してきました。
単純なものから非常に複雑な理論まで、あらゆる宗教や最新の科学まで、現在でも「幸せ」になるために生み出したあらゆる方法を目にします。

実は、幸せになることは不可能なのです。これまでの幸せになるための方法全てが間違っているのです。

なぜ?

それは「幸せ」とは「生きていること」だからなのです。今ここに在ることだからなのです。
もうすでに私たちは幸せなのです。

生きているだけで幸せ。
いいえ。生きていることが幸せなのです。

私たちは(この文章を読むことのできる生きた皆さんは)、十分幸せな魂だから、この地球上に肉体を持って生まれることができたのです。
私たちは、すでに幸せなのです。

問題は、そのあとなのです。
幸せならどうするか。。。

答えは自ずと出てきます。幸せな人間はどんな在り方をするか.幸せな人間はどんな行動をするか。
幸せであればどんなことをしても大丈夫です。

なぜって?
幸せだからです。
幸せな人間からは、幸せが生み出されるのです。
幸せから生まれるものは、幸せなものだけだからです。

私たちは、今ここに生きていることが、ほんとうに幸せなのです。
私たちがそれに気付くことで、世界が幸せなものに変わっていくでしょう。

ありがとうございます。

マザー・テレサの祈り

マザー・テレサは毎朝仕事を始める前にお祈りをしていたそうです。
おそらく次のようなものだったと感じます。

「神様、この体と心と魂を人々のためにお使いください。」

マザー・テレサは祈るとき、自分が何かをしたいとか、神に何かをして欲しいとか祈ったのではなく、自身が神と一体となって人のために働いていると感じ、それに感謝していたのではないでしょうか。自分は今ここで感謝の中にあるという宣言をしていたのではないでしょうか。
マザー・テレサは「今ここ感謝」を真に理解していた人であったと思います。

以前、私がお世話になったヨガの先生のグループがインドに行き、マザー・テレサが行っている仕事を手伝う機会がありました。数日間手伝ったらしいのですが、毎日の仕事は想像以上にキツいものらしく、その先生のグループの皆が半日でバテてしまい,毎日最後まで手伝いができたのはそのヨガの先生一人だけだったそうです(この先生は特別にエネルギッシュなひとです)。腰の曲がった老齢の女性が、これだけの仕事を毎日こなすのは、やはり自我が生み出す以上の力があったからだこそ可能だったと感じます。

人間は、心が清明になり行動が正直なものになってくると、そこには「私」とか「自分」とかという主語は無くなり、全てに対して調和した「私たち」という言葉が出てくるのです。その時のエネルギーは自分が持っている以上のものになり、周囲のエネルギーと調和し、人々の喜びや苦しみを自分のことのように感じ取り、世界で起こっていることを我がことのように経験するのです。

生きていることは、自分で生きているのではなく、生かされているということを理解し、生きていることへの『感謝』に至るのです。
これからの時代は、その「今ここ感謝」の時代です。新しい時代の在り方です。
マザー・テレサはその新しい時代の在り方を先取りしていた人でしょう。

「今ここ感謝」、それが普通になる時代です。
「今ここ感謝」は新しい時代の在り方です。

ありがとうございます。

与えたものだけが与えられる

最近の書店を見ていると、売れている本が変化してきた気がします。大震災後の生き方について考えを見直そうと促したり、エネルギーや自然についてだったり、幸せとは何かを考えさせるタイプの本が目立ってきたように思います。

しかし、以前からあるような、「思考は実現する」、「引き寄せの法則」、「ポジティブ思考」、「能力開発」、「成功法則」、「~する技術」、「~ハック」などのビジネス書は,ただタイトルをより個性的なもの変えているだけのようです。

これらの本を読んでみると、大部分に、最低限のことをしてそれよりはるかに大きな結果を得る、一人勝ちする、他人より先んじる、自分だけ得する、というような不自然な考え方を感じます。

10の努力で100の結果を得ましょう、最低の投資で大きな配当を受けましょう、一か月の練習で5年分の技術を身に付けましょう、そのような発想です。

しかし、この世界というのは感謝の中で注いだエネルギーの分しか結果は得られません。アスリートや職人,芸術家や作家などのような人にはよく分かるでしょうが、結果というのは注いだ分しか出てこないのです。1km走るための練習では。10km走ることはできません。10km走るだけの練習が必要なのです。エネルギーを注いだ分だけしか結果は出ません。

それは自然なことなのですが、人は今ここ感謝から離れたり、好きでないことをしていたりすると、その自然なことを忘れてしまい、自分の力を注いだ以上の結果を要求し始めます。しかし、後で気がつくのですが、不自然な要求が通った場合はしっぺ返しが来ます。自分の生命が削られているのです。

感謝の中に在るともっともっと自分の力と愛情を注ぎ込もうと思いますが、しかし、不自然な「もっともっと」は、注ぐ力を増やさずに結果だけを増やそうとします。それはうまくは行かないので、必ずどこかで気が付きます。

時には、あまりに感謝から離れていると、気付きが遅れ、占いやパワーストーン等,自分の努力とは関係ないものに頼ろうとします。それで幸せになることはないでしょう。楽にあるいは幸せになったように見える時でも、それは結局見えないところで自身の感謝を弱め、生命力を削ります。最期の最期に分かります。

唯一、感謝の中で注いだ行為が実を結びます。10の力を注いだら10の結果です。それ以上でもそれ以下でもありません。

結果は求めるものではありません。
結果は出るものです。

では、感謝したらどんな結果が得られるのか、って?

それは、いつでも感謝の状態にいられる、という最高の結果です(^^)
自分が与えたものだけが、結果として出てくるのです。

ありがとうございます。