シンプルに食べる

最近は、料理番組やグルメ番組が流行り、街には様々な種類の飲食店が建ち並んでいます。スーパーにはあらゆる種類の食品が並び、インターネットでも時間や場所を問わずどんなものでも手に入れられます。様々な商売・産業が、美味しいものを食べることを求めている人をターゲットにしています。
しかし、このグルメ市場はもう終わりだと感じます。

食事というのは命を頂くこと。動物や植物の命を私たちが頂いて生命を維持しているということ。
多くの人が、このことを思い出し始めています。美味しいもの(前頭葉を刺激するもの)をより多く食べることが、様々な問題を引き起こしていることに気づき初めています。

多くのモノで溢れた部屋と同様、余分な量と余分な味付けの食事は、様々な問題を引き起こします。部屋が掃除ができなくなり、ゴミ・汚れ・ホコリ・臭いで一杯になるように、体も同じように余分なものが溜まり、心臓疾患や脳卒中、鬱や不安、その他様々な問題を引き起こします。

シンプルに食べる、自分に必要なものを必要な時に食べるのがよいでしょう。余計なものを食べなくなると、今の自分に合った栄養を含んだ食事というのが分かってきます。自分の体内センサーがしっかりと働くようになります。生命エネルギーに乏しい食事をしなくなるでしょう。刺激だけの炭酸飲料やジャンクフードから離れるでしょう。加工された食品も本当に美味しいとは感じられなくなります。
そして、食事というのは食べる「モノ」ではなくて、自分の命を支えてくれる「命」だと理解します。

食事は授かり物です。以前に生きていた命を頂いているのです。
食事は私たちがその後に生きるための生命エネルギーを供給してくれているのです。
ですから、食事をするときは、命に対する感謝の気持ちと同時に、その頂いた生命エネルギーを大切に有意義に使おうという気持ちが湧いてきます。

シンプルに食べることは、自分自身を大切にするだけでなく、生命全体をも大切にすることになるのです。

ありがとうございます。

シンプルな方法
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モノが少ないことのメリット#4:電気を使わない

モノで溢れていた以前の私の部屋と比べると、現在の部屋は全く異なった空間になったのはすぐに分かります。それはモノがなくなったからに他ならないのですが、もう一つ少し経ってから気づいたことがあります。それは電気代が安くなったということ。つまり電気使用量が減ったということです。

私の以前の部屋に限って電気を使用していたモノを挙げてみると、次のようになります。

テレビ,エアコン、パソコン(数台)、CDプレーヤー、スピーカー,プリンタ、蒸留水器、部屋の電灯(電球5つ),デスクスタンド。
ノートパソコンの充電、携帯電話の充電、Bluetoothイヤフォンの充電、カメラの充電、ICレコーダーの充電、電話の子機の充電、電子辞書の充電(4台)、iPodの充電、テレビの待機、CDプレーヤーの待機、プリンタの待機。

今思いつく限りではこれだけですが、まだ他にもあるかも知れません。
こう見てみると、現代社会は電気がないと成り立たない社会になっているのが実感できますね。

これらのうち減らしたのは、
パソコン3台、CDプレーヤー、ICレコーダー、電子辞書2台、電灯3つ、そして、全ての待機電力。

不要なモノを処分したことで、電気を使うモノがなくなるので、これらの電気代がかからなくなり、無駄なエネルギーを使わず環境にも良いです。また、いやいや使っていた電気機器を気に入ったものに取り替えることで、ほぼ新しく購入した製品は消費エネルギーの少ないものになります。
さらに、スイッチ付きタップを使っているので、待機電力はゼロです。

おかげで以前と比べると電気代はかなり減りました。

大抵の家庭では、機器の充電や待機電力でかなりの電気を使っています。不要なモノ、電気機器を処分することは、財布にも地球にもやさしいことなのです。
エネルギー不足の現代にぴったりの方法ではないでしょうか。

 

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

自分で決めたことを自分の力でやり遂げる

私が大切にしていることの一つに、「人から言われたことではなく、自分で決めたことを自分の力でやり遂げること」というのがあります。
一見してみると、人から言われたことも、それが有名人や実力のある人の言葉なら素直にやって、実際それをやり遂げればうまくいくのではないかと思うのですが、どうもそれではだめなようです。

これは私が医学部受験や英語、ヨガやバレエの指導をしてきた上で分かったことなのですが、生徒にアドバイスをすると「はい」と受け答えをしそれを実行しているだけの人はあまり成長がないのですが、逆にあまり言うことを聞かなくても、自分でテーマを見つけ、あるいは私が何気なく言ったことから自分なりの課題を見つけ実行していく人が伸びているのです。

生徒たちを観察していると、彼らにとって教師としての私は、学ぶ模範としてではなく、自分の課題を見つけるきっかけとして存在するということです。自分の問題点の鏡として利用していると言っていいでしょう。ですから、何か問題点を指摘されてそれを直すことよりも、自分の問題点を自分で見つけ、それを解決していくことに集中しているのです。

これに反対する人もいるでしょう。他人が正確な指摘をしてそれを修正していく人は伸びているのではないか、と。確かに、一時的にはそう見えるかもしれません。しかし、長い目で見ていくと、その人は自分で自分の課題を見つける習慣がなくなり、結局自分で考えることをしなくなります。

もし他人が指摘したことを実行しても、大抵、それは自分の課題としてとらえていないことが多いので、空回りな行動をしたり、嫌になったり飽きたりします。

もちろん、他人が指摘したことが自分の課題としていたことと一致すれば、それは真の成長になるでしょう。

このことは、モノとの関係と密接に結びついているのではないでしょうか。
自分が所有すると選んだモノに囲まれている時は、喜びの中で生きていますが、他人の価値観によって所有したモノに囲まれている時は、おそらく不要なモノ、無駄なモノだらけになるのではないでしょうか。

不要なモノを処分していくと、このことがよく分かってきます。自分が本当に大切にしているものを選び所有することは自分の成長につながるのです。逆にマスコミや他人が持つべきだとするモノに囲まれていると成長できなくなります。
他人にどう見られるか、どう思われるかを気にするのではなく、自分が自分をどう思うかが大切なのです。そして自分で決めたことを自分の力でやり遂げることが、成長になるのです。

自分の周りのモノを見つめてみましょう。それは自分が本当に選んだモノですか。他人の価値観で所有していませんか。そうであれば手放しましょう。
また、自分の心を見つめてみましょう。今考えていることは自分で選んだ思考ですか。他人の価値観をそのまま自分の価値観だと思っていませんか。そうであれば手放しましょう。

この人生は、他人の価値観を生きるためにあるのではないのです。自分が決めたことを自分で経験していくためにあるのです。「自分の決めたことを自分の力でやり遂げる」ことが、自身の成長になるのではないでしょうか。

シンプルに話す

私たちの生活の中でも高度なコミュニケーションの方法が話すということです。

自分がどんな言葉使いをしているのか観察したことがある人は、あまりいないのではないでしょうか。おそらく話すことを職業とする人くらいでしょう。

不要なモノを手放すことと同じように、不要な言葉使いというものを、一度は考えてみるとよいでしょう。

モノを処分する時、最初はゴミを捨てるところから始まりますが、言葉使いについても捨てるべきゴミ同様のものがあります。

その捨てるべき言葉使いは

1、嘘、偽り。

2、陰口、二枚舌。

3,悪口、誹謗、中傷。

4、無駄口、噂話、世間話。

例えば、言葉を相手に与えるプレゼントだと考えてみましょう。

嘘、偽りを与えるでしょうか。正直さ、誠実さのプレゼントのほうがよいでしょう。

陰口,二枚舌、悪口などより、尊重する言葉、和解の言葉、友好的な言葉使いが役に立つのではないでしょうか。

噂や世間話は、無駄以外の何者でもありません。

上の4つの言葉使いを手放すだけで、どれだけ話の内容が深い意味を持ち、どれだけコミュニケーションを調和へ導くか分かるでしょう。不要な言葉使いを手放すだけで、話す言葉が意味のあるものとなり、真実を表現するものになります。本当の自分の考えや意思に近づくものになるのです。

 

シンプルな方法
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モノが少ないことのメリット#3:モノを探さなくてよい

ある調査によると、私たちは探し物に一日に10分ほどを費やしているそうです。

探し物をすると、仕事を中断しなければならなかったり、予定がくるったり、あるいはそれが原因で人とトラブルになったりする場合もあります。

やはり原因は、その探し物をおいて置くべきところに置いていなかったり、他のガラクタに埋まって見つからなかったり、というところにあるようです。

これまで書いてきたように、不要なモノを手放して、持っているモノは在るべき場所に在り、家の中の表面(床面、机面、壁など)には何も置かないというシンプルライフを実行していると、モノを探すのが楽どころか、モノを探すという行為さえ要らなくなります。

まず、モノを置くべきところに置いていないとすぐに気がつきます。何もない表面に何か置き放しだとすぐ分かります。ですから探す必要が在りません。

ガラクタがないので、その中に埋もれることもありません。

私の極端な例ですが、以前膨大な量の本を所有していた時、1つの本やCDを探すのには積み上げられたダンボール箱を下ろすことから始まりました。探しているものがどのダンボール箱の山にあるのか見当をつけて下ろして開けてみます。そこになかったら次のダンボールを開けてみます。運がよいと4箱目くらいで見つかります。運が悪いと数十箱を下ろして開けてみなければなりません。その間に手も服も真っ黒になります。舞い上がったホコリを吸い込みます。腰も痛み始めます。

本やCDを探すのに不便を覚えるたびに、ダンボール箱の中から本やCDを選びなおし棚に並べます。しかし、また次に探すときは同じことの繰り返しです。

現在は、シンプルライフの基本を守り、表面には何も置かないので、探し物は全くしません。

モノが少ないと本当にいいことばかりです。

 

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

シンプルに考える


モノとのシンプルな関係がモノを手放すことから始まるように、「シンプルな考え」も不要な考えを手放すことから始まります。
不要なモノといのは、そう判断するのも手放すのも、目に見えるので比較的簡単に分かります。置きっ放しとか、ホコリが被っているとか、目に見えるので比較的楽に判断ができ手放せます。モノを手放すことが進むにつれて、自分とモノとの調和した関係ができてくるのです。
モノとの調和した関係ができれば、考え方も調和したシンプルなものになるのですが、一体そこではどんな考えや思いを手放していくのでしょうか。

不要な考えとは次のようなものです。

1、怒り。
もしもこの怒りというのが目に見えたら、かなり強烈でしょう。暴れて部屋中を打ち壊している感じです。頭の中はグチャグチャになっている状態です。これは片付けや整理整頓以前の問題ですね。手放したほうが良いでしょう。

2、先入観、偏見、決めつけ。いろいろなものがありますが、そのような種類の考えです。
例えば、他人が何かを持っているから自分もそのモノを持っているとなると、それは使わずに部屋や倉庫でホコリを被り、私たちの住居を汚すことになります。
同じように、先入観や偏見は実際の状況から離れた考え方なので、使えない考えなのです。私たちの頭の中の不要なゴミとなってしまうのです。これを手放せば、私たちの頭の中はスッキリします。

3、過剰な欲求。
あれもしたいこれもしたい、あれも欲しいこれも欲しい。モノと同じように考えというのは私たちの心の部屋に置かれます。いろいろなもので埋め尽くされている部屋では様々なモノに注意が移り、落ち着かないように、過剰な欲求は頭の部屋でも調和を失い、自分が何をしたいのかが見えなくなります。

4、不平、不満。
自分が作り上げている状況を他人のせいにする、被害者意識です。モノが不要だと知りながら手放さない人です。そして自分が変われないのもモノのせいにする人です。何も進まない考え方です。決心して前に進みましょう。

5、憎み、恨み。
モノで例えると、部屋がモノで溢れているというよりは、「ゴミ」で溢れている感じでしょうか。そしてそのゴミを他人の部屋に投げ入れる行為です。

6、後悔。
不要なモノを捨てないで、捨てられない理由を無理に考え出しているようなものです。大切なことに注意を向けられなくなります。捨てましょう。

7、ためらい、躊躇。
モノを使うかも知れないと取っておく行為と同じ。結局無駄になります。次のステップに進みましょう。

ここに挙げた考え方を手放すと、次第にシンプルに考えるようになるでしょう。
シンプルな考えもモノと同様に手放すことから始まります。

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モノが少ないことのメリット#2:お金がかからない

所有するモノを少なくすることでメリットの中で、まずどんな人も挙げるのは、お金がかからないということです。

所有するものが少ないというのは、モノをなるべく増やさない、つまりなるべく買わないということです。モノを買うのにはお金がかかります。その買うのに使うためのお金がそのまま残るのです。

かつての私は、本やスポーツギア、靴や衣類などにお金をかけていました。本代は毎月約20万円、ゴルフセットは何セットも購入し、靴や衣類は数回身につけたら買い替えていた始末です。

今は本代はほぼゼロ、洋書はAmazonのKindle版が1冊数百円くらいで購入できるのでお金もかからず、パソコンに入っているので場所も取らず、ブックオフに売りにいく必要もありません。ゴルフは性に合っていないのできっぱりやめました。今は合気道に励んでいます。靴は普段は黒を一足と茶を一足、トレーニングとサッカー用に一足ずつ、これらを大事に履いています。衣類は一年を通して、ズボンが4着、半袖シャツが5着、長袖シャツが4着、上着(ダウンも含めて)5着ほどです。仕事もプライベートもデートも飲み会も買い物も、どんな時でも全て同じものを着ています。かつて使っていたお金がかからないので、本当に助かります。

また、モノが多くあると、それを管理したり維持するためのお金がかかります。

例えば自動車を所有していると、保険や税金、駐車場代やガソリン代などがかかりますが、2台以上持っている人が1台にするだけでも、かなりのお金が節約できます。

衣類はクリーニングが必要なものはクリーニング代がかかります。

最近ではモノを保管するためのレンタル倉庫を借りている人も多いでしょう。レンタル倉庫は毎月5000円とかあるいは1万円以上かかります。モノを少なくするだけで、これらの余計なお金がかからずに手元に残るのです。

パソコンを1台持っているだけで周辺機器やそれを使うための電気代やインターネットへの接続料などがかかります。

モノというのは、それを買うお金、維持費や管理費、使用料や処分料などがかかるのです。モノを減らすとそのものに伴った余計なお金がかからず、その分お金が貯まることになるのです。貯まったお金はより重要なものに使うこともできます。

考えてみれば単純なことなのですが、自分はお金が貯まらないと思っている人がいたら、自分が不要なものを持っていないか、それにどのくらいのお金がかかっているのかを検証してみてください。モノを少なくすることが、どれだけお金を節約できるかが分かるでしょう。

 

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

モノが少ないことのメリット#1:掃除が楽

整理術や片付け術などでは必ず言われていることですが、不要なモノを手放して床や机などの平面からモノがなくなると、掃除が本当に楽になります。

モノがあると、例えば掃除機をかけるにしても、そのモノを移動して掃除をしなければなりません。またモノ自体も別個に掃除しなければなりません。掃除の後には再びもとの位置に戻す手間もかかります。
私の場合は、以前部屋がモノで溢れかえっていた時、まず掃除さえしませんでした。掃除をすると恐ろしく気が滅入るからです。本が詰まったホコリだらけのダンボールの間には掃除機のヘッドが入らないので、掃除をあきらめるか、重いダンボールを一つずつ下ろし移動してから掃除するしかありません。本が詰まったダンボールはとても重いのです。15キロとか20キロ、ダンボールによってはそれ以上の重さです。これを何十個も移動したらかならず腰を痛めます。

タンスや机の上などは、小さな置物や香水、ビタミン剤やカップなどで一杯で、それを移動しないと掃除などできません。本棚の上には使わない袋類やバッグなどが覆い被さり、触れると落ちてきそうなので触ることさえできませんでした。

したがって、私が掃除をするのは、ひどいときは大晦日に1回と、汚くて我慢ができなくなる頃に1回の、合計2回くらいしかしませんでした。普通の掃除に何時間もかかるので全くやる気が起きませんでした。当時、親しい友人からは、私の部屋に入ると靴下が真っ黒になるからスリッパを出してくれと言われたり、他人が部屋に入った途端くしゃみをしだすほどでした。

今では、掃除機をかけるのは2分で終わります。簡単に終わるので家にいられる時はほとんど毎日掃除しています。床や机や棚の上には何も置いていないので、モノを移動する必要もありません。ウェーブ ハンディワイパーで一拭きです(^^)。

 

人それぞれ持っているモノや収納の仕方は異なるでしょうが、やはりモノの量が多いと掃除が大変です。モノが少ないと掃除が楽になり、掃除ももっと行き届いたものになります。また掃除の時間が減るので、より大切なことに時間をかけることができます。
モノが少ないと本当に楽です。

私はこれを身をもって体験しました。

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私たちの社会はモノや情報で溢れかえり、自分たちの環境を正面から見ることをあえてさせないようになっています。ちゃんと見てみると異常なことは一目瞭然なのですが、スッキリした社会になると一時的に損をする人たちがこれをさせないように脅したり刺激したりしています。

私たちの家の中も余分なモノで溢れ、そのグチャグチャな環境を見たくないので、敢えて考えない習慣がついていました。

しかし、不要なモノを手放し周囲がスッキリとしてくると、モノの一つ一つの性質が見えてきます。これまで見ようとしないで避けてきた状況を見ようとする態度ができてきます。そして、モノの在り方が見えてくると同時に、今まで習慣的に行ってきたことや考えてきたことにも違った光が当てられます。

これは何のためにここに在るのか。これを所有し使うことは私たちにどんな影響があるのか。なぜこれを持っていたいのか。これはここにあるのがベストなのか。そのような疑問が自然と湧いてきます。

おそらくこの辺りでは、使っているモノや必要なモノが手元に残っているのが一般的でしょう。しかし、ここで質問です。

使っているモノは手放さないほうがよいのか。

自分から見たら、使っているモノは確かに持っていて良いはずです。でも、その自分が使っている理由は何でしょう。必要のない欲求からそれを使おうとしていることはないでしょうか。

この段階にくると、自分の視点およびモノからの視点を超えて、自分とモノとの関係性が何によって成り立っているのかが見えてきます。

私の場合は、持っていたいと思っていたはずのモノに対してある違和感を感じ始めました。頭ではそれを持っている完璧な理由がきちんとあり、それを計画的に使っているのですが、どうしても気持ちの中に嫌なムズムズ感というのでしょうか、そういう感覚があるのです。考えている頭と心が、あるいは頭と体が一致していない感覚です。理性的な観点から見て正しいと思っていたことが、心の奥底ではそうではない、あるいは体そのものが否定しているのです。

私は違和感のあるモノは手放しました。頭では持っているべき理由だと思っていたのは、欲求が作り上げた「理由」と名付けられた「言い訳」なのです。人の持っている価値観や理由というのは、過去の経験を材料にして頭の欲求が作り上げたものです。そこから見た今ここは純粋に経験することができません。現代の多くの人の生活に現れているように余計に物事を複雑にします。

理屈を手放し、心の目で物事を見るようになると、敏感なセンサーがきちんと機能し始めます。その時の状況に調和した見方ができるようになります。自分と自分以外とが一体となった見方になるのです。物事を一瞬にしてシンプルに見ます。

モノを手放すことは、そのようなことにもつながっているのではないでしょうか。

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モノ以外も手放せます

モノを手放すことは、どれほど大きな意味を持っているのでしょうか。

私のように本に執着していたのは、そこに固定された行動、パターン化された心の状態が守れる、といった一種の安心感があったからだと思います。周囲の状況がどんなに変化しようが、自分のパターンの中からはずれなければ心が乱されることもないし、心が乱されそうになったらいつでも本を読んでそこに没頭することで安心感を得られるのです。

しかし、もちろんそこには本当の安心感などありません。世界に関わらずに、つまり自分の世界、経験を広げずに、自分を偽って生きているのです。モノを手放せない人はそこに偽の安心感を見出そうとしているのです。

なぜモノを所有することで安心感を得ようとするのでしょうか。 モノというのは人がこの世で一番コントロールできる(と思い込んでいた、あるいは社会がそう思わせていた)からではないでしょうか。いつの間にか、あなたはこれこれを持っていると安心ですよ幸せですよ、と思い込まされていたのです。そしてその誰かが言った幸せを得るためにモノを持つことに夢中になってしまったのです。

モノの所有というのは、コントロールできないものをコントロールしようとすることであり、コントロールできない現実からの逃避であり、思考の固定化であり、そして、自分の成長や変化を妨げるものなのです。

そういったモノを手放すことによって、あるいは預かりモノとして大切にすることによって、その他のことも手放し始めます。後悔や期待、先入観や偏見、ルールやコントロール、主義主張などを手放し始めます。毎日毎日が、一瞬一瞬が、生き生きと感じられ、一体感と調和の中で生き始めます。

モノを手放してみてください。手放しながら自分の心の変化を感じて、自分の固定した心があれば見つめてみましょう。うまく行くときも行かないときもあるでしょう。
しかし、続ければ続けるだけ自由と生き生きとした感覚を得られるでしょう。