微笑みなさい

微笑み2

微笑みなさい。

微笑みなさい。
怒っているとき、微笑みなさい。
そうしたら、許せるから。

微笑みなさい。
疲れたとき、微笑みなさい。
そうしたら、よくやったと自分を誉められるから。

微笑みなさい。
迷っている人がいるとき、微笑みなさい。

そうしたら、その人は自分を思い出すから。

微笑みなさい。
自信がないとき、微笑みなさい。
そうしたら、自信を取り戻すから。

微笑みなさい。
心配なとき、微笑みなさい。
そうしたら、いいアイデアが浮かぶから。

微笑みなさい。
怖いときに、微笑みなさい。
そうしたら、勇気が出るから。

微笑みなさい。
悲しいときに、微笑みなさい。
そうしたら、涙を流せるから。

微笑みなさい。
寝るときに、微笑みなさい。
そうしたら、一日が輝いたものになるから。

微笑みなさい。
大切な人を失ったとき、微笑みなさい。
そうしたら、その人はあなたのことを心配しないですむのだから。

微笑みなさい。
楽しいときに、微笑みなさい。
そうしたら、周りの人も楽しくなるから。

微笑みなさい。
いつでも、どこでも、微笑みなさい。
そうしたら、世界が輝くから。

微笑みなさい。

そうしたら・・・

 

あるところに子供がいました

あるところに子供が

あるところに、小さな子供がいました。
子供はいつも喜び一杯で遊び回っていました。
子供には不思議なところがありました。
鳥や獣と話すことができたり、子供が笑うと周囲の花が一斉に咲いたり、あるいは、村人が子供の近くにいると、病気が癒され元気を取り戻したりするのです。
なぜそのようなことが起こるのか、誰も知りませんでした。

ある日、子供の父親がたずねました。
「どうしてお前のそばにいると元気が出るのだろうね。」
子供はこたえました。
「いつもカミさまと一緒だからだよ。でも、お父さん、カミさまは一体だれなの。」

父親にはこたえられるべくもなく、村で一番の知恵者である村長さんのところに子供を連れていき、聞ききました。
「うちの子の言うカミさまというのは一体何なのでしょうか。」
村長さんはたいへん困りました。大抵のことはこたえられるのに、このことばかりについては何も知りませんでした。

そこで村長さんは子供を近隣で一番大きな神社の神主さんのところに連れて行きました。
「神主さん、この子の言うカミさまというのは誰なのでしょう。」
神主さんは、ほとんどの神様については知っていましたが、この「カミさま」については知りませんでした。
神主さんは正直者だったので、正直に「私には分かりません。が、ここの神社の神様に聞いてみましょう。きっとこたえてくれるでしょう。」

神主さんは神社の神様に尋ねてみました。
「神様、この子とともにいるカミさまとは何のことでしょうか。」
すると神様は、「う〜ん、私にも分かりかねぬ。わたし自ら大神様に尋ねてみよう」と。

神様が大神様に尋ねにいっている間、皆じっと待っていました。子供はそのうちにじっとしているのに飽きて遊び始めました。
少し経つと、神様が帰ってきて神主さんにこたえました。
「大神様に尋ねたところ、大神様にも分からないとおっしゃる。そして大大神様にも、そのまた大大大神様にも聞いても分からないという。今この間もたずね続けて、神々の中でも最も大いなる神に尋ねているところだ。少し待つがよい」と。

突然、気ままに遊んでいた子供が父親に向かって言いました。

「今ね、カミさまが聞いてきたんだよ。

『ワタシの下の神、またその下の神々たちが、ワタシとは一体何かと聞いてきたのだが。一体ワタシとは何かね。どうしてお前はワタシを生み出したのかね』

って。」

苦しいとき

苦しいとき

あなたは今、苦しいと思っているかも知れません。
辛いと思っているかも知れません。
真っ暗闇の中でもがいているかも知れません。
自分は弱い人間だと思っているかも知れません。
自分は世界で一番みじめだと思っているかも知れません。

しかし、「私」は言います。
あなたの体験がどんなものであっても、それは、あることを思い出すためにあるのです。

それは、

あなたはあなたのままでいい

ということです。

あなたがそのままの自分でいることが、あなたの本当の姿なのです。
実はそれこそが、完全、一体、統合、全て、無、空、さとり、なのです。
あなたは本当の自分を思い出すために今ここを体験しているのです。

苦しいとき、辛いときは、切実に、真剣に、本当の自分を思い出そうとしてください。自分は「そのままでいい」と。

必ず思い出します。

どうしても思い出せなかったら、そのときは「私」が助けます。
「私」がいつでもそばにいて、あなたのことを助けます。

「私」はあなたの家族かも知れません。

「私」はあなたの友人かも知れません。

「私」はあなたの上をたなびく雲かも知れません。

「私」はあなたの耳に届く小鳥のさえずりかも知れません。

「私」はあなたの髪をなびかせるそよ風かも知れません。

「私」はあなたが飲む一杯の水かも知れません。

「私」はあなたがふと耳にする音楽かも知れません。

「私」はあなたが読む一編の詩かも知れません。

「私」はあなたが見る子供の笑顔かも知れません。

「私」は雲の間からあなたを照らす太陽かも知れません。

「私」は軒にたたずむタンポポかも知れません。

 

あなたが切実に本当の自分を思い出そうとするなら、「私」が必ずあなたを助けます。

あなたが必要なときに「私」は必ずそばにいます。

必ず、どうやっても、あなたは本当の自分を思い出すでしょう。

そして、そのとき、

「私」があなただったことを思い出すでしょう。

 

エネルギーのダンス

エネルギーのダンス

私たちは、現実とか世界というのは、自分が世界を認識していて、世界は自分を取り巻くもの、自分とは別のもの分離したものと感じて、ものごとというのは自分で作り出しているのではなく、自分に降り掛かっているようにも感じます。
究極の現実では自分と自分以外のものは常に一体なのですが、そういう風に感じるのが難しいこともあるでしょう。
分離していると感じているので、人間関係や状況の問題の対処がうまく行かなくなることもあるでしょう。

私が習っている合気道では「自由技」というものがあります。相手にある方法で(突いたり、打ったり、掴んだり)攻撃を仕掛けてもらって、それを自由に捌いていくというものです。この練習をしているとき、うまく捌けるときとそうでないときに何が違うのかを考えてみました。
観察していると、うまく行くときは相手と自分の力が結びついて流れがあるときで、自然に一体感のある動きで捌き、相手も何をされているのか分からなく感じるようです。このときは自分も相手も楽しく笑っているものです。攻撃するほうもされるほうも楽しんでいるのです。
うまく行かないときは自分がこう投げたい、こう技をかけたいなどと考え、結局相手と結びつかず衝突してしまっているときでした。お互いにケガをしてしまうこともあります。こんなときは笑いもありません。顔がこわばり懸命に技をかけようと心も体もガチガチです。

これは普段の私たちの生活でも一緒ではないでしょうか。
自分に起こっていることに抵抗したり、無理に動かそうとしたり、自分でコントロールしようとしたり、状況に不平不満を言ったり、人を変えようとしたりすると、うまく行かないものです。大抵の場合、更なる抵抗や衝突を生み出します。
うまく行っているときは、自分がこうしたいというような考えやコントロールをやめ、人や状況と結びつき一体となって流れているときなのです。そこには結果や目的というものはありません。一体感からくる流れの中で楽しんでいるだけなのです。

ものごとや状況と一体となりましょう。人の心と一体となりましょう。すべてと結びつき一体となって流れましょう。

結びつき一体となるには最初は練習が必要かもしれません。しかし、それは結びつき一体になるという練習ではなく、今まで習慣になっていた自我、流れを邪魔している自我をなくす(従える)練習です。そこから生まれる抵抗やコントロールを手放す練習です。あるいは義務感や責任感、抵抗やコントロールを手放す練習です。
新しいことをするのではなく、ただ一体となり、もともと存在していた流れに戻るだけです。気づきだけです。

気づくとそれは、

エネルギーのダンス。

 

 

*合気道が好きな人は以下の動画を楽しんでください♩ 

世界という鏡の使い方

ヴィーナスの誕生・デュバル二枚

私たちの周りでは常にある事象があり、その事象は変化し様々なことが起こります。
自然は変化し、経済社会は変化し、人間関係は変化します。起こったことに対し、分析したり解釈したり、あるいは良いとか悪いとかと判断したりします。ある事象自体が客観的に存在していて、自分がそれをしっかり見ていて、客観的に判断していると考えています。

ニュース、他人の振る舞い、映画、本などを見ながら「断固反対だ」「素敵だ」「かわいそうだ」「最高だ」などと考え、さらに様々な判断や解釈まで付け加えます。そして、それぞれの人がこれらの考えが当たり前だと思っています。すべての人の見方が違うにも関わらず、自分の見方だけは正しいと思っているのです。

ここで提案です。
起こっている事象を「自身の鏡」として使いましょう。
起こっている事象の意味は自分だけがそう考えている、と思うのです。自分の心が映っていると思うのです。
何かを見て「醜いな」と思ったら、鏡の中に映った自分の心を見て「醜いな」と言っていると気づくのです。
何かの出来事に対して「美しいな」と感じたら、それは鏡に映し出されてた自分の心だと思うのです。

自分の周りでいろいろなことが起こっているなと感じている人は、自分の心を見つめる機会が多いということです。
自分が思っていることや感じていることを自分の中に見ようとするのはできなくはありませんが、鏡を見ないで化粧をしようとするくらい難しいことです(慣れれば簡単ですが)。
せっかく状況が自分の心を映し出してくれてるので、どうせならそれを鏡として使いましょう。その時その時の自分の心を映し出してくれているのですから。
物事に対して自分が思ったことは、自分の今の在り方なのです。

世界はなぜ存在するのか?

それは、

あなたが「自分の在り方」を、自分で決めるためなのです。

  

自分讃歌

earth

あなたはこの世でたった一人だけの存在だ。

自分を誰と比べようとしているのか。他の誰になろうとしているのか。
自分以外のものになる必要などない。
他の人をさげすんだりうらやんだりする必要もない。
いつも唯一の存在だ。

あなたはこの世に生まれてきただけで完全な存在なんだ。
生まれたときに自分と世界を祝福しているんだ。
存在そのもの以外に何も義務などないんだ。
この世で体験する魂であって、同時に、魂という体験を設定したより大きな存在なんだ。

体験する魂自体は生まれもしないし死にもしない。変化するだけだ。

自分というのは、その体や、その考えや、その感情ではなく、魂だと気づく。魂には死はない。
そして、魂は自分が魂という限定されたものではなく、もっと大きな存在だと気づく。大きな存在はあらゆる在り方を経験できる。
再び、大きな存在は、自分自身は限定されたものでなく、すべてだと気づく。
すべてという存在もその限定を解き、無となる。

それが究極の真実だ。真実というものは無に行きつく、それが真実だ。

何も無い。限定がとれた瞬間に、本当の自分、本当の生命が始まる。

自分讃歌。

ああ、そうだったんだ。自分はそういう存在だったんだ。

無から始まり、無はすべてを創造する。

そのすべてが自分なんだ。

自我の終焉

自分

私たちが「自分」と言うとき、それは一体何を示しているのでしょうか。

おそらく私たちは「自分」のことを、自分の体、自分の思考、自分の言葉、自分の感情などとして認識しています。
しかし、それらは本当に「自分」なのでしょうか。

実際にこれらについて確認してみましょう。
自分の身体。これは本当に自分の身体なのでしょうか。ずっと自分の身体と思っていたものは実際には消滅し変化しています。身体の細胞はほぼ6ヶ月ごとに入れ替わっているので、6ヶ月前の自分は今の自分とは全く違うものになります。
自分の思考についてはどうでしょうか。生まれたときには何も頭に入っていなかったのに親との接触や教育などによって様々な情報から思考が作られてきました。すべての思考は情報でありそれは自分以外のどこからかやってきたものです。言葉も同じく自分自身が作り出したものは一つもないでしょう。
感情も状況に対する思考の対抗反応です。ある状況に対して共感や反感が生まれるとき感情を使います。これも一つのエネルギー状態を経験しているだけなのです。もちろんこの感情が思考と結びつくと人生がよりドラマチックに感じられるのは事実ですが。

面白いことに、この情報の一つの状態である偽の自分(自我と言っていいでしょう)を、自分の意見、自分の身体、自分の感情などと同一化してしまうと、これらの自分の意見、自分の身体、自分の感情といったものを他者から否定されると、自分の全存在が否定されたと思い、怒ったり、憤ったり、悲しんだりします。自我が強い人ほど「いや、でも、しかし」という言葉が多く、議論好きで、不平不満を言う傾向にあります。これは過去の経験による思考と感情が固着したエネルギーブロック(一種のトラウマ)ができていることによります。

しかし、この同一化をやめしっかり観察してみると、これらの「自分」は体験の道具でしかなく、本当に体験しているのはそれより大きな存在の真我なのです。これに気づくとすべてが解放されます。生き方に調和があらわれ、今ここに生きるようになります。

様々な宗教や精神世界で「悟り」と言われるものは、この本当の自分と自分だと思い込んでいる自我をしっかりと見つめることなのです。自分の思考は自分ではないと観察し、自分の体は自分ではなく常に変化しているものであると観察し、自分の言葉は常に変化する情報でしかないと観察することなのです。「本当の自分」とか「真我」と言われるものはこの観察者なのです。それは探したり作り上げたりすものではなく、自我をしっかりと見つめたときに初めて起こること、つまり何かをやめた途端に現れるものなのです。もともと存在していたものを改めて確認することなのです。あることをやめた途端に現れるものなのです。

すべての答えは常に自分の中にあるのです。これまでも、これからも、ずっと自分の中に存在しているのです。
自我というものが終わったとき、自我が見ようとしなかった本当の自分の姿が現れるのです。

それは、ただただ起こるのです。

薄い財布

小さい財布(ブラック)

日々、所有物をミニマル(最小限)にしようと考え、部屋の中のものを減らし続け、ほぼ落ちついてきました。続けていくと、今度はミニマルな量の所有物それ自体がミニマルかどうかを考え始めます。
例えばボールペンは一本にしぼったが、それが4色ボールペンであったとき、それが本当にミニマルな機能であるかどうかを考え始めます。自分が2色しか使わないのなら2色ボールペンに変えることになるでしょう。高機能のデスクトップパソコンを使っていて、普段使用するソフトがメールとgoogleだけだったら、次回買い替えるときは小さなラップトップで十分になるでしょう。
このように、ミニマルな量の物自体がミニマルな機能なのかどうかを判断することになります。
いろいろなものを余計な機能がないものに変えてきましたが、いつも使っている財布が気になり始めてきました。今使っている財布はイタリア製なので、日本製の財布より一回り小さめで札がぴったりと収まり無駄なスペースがなく、とても気に入っていて大事に使っています。もちろん財布にはカード入れがついていますが、この財布とは別にカードケースに財布に入りきらないカードを入れ持ち歩いています。
このカードケースには免許証、保険証、PASMO、図書カード、体育館のカード、その他、ショップのポイントカードなど、20数枚を入れています。

最近、どうしてもこの財布とカードケースを一つにまとめられないか、財布自体ももっとコンパクトにできないか、それをポケットに入れて持ち歩けるようにできないか、と思っていました。

そこで見つけたのが、薄い財布 abrAsus(アブラサス)です。

小さい財布

カードは最小限に使う5枚ほど入ります。無駄なものを持たない買わないことが習慣になると、目的のない行動をしなくなるので持ち歩くカードもほとんど必要がなくなります。免許証とキャッシュカード、PASMO、その他習慣的に使うものだけになります。
小銭も最小限の999円を入れるスペースだけがあります。500円玉一枚、100円玉四枚、50円玉一枚、10円玉四枚、5円玉一枚、1円玉四枚です。支払いのときに、釣り銭が最小限になるように気を使わなければなりませんが、それがまたいいなと感じます。

今まで財布とカードケースの2つを持ち歩くため、小さなバッグに入れ持ち歩いていましたが、この「薄い財布」にすればポケットに入れて持ち歩けるので、さらにミニマルになるでしょう。

他に「小さい財布」というのもあります。こちらもおすすめです。

もう一度(ある在り方の物語)

PIG

ボクは、自分が生まれる前のことは全然覚えていなかった。
カミさまが教えてくれるまでは。

ボクが生まれたのは田舎の農家だった。6人兄弟だったので、生まれて数ヶ月で別の人のところに引き取られた。
引き取ってくれたオジチャンとオバチャンは、とても親切で、しっかりとボクを育ててくれた。
オバチャンはブラシをよくかけてくれた。最初は何されているかわからなかったんだけど、だんだん気持ちよくなってきて、ブラシを見ると眠たくなるようになってしまったくらい。
オジチャンは毎日体を洗ってくれた。ボクがきれい好きなことを知っていたのはオジチャンだけだったからね。
カミさま、あなたも知っていましたね。

時々、もうこれでもか、っていうくらいご飯を食べさせてもらった。まわりのみんなが過保護だって言うくらいにね。
オジチャンとオバチャンは、ボクがポッチャリしているのがいいって、いつもそう言っていたから、ボクはたくさん食べて寝て、時々走りまわって、それからまた食べて寝てってやっていたな。
二人が喜ぶ顔を見るのは、ボクの喜びでもあったな。
カミさま、あなたも喜んでたって言っていましたね。

オジチャンとオバチャンに引き取られて数年たったころ、ボクのうちに初めて見る人が来たんだ。オジチャンと話しているのを聞くと、引き取るとか引き取らないとか、いつ出るとか出ないとか、どうもボクの話をしているようだった。
その夜、オバチャンがボクの寝床に来て泣いていた。ボクは寝た振りをしていたけれど。オジチャンは、その日から無口になった。それまでたくさん話を聞かせてくれていたのに。
カミさまの話を聞いて、やっとその理由がわかったよ。

その日は突然やってきた。そろいの制服を着た三人の男の人が入ってきたんだ。ボクを車に乗せようとして、いやがったらボクの耳を引っ張って、お尻を押して。ボクは感情が麻痺しちゃったな。カミさまなんていない、って思ったよ。
カミさま、あなたも、「カミさまなんていないよ」って言っていましたね。

他の仲間と一緒に並んで、機械がある部屋で、意識がなくなったと思ったら、意識が体から離れてしまって、ボクはボクでなくなっちゃったな。
ボクの体は血を抜かれて、バラバラにされて、もとの形がなくなってしまった。
袋に入れられた体を見たときは、ボクは自分が生きていた意味なんてないって思ったんだ。
カミさまも、意味なんてないよって言っていましたね。

仕方ないから、ずっと自分の体の行方を追っていたけど、どこかのお店で、袋から出したボクの体を料理して、お皿にのせて出していたんだ。
そしたら、家族がそこにいてね、ボクのオジチャンとオバチャンに似た人たちだったかな。
その中の女の子がボクのことを食べながら言ったんだ、

「おいしいね、おいしいね」

って。

それを聞いたとき、ボクはパアッと広がったんだ、宇宙に溶け込んだみたいにね。
それで、一瞬にして思い出したんだ、自分が生まれる前のことも、生まれた理由も、すべての経験の理由も。

カミさまは、それはボクが「消化された」って言っていた。
違ったかな、「昇華」だったかな。
カミさまの言うことは難しいから、時々分からなくなっちゃう。

それでカミさまは「今回、この生き方を選んだね。すべて自分で選んでいたんだよ。どんな在り方でも選べるよ。次はどんな在り方を選ぶのか」って。

ボクは言ったんだ、

「カミさま、もう一度 豚がいい!」

 

その瞬間、ボクは光になった。

光

老子超訳(第四十章)

有生於無

前に進もうとするのではなく、反対に自分自身の内面に戻ることが『道』の動きである。
強く逞しくなろうとするのではなく、弱く柔軟になることが『道』の働き方である。
万物は「有」という形のあるものから生まれてくるが、
その「有」は「無」という形のない『道』から生まれてくるのだ。

形にとらわず柔軟であること、
そして、自分の内面にもどる、
それこそ、一体である『道』の在り方なのだ。

 

原文
反者道之動,弱者道之用。天下萬物生於有,有生於無。