エネルギーのダンス

エネルギーのダンス

私たちは、現実とか世界というのは、自分が世界を認識していて、世界は自分を取り巻くもの、自分とは別のもの分離したものと感じて、ものごとというのは自分で作り出しているのではなく、自分に降り掛かっているようにも感じます。
究極の現実では自分と自分以外のものは常に一体なのですが、そういう風に感じるのが難しいこともあるでしょう。
分離していると感じているので、人間関係や状況の問題の対処がうまく行かなくなることもあるでしょう。

私が習っている合気道では「自由技」というものがあります。相手にある方法で(突いたり、打ったり、掴んだり)攻撃を仕掛けてもらって、それを自由に捌いていくというものです。この練習をしているとき、うまく捌けるときとそうでないときに何が違うのかを考えてみました。
観察していると、うまく行くときは相手と自分の力が結びついて流れがあるときで、自然に一体感のある動きで捌き、相手も何をされているのか分からなく感じるようです。このときは自分も相手も楽しく笑っているものです。攻撃するほうもされるほうも楽しんでいるのです。
うまく行かないときは自分がこう投げたい、こう技をかけたいなどと考え、結局相手と結びつかず衝突してしまっているときでした。お互いにケガをしてしまうこともあります。こんなときは笑いもありません。顔がこわばり懸命に技をかけようと心も体もガチガチです。

これは普段の私たちの生活でも一緒ではないでしょうか。
自分に起こっていることに抵抗したり、無理に動かそうとしたり、自分でコントロールしようとしたり、状況に不平不満を言ったり、人を変えようとしたりすると、うまく行かないものです。大抵の場合、更なる抵抗や衝突を生み出します。
うまく行っているときは、自分がこうしたいというような考えやコントロールをやめ、人や状況と結びつき一体となって流れているときなのです。そこには結果や目的というものはありません。一体感からくる流れの中で楽しんでいるだけなのです。

ものごとや状況と一体となりましょう。人の心と一体となりましょう。すべてと結びつき一体となって流れましょう。

結びつき一体となるには最初は練習が必要かもしれません。しかし、それは結びつき一体になるという練習ではなく、今まで習慣になっていた自我、流れを邪魔している自我をなくす(従える)練習です。そこから生まれる抵抗やコントロールを手放す練習です。あるいは義務感や責任感、抵抗やコントロールを手放す練習です。
新しいことをするのではなく、ただ一体となり、もともと存在していた流れに戻るだけです。気づきだけです。

気づくとそれは、

エネルギーのダンス。

 

 

*合気道が好きな人は以下の動画を楽しんでください♩ 

世界という鏡の使い方

ヴィーナスの誕生・デュバル二枚

私たちの周りでは常にある事象があり、その事象は変化し様々なことが起こります。
自然は変化し、経済社会は変化し、人間関係は変化します。起こったことに対し、分析したり解釈したり、あるいは良いとか悪いとかと判断したりします。ある事象自体が客観的に存在していて、自分がそれをしっかり見ていて、客観的に判断していると考えています。

ニュース、他人の振る舞い、映画、本などを見ながら「断固反対だ」「素敵だ」「かわいそうだ」「最高だ」などと考え、さらに様々な判断や解釈まで付け加えます。そして、それぞれの人がこれらの考えが当たり前だと思っています。すべての人の見方が違うにも関わらず、自分の見方だけは正しいと思っているのです。

ここで提案です。
起こっている事象を「自身の鏡」として使いましょう。
起こっている事象の意味は自分だけがそう考えている、と思うのです。自分の心が映っていると思うのです。
何かを見て「醜いな」と思ったら、鏡の中に映った自分の心を見て「醜いな」と言っていると気づくのです。
何かの出来事に対して「美しいな」と感じたら、それは鏡に映し出されてた自分の心だと思うのです。

自分の周りでいろいろなことが起こっているなと感じている人は、自分の心を見つめる機会が多いということです。
自分が思っていることや感じていることを自分の中に見ようとするのはできなくはありませんが、鏡を見ないで化粧をしようとするくらい難しいことです(慣れれば簡単ですが)。
せっかく状況が自分の心を映し出してくれてるので、どうせならそれを鏡として使いましょう。その時その時の自分の心を映し出してくれているのですから。
物事に対して自分が思ったことは、自分の今の在り方なのです。

世界はなぜ存在するのか?

それは、

あなたが「自分の在り方」を、自分で決めるためなのです。

  

自分讃歌

earth

あなたはこの世でたった一人だけの存在だ。

自分を誰と比べようとしているのか。他の誰になろうとしているのか。
自分以外のものになる必要などない。
他の人をさげすんだりうらやんだりする必要もない。
いつも唯一の存在だ。

あなたはこの世に生まれてきただけで完全な存在なんだ。
生まれたときに自分と世界を祝福しているんだ。
存在そのもの以外に何も義務などないんだ。
この世で体験する魂であって、同時に、魂という体験を設定したより大きな存在なんだ。

体験する魂自体は生まれもしないし死にもしない。変化するだけだ。

自分というのは、その体や、その考えや、その感情ではなく、魂だと気づく。魂には死はない。
そして、魂は自分が魂という限定されたものではなく、もっと大きな存在だと気づく。大きな存在はあらゆる在り方を経験できる。
再び、大きな存在は、自分自身は限定されたものでなく、すべてだと気づく。
すべてという存在もその限定を解き、無となる。

それが究極の真実だ。真実というものは無に行きつく、それが真実だ。

何も無い。限定がとれた瞬間に、本当の自分、本当の生命が始まる。

自分讃歌。

ああ、そうだったんだ。自分はそういう存在だったんだ。

無から始まり、無はすべてを創造する。

そのすべてが自分なんだ。

自我の終焉

自分

私たちが「自分」と言うとき、それは一体何を示しているのでしょうか。

おそらく私たちは「自分」のことを、自分の体、自分の思考、自分の言葉、自分の感情などとして認識しています。
しかし、それらは本当に「自分」なのでしょうか。

実際にこれらについて確認してみましょう。
自分の身体。これは本当に自分の身体なのでしょうか。ずっと自分の身体と思っていたものは実際には消滅し変化しています。身体の細胞はほぼ6ヶ月ごとに入れ替わっているので、6ヶ月前の自分は今の自分とは全く違うものになります。
自分の思考についてはどうでしょうか。生まれたときには何も頭に入っていなかったのに親との接触や教育などによって様々な情報から思考が作られてきました。すべての思考は情報でありそれは自分以外のどこからかやってきたものです。言葉も同じく自分自身が作り出したものは一つもないでしょう。
感情も状況に対する思考の対抗反応です。ある状況に対して共感や反感が生まれるとき感情を使います。これも一つのエネルギー状態を経験しているだけなのです。もちろんこの感情が思考と結びつくと人生がよりドラマチックに感じられるのは事実ですが。

面白いことに、この情報の一つの状態である偽の自分(自我と言っていいでしょう)を、自分の意見、自分の身体、自分の感情などと同一化してしまうと、これらの自分の意見、自分の身体、自分の感情といったものを他者から否定されると、自分の全存在が否定されたと思い、怒ったり、憤ったり、悲しんだりします。自我が強い人ほど「いや、でも、しかし」という言葉が多く、議論好きで、不平不満を言う傾向にあります。これは過去の経験による思考と感情が固着したエネルギーブロック(一種のトラウマ)ができていることによります。

しかし、この同一化をやめしっかり観察してみると、これらの「自分」は体験の道具でしかなく、本当に体験しているのはそれより大きな存在の真我なのです。これに気づくとすべてが解放されます。生き方に調和があらわれ、今ここに生きるようになります。

様々な宗教や精神世界で「悟り」と言われるものは、この本当の自分と自分だと思い込んでいる自我をしっかりと見つめることなのです。自分の思考は自分ではないと観察し、自分の体は自分ではなく常に変化しているものであると観察し、自分の言葉は常に変化する情報でしかないと観察することなのです。「本当の自分」とか「真我」と言われるものはこの観察者なのです。それは探したり作り上げたりすものではなく、自我をしっかりと見つめたときに初めて起こること、つまり何かをやめた途端に現れるものなのです。もともと存在していたものを改めて確認することなのです。あることをやめた途端に現れるものなのです。

すべての答えは常に自分の中にあるのです。これまでも、これからも、ずっと自分の中に存在しているのです。
自我というものが終わったとき、自我が見ようとしなかった本当の自分の姿が現れるのです。

それは、ただただ起こるのです。

もう一度(ある在り方の物語)

PIG

ボクは、自分が生まれる前のことは全然覚えていなかった。
カミさまが教えてくれるまでは。

ボクが生まれたのは田舎の農家だった。6人兄弟だったので、生まれて数ヶ月で別の人のところに引き取られた。
引き取ってくれたオジチャンとオバチャンは、とても親切で、しっかりとボクを育ててくれた。
オバチャンはブラシをよくかけてくれた。最初は何されているかわからなかったんだけど、だんだん気持ちよくなってきて、ブラシを見ると眠たくなるようになってしまったくらい。
オジチャンは毎日体を洗ってくれた。ボクがきれい好きなことを知っていたのはオジチャンだけだったからね。
カミさま、あなたも知っていましたね。

時々、もうこれでもか、っていうくらいご飯を食べさせてもらった。まわりのみんなが過保護だって言うくらいにね。
オジチャンとオバチャンは、ボクがポッチャリしているのがいいって、いつもそう言っていたから、ボクはたくさん食べて寝て、時々走りまわって、それからまた食べて寝てってやっていたな。
二人が喜ぶ顔を見るのは、ボクの喜びでもあったな。
カミさま、あなたも喜んでたって言っていましたね。

オジチャンとオバチャンに引き取られて数年たったころ、ボクのうちに初めて見る人が来たんだ。オジチャンと話しているのを聞くと、引き取るとか引き取らないとか、いつ出るとか出ないとか、どうもボクの話をしているようだった。
その夜、オバチャンがボクの寝床に来て泣いていた。ボクは寝た振りをしていたけれど。オジチャンは、その日から無口になった。それまでたくさん話を聞かせてくれていたのに。
カミさまの話を聞いて、やっとその理由がわかったよ。

その日は突然やってきた。そろいの制服を着た三人の男の人が入ってきたんだ。ボクを車に乗せようとして、いやがったらボクの耳を引っ張って、お尻を押して。ボクは感情が麻痺しちゃったな。カミさまなんていない、って思ったよ。
カミさま、あなたも、「カミさまなんていないよ」って言っていましたね。

他の仲間と一緒に並んで、機械がある部屋で、意識がなくなったと思ったら、意識が体から離れてしまって、ボクはボクでなくなっちゃったな。
ボクの体は血を抜かれて、バラバラにされて、もとの形がなくなってしまった。
袋に入れられた体を見たときは、ボクは自分が生きていた意味なんてないって思ったんだ。
カミさまも、意味なんてないよって言っていましたね。

仕方ないから、ずっと自分の体の行方を追っていたけど、どこかのお店で、袋から出したボクの体を料理して、お皿にのせて出していたんだ。
そしたら、家族がそこにいてね、ボクのオジチャンとオバチャンに似た人たちだったかな。
その中の女の子がボクのことを食べながら言ったんだ、

「おいしいね、おいしいね」

って。

それを聞いたとき、ボクはパアッと広がったんだ、宇宙に溶け込んだみたいにね。
それで、一瞬にして思い出したんだ、自分が生まれる前のことも、生まれた理由も、すべての経験の理由も。

カミさまは、それはボクが「消化された」って言っていた。
違ったかな、「昇華」だったかな。
カミさまの言うことは難しいから、時々分からなくなっちゃう。

それでカミさまは「今回、この生き方を選んだね。すべて自分で選んでいたんだよ。どんな在り方でも選べるよ。次はどんな在り方を選ぶのか」って。

ボクは言ったんだ、

「カミさま、もう一度 豚がいい!」

 

その瞬間、ボクは光になった。

光

老子超訳(第四十章)

有生於無

前に進もうとするのではなく、反対に自分自身の内面に戻ることが『道』の動きである。
強く逞しくなろうとするのではなく、弱く柔軟になることが『道』の働き方である。
万物は「有」という形のあるものから生まれてくるが、
その「有」は「無」という形のない『道』から生まれてくるのだ。

形にとらわず柔軟であること、
そして、自分の内面にもどる、
それこそ、一体である『道』の在り方なのだ。

 

原文
反者道之動,弱者道之用。天下萬物生於有,有生於無。

一と多

私というものは何か?
私というのは意識であり心であるのですが、それは一つの幻想の在り方で、生成と消滅というドラマを繰り返しています。
それは、分離と統合、反感と共感、愛と不安、でもあります。

私は自身を体験するために、一(無、統合)から多(有、分離)という在り方をとります。
それは次のような繰り返しになります。

1
2
3

根本は一体なのですが、自と他の分離という認識によって他に映る自分を知覚し体験します。
これがあらゆる存在の段階で起こります。
この生成と消滅のおかげで、分離や統合、反感や共感、愛と不安が体験できるのです。
人間、動物、植物、鉱物、星も、銀河も、そして、宇宙もしかり。
そして、心での一体感や分離感、愛や不安、共感や反感もしかり。
これら相反する物事や在り方の両方とも必要なものなのです。
一方を否定するともう片方も否定することになるので、結局両方とも必要なのです。

愛が在るためには不安が必要なのです。
一体感を感じるためには分離感が必要なのです。
共感するには反感が必要なのです。
生徒がいなければ先生が必要ないように、患者がいなければ医者が要らないように、この宇宙には体験するために自分でないものが必要なのです。
ポジティブが存在するためにはネガティブが無ければならないのです。

すべての存在が自分と反対のものの認識を前提としています。
その無限の組み合わせの中から選択します。
そして、その選択した体験をし、それを十分に体験したら消滅(統合)します。

しかし、認識している裏では全てがつながっているので、そこには常に一体があります。
図(つまり認識)では薄いグレイ(一)と濃いグレイの丸の二つ(多)が見られますが、そのまわりの白い空白部分は私たちは認識していません。
認識していなくても一と多はいつでもつながっているのです。

これが生命・宇宙の経験のしかたです。
私たちはいつでも一体なのです。
一体というのは、ある意味パラドクスです。
そのことをいつも思い出して生きることです。

老子超訳(第三十九章)

一

その昔から、一という根源である『道』を獲得しているもの、それらをあげてみると。
天はこの一を得て、清澄である。
地はこの一を得て、安定している。
神はこの一を得て、霊妙である。
川谷はこの一を得て、満ちている。
万物はこの一を得て、生成している。
王侯たちはこの一を得て、世の指導者となっている。

それらはすべてこの一という原則によってなっている。

天は清澄でなければ、裂けてしまうだろう。
地は安定していなければ、崩れ落ちてしまうだろう。
神は霊妙でなければ、絶えてしまうだろう。
川谷は満ちていなければ、枯れ果ててしまうだろう。
万物は生成しなければ、消滅してしまうだろう。
王侯たちは指導者とならなければ、国が滅びてしまうだろう。

貴いものは賎しいものを基本として、高いものは低いものを基本としている。
そのため、王侯たちは自称して自分たちのことを「孤児」とか「独り者」とか「不幸せ」とかいう。
これは貴さは賎しさを基本としているからではないだろうか。
そうではないか。
だから、多くの栄誉を求めようとすると、かえって栄誉を失うことになる。
高貴な宝玉とか、とか、つまらない石ころとか、どちらも望むところではない。
良い悪い、多い少ないなどということは、一があってからこそ存在する。

一という根源である『道』こそが落ちつくべきところなのだ。

 

原文
「昔之得一者,天得一以清,地得一以寧,神得一以靈,谷得一以盈,萬物得一以生,侯王得一以為天下貞。其致之,天無以清將恐裂,地無以寧將恐發,神無以靈將恐歇,谷無以盈將恐竭,萬物無以生將恐滅,侯王無以貴高將恐蹶。故貴以賤為本,高以下為基。是以侯王自稱孤、寡、不穀。此非以賤為本邪﹖非乎﹖故致數輿無輿。不欲琭琭如玉,珞珞如石。」

世界は自分自身の鏡

私たちの五感を観察してみると、

目は、自分のことを見ることはできない。
皮膚は、自分のことを感じることはできない。
耳は、自分のことを聞くことはできない。
舌は、自分のことを味わうことはできない。
鼻は、自分のことを嗅ぐことはできない。

同じように、人は、自分自身のことは認識できない。
自分以外のものを認識することによって、自分自身の立場を確認している。

つまり、私たちは自分自身のことを自分以外のものからでしか認識できていないのです。
自分自身の認識は、常に他者との関係においてでしかできないのです。

これが、世界は自分自身の鏡だ、と言われる所以なのです。

私たちが世界を見ているとおりのことが、実は私たち自身のことを表しているのです。

自分が世界を認識した途端に、その認識している対象に自分がどんな関わり方をしているのか、を表します。

世界がダメだと思ったら、世界がダメだと思っている私が在るということ。
人のことを気持ちよく感じたら、人がよいのではなく、認識している私がその在り方を選んでいるということ。
環境や状況について思っていることは、状況についてではなく、私たちの在り方を現しているということなのです。

だから、状況自分の在り方の鏡、反映なのです。

今ここに、何を感じるでしょうか。
今ここに、何を思うでしょうか。
それが、今のあなたです。

では、
次の瞬間(つまり今ここ)、
あなたはどんなあなたで在りますか。

いつも(つまり今ここで)感謝の中にあること。

ありがとうございます。

老子超訳(第三十八章)

大丈夫真の「徳」を持っている人は、ただ『道』に従っているだけで、自分の徳を徳と意識している訳ではありません。
それだからこそ、徳が身についているといえるのです。
「徳」が十分でない人は、自分が持っていると思っている「徳」を、どうにかして失うまいとしようとします。
それだからこそ、徳が身につかないのです。
真の「徳」を持っている人は、「無為」の状態なので、何かをしたという後が残らないのです。
仁がある人は、仁をなしていながら、その後を残さないのです。
義がある人は、義をなしていながら、それをわざわざ外に表そうとしているです。
礼がある人は、いろいろなことをなし、相手がその礼に応えないと、無理に相手を引き込もうとするのです。
してみると、
「道」が失われてはじめて「徳」が生じ、
「徳」が失われてはじめて「仁」が生じ、
「仁」が失われてはじめて「礼」が生じます。
「礼」という形だけの行為は、結局、忠や信の欠如であって、そもそも様々な問題の始まりなのです。
仁、議、礼などを前もってわきまえるという考え自体が、真の『道』の本質が失われたものであって、愚昧の始まりなのです。
そのため、しっかりした人は、自分自身を『道』の実質に置いて、決してそこから離れず、
その実質的なことに従って生き、見た目だけに従うことはないのです。
したがって、『道』の本質によってのみ生き、些末な現象には惑わされないのです。

 

原文
『上德不德,是以有德;下德不失德,是以無德。上德無為而無以為;下德為之而有以為。上仁為之而無以為;上義為之而有以為。上禮為之而莫之應,則攘臂而扔之。故失道而後德,失德而後仁,失仁而後義,失義而後禮。夫禮者,忠信之薄,而亂之首。前識者,道之華,而愚之始。是以大丈夫處其厚,不居其薄;處其實,不居其華。故去彼取此。』