自己の体験

私たち生命、ありとあらゆるものがなぜ存在するのかについて、ずっと疑問に思ってきましたが、やはり行き着く答えは「自己の体験」になります。
あらゆる存在は自己を体験したくて存在しているのだと。

究極の現実では、存在というのは一体であり、全てであり無であるということになるのですが、それでは自己というものが体験できないので、一体から分離して(本当は一体なので分離していない、だけど分離したと思い込む)、自と他を作り出した、ということでしょう。

私たちの多くは、自分が全体と一体であることを忘れ、自分の感覚に焦点を置きすぎて生きているので、分離感の中で悩み苦しむことになります。
自己を体験するのは喜びなのです。自分である状況を選びそれを乗り越えることで自己を体験する喜びを得るために生まれてきたのに、何のために生きているのかを忘れてしまったのです。

その理由は、私たちが自分の生き方をしないで他人がそうあるべきだとする生き方をしようとしていることにあると思います。
自分がやること、自分がやりたいことをやらないで、他人や社会が求める生き方をしているうちに自分が体験したいことを忘れてしまったのです。
例えば、新聞を読みたいと思い、新聞を取りに隣の部屋に入ったら,皆がテレビを見ているので一緒に見てしまった、ということに似ているでしょう。

自分が何を体験したいのか忘れないためには、過去や未来のあそこに意識を置くのではなく。やはり「今ここ」に在ることでしょう。

「今ここ」に完全に在ることは、体と精神と魂が統合し調和と全体的な存在を自分の中に思い出させます。物理的世界を超え、自身の中に全体性を創り出し、現実の世界で与えられる限りの最高の意義を持たせることになります。人間の体がなぜこういう形なのか、なぜ宇宙を今見えているように見ているのか、なぜ私たちがさまざまな物事で悩んだり、努力をしたりしているのか、全てのことを直接に理解します。全ての存在、宇宙、全てのエネルギーが私と同意になります。私が宇宙に溶け込むと言うのでしょうか。

一滴の水が、「私は水滴だ」「私は雲だ」「私は雨だ」「私は川だ」「私は汗だ」「私は涙だ」などと言っていたのが、海に戻り「私は海だった、そして全てだった」と悟り(差取り)ます。

行き着くところは、自己の体験と生きていることへの感謝。
ありがとうございます。

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