人格が個性を支える

私たちが常々話題にすることの一つに人の個性というものがあります。
やることが細かいとか、オットリしているとか、こだわりがあるとか、気が利くとか、そのようなことです。

これらの個性というのは、時と場合によって呼び方が変わるようです。物事にとらわれないと言われるか鈍感と言われるか、気が利くと言われるかおせっかいと言われるか、率先的と言われるか向こう見ずと言われるか、同じ個性が違う呼ばれ方をするのです。
考えてみると、個性というのはその人が一番良く使う道具のようなものです。道具を使う時と場合によって解釈のされ方も違ってくるのですね。

ほとんど人の個性というのは生まれもって身に付いているもの、あるいは三つ子の魂百までと言われるように3歳頃までに身につけたもののように思われます。
私の場合、小さい頃から抽象的なことばかり考えている割りには、人の前ではふざけてばかりいました。一人で行動することが好きで集団行動ができませんでした。このような言い方で表現している私の個性は、使い方によっては人を傷つけることもあるし、逆に人や世の中の役に立つこともはずなのです。

私は人を指導することが多いのですが、そこで気がついたのは、人が欠点と思っている性質ほど大切なものはないということです。欠点として現れる行動というのは強いエネルギー(個性)に支えられていることが多いのです。それは使い方が間違っているから欠点に見えるだけなのです。使い方を変えればそれは長所になるのです。

その個性はもともと持っているものなのですが、ここで問題になるのがそれを使う「人格」です。個性が良いものとして表現できるのか間違った現れ方をするのかはこの「人格」によるのではないでしょうか。

個性というのは生まれ持っている性質で、人格というのは育てることができるものだと思います。

ここで思い出したことがあります。私がプロのバレエダンサーを目指し始めた頃、ある高名なフランス人の指導者のレッスンを受けた時の話です。

ある一連の振り付けを練習していた時に、顔の表情や体の抑揚を表現しながら踊っていたのですが、その人に、「とっても個性があり表現が豊かですね。。。しかし、今は自分の個性を出さないで、しっかりと形だけを練習しなさい。個性は出そうとしなくても出てくるものです。3年間は自分の個性を出すのを忘れて基礎だけを練習しなさい。そうすればあなたは立派なプロになれるでしょう」と言われたのです。この言葉はプロになるまでずっと頭から離れませんでした。今でもそうです。
私はこの言葉を「個性を扱う人格を鍛えなさい。あなたには個性を扱う人格がまだ足りません」というふうに理解しています。

幼児にナイフやライターを持たせては危ないですね。同じように人類が核エネルギーを利用するのにはまだ人格が足りないようです。
持っている力やエネルギーである個性を扱えるだけの人格を育てることが、私たちがやるべきことなのではないでしょうか。

そしてその人格が最期に行き着くところは感謝だと感じます。

ありがとうございます。

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