マザー・テレサの祈り

マザー・テレサは毎朝仕事を始める前にお祈りをしていたそうです。
おそらく次のようなものだったと感じます。

「神様、この体と心と魂を人々のためにお使いください。」

マザー・テレサは祈るとき、自分が何かをしたいとか、神に何かをして欲しいとか祈ったのではなく、自身が神と一体となって人のために働いていると感じ、それに感謝していたのではないでしょうか。自分は今ここで感謝の中にあるという宣言をしていたのではないでしょうか。
マザー・テレサは「今ここ感謝」を真に理解していた人であったと思います。

以前、私がお世話になったヨガの先生のグループがインドに行き、マザー・テレサが行っている仕事を手伝う機会がありました。数日間手伝ったらしいのですが、毎日の仕事は想像以上にキツいものらしく、その先生のグループの皆が半日でバテてしまい,毎日最後まで手伝いができたのはそのヨガの先生一人だけだったそうです(この先生は特別にエネルギッシュなひとです)。腰の曲がった老齢の女性が、これだけの仕事を毎日こなすのは、やはり自我が生み出す以上の力があったからだこそ可能だったと感じます。

人間は、心が清明になり行動が正直なものになってくると、そこには「私」とか「自分」とかという主語は無くなり、全てに対して調和した「私たち」という言葉が出てくるのです。その時のエネルギーは自分が持っている以上のものになり、周囲のエネルギーと調和し、人々の喜びや苦しみを自分のことのように感じ取り、世界で起こっていることを我がことのように経験するのです。

生きていることは、自分で生きているのではなく、生かされているということを理解し、生きていることへの『感謝』に至るのです。
これからの時代は、その「今ここ感謝」の時代です。新しい時代の在り方です。
マザー・テレサはその新しい時代の在り方を先取りしていた人でしょう。

「今ここ感謝」、それが普通になる時代です。
「今ここ感謝」は新しい時代の在り方です。

ありがとうございます。

与えたものだけが与えられる

最近の書店を見ていると、売れている本が変化してきた気がします。大震災後の生き方について考えを見直そうと促したり、エネルギーや自然についてだったり、幸せとは何かを考えさせるタイプの本が目立ってきたように思います。

しかし、以前からあるような、「思考は実現する」、「引き寄せの法則」、「ポジティブ思考」、「能力開発」、「成功法則」、「~する技術」、「~ハック」などのビジネス書は,ただタイトルをより個性的なもの変えているだけのようです。

これらの本を読んでみると、大部分に、最低限のことをしてそれよりはるかに大きな結果を得る、一人勝ちする、他人より先んじる、自分だけ得する、というような不自然な考え方を感じます。

10の努力で100の結果を得ましょう、最低の投資で大きな配当を受けましょう、一か月の練習で5年分の技術を身に付けましょう、そのような発想です。

しかし、この世界というのは感謝の中で注いだエネルギーの分しか結果は得られません。アスリートや職人,芸術家や作家などのような人にはよく分かるでしょうが、結果というのは注いだ分しか出てこないのです。1km走るための練習では。10km走ることはできません。10km走るだけの練習が必要なのです。エネルギーを注いだ分だけしか結果は出ません。

それは自然なことなのですが、人は今ここ感謝から離れたり、好きでないことをしていたりすると、その自然なことを忘れてしまい、自分の力を注いだ以上の結果を要求し始めます。しかし、後で気がつくのですが、不自然な要求が通った場合はしっぺ返しが来ます。自分の生命が削られているのです。

感謝の中に在るともっともっと自分の力と愛情を注ぎ込もうと思いますが、しかし、不自然な「もっともっと」は、注ぐ力を増やさずに結果だけを増やそうとします。それはうまくは行かないので、必ずどこかで気が付きます。

時には、あまりに感謝から離れていると、気付きが遅れ、占いやパワーストーン等,自分の努力とは関係ないものに頼ろうとします。それで幸せになることはないでしょう。楽にあるいは幸せになったように見える時でも、それは結局見えないところで自身の感謝を弱め、生命力を削ります。最期の最期に分かります。

唯一、感謝の中で注いだ行為が実を結びます。10の力を注いだら10の結果です。それ以上でもそれ以下でもありません。

結果は求めるものではありません。
結果は出るものです。

では、感謝したらどんな結果が得られるのか、って?

それは、いつでも感謝の状態にいられる、という最高の結果です(^^)
自分が与えたものだけが、結果として出てくるのです。

ありがとうございます。

毎瞬が感謝

朝起きてから、今ここ感謝に在るのを前提に行動していくと、不思議なことが起きます。

例えば、私の一日で見ると、
朝、目が覚め、今日新しく生まれたことに感謝。
太陽に感謝。
空気に感謝。
水に感謝。
朝まで体を休ませてもらったベッド、布団や枕に感謝。
トイレに感謝。
上下水道に感謝。
洗面所に感謝。
感謝できることに感謝。
一分間、自身の存在全体で感謝。
朝ご飯を食べられることに感謝。
お米に感謝。
お米を作ってくれている人に感謝。
お米に関わる人全てに感謝。
納豆に感謝。
サラダに感謝。
おいしくて感謝。
おかずに感謝。
コーヒーに感謝。
新しい報道を提供してくれる新聞に感謝。
同じくテレビに感謝。
社説を音読できることに感謝。
IPadに感謝。
Macbook Proに感謝。
部屋に感謝。
部屋を掃除できることに感謝。
歯ブラシに感謝。
ひげそりに感謝。
ドライヤーに感謝。
仕事場に連れて行ってくれる車に感謝。
目的地に行ける道路に感謝。
行き交う車に、人々に感謝。
車の中でヴォーカルトレーニングができることに感謝。
仕事に感謝。
生徒に感謝。
人間関係に感謝。
仕事を一生懸命できたことに感謝。
様々な気持ちを味わえることに感謝。
経験が成長になることに感謝。
昼食を味わいながら感謝。
移動するのに使う自転車に感謝。
トレーニングジムのスタッフに感謝。
トレーニング器具に感謝。
合気道に出会えたことに感謝。
合気道の仲間に感謝。
様々なことができる自分の体に感謝。
水に感謝。
爽快感という感覚に感謝。
再び人間関係に感謝。
シャワーに感謝。
水に感謝。
清潔な衣服に感謝。
自分が恵まれていることに感謝。
ホッとできることに感謝。
仕事に使うパソコンに感謝。
それを通じて得られる情報に感謝。
大切な人に感謝。
大切な人がそばにいることに感謝。
自分が幸せで在ることに感謝。
日本の入浴という習慣に感謝。
文章が書けることに感謝。
ブログを読んでくれる人に感謝。
インターネットに感謝。
いつも適切なアドバイスをくれる友人に感謝。
自分が今ここにいることに感謝。
家族に感謝。
生きていることに感謝。
これまで支えてきてくれた人に感謝。
先祖に感謝。
先祖の大切さを教えてくれた叔父に感謝。
直截的、間接的に自分に影響を与えたあらゆるものに感謝。
感謝によって全ての本質が垣間見られたことに感謝。
自分が気付いていない感謝の対象に感謝。
今日一日感謝でいられたことに感謝。
全てに感謝。
自分に感謝。
今ここに感謝。

有り難うございます。
全ての前提が感謝になり、その在り方から生まれる行動や状況が全て感謝の対象になります。
いつも奇跡の瞬間を過ごすことになります。

ありがとうございます。

モノが少ないことのメリット#5:見本を見せられる

私が人間の研究を始めてから何年も経ちますが、その間多くの本を読み、多くの人の話を聞いてきましたが、ほとんどの本や人が「モノを所有することには幸せはない」と言っています。
しかし、そう言っていながら、私も含め多くのモノを所有している人がほとんどでした。

私が仕事上で多くの家庭で観察してきたことの一つに次のことがあります。
親があることを言葉で教えていることを実際に親自身が実行していない場合、その子供が親から受け取るメッセージはその言葉の内容ではないのです。一方では良いことを言いながら他方では言葉で言ったことと違うことをしても良い、というメッセージを受け取るのです。子供はそれを真似します。
これと同様に、私たちが何かを伝えようとする時、人に伝えているメッセージはその言葉を発している人の生き方そのものなのです。

不要なモノをたくさん所有しながら「モノを所有することに幸せはない」と言っている人が周囲に発信するメッセージは、「私は嘘をついています」というメッセージにしかならないのです。特に子供たちに対しては。

モノを所有することには幸せはない、というメッセージを伝えられるのは唯一、自身がモノを所有しないで幸せであることなのです。

自分の言葉と自分の行動を一致させることが、子供たちや周囲への真のメッセージになります。
私たちはそのままの私たちで幸せなんだ、と。

世界は新しい時代に入っています。今後私たちはますます多くの物事を手放さなくてはならないでしょう。それができていないと奪い合いに巻き込まれるでしょう。不要なモノを手放し、必要なところへ譲り与え、いつも自由な気持ちで生きていけたらと思います。

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

掃除はミタマ磨き

物事に行き詰まったときや、気持ちがモヤモヤしているときに、私が必ずしていることがあります。
一つは短時間のヨガ、もう一つは片付けと掃除です。最近では片付けと掃除のほうがヨガより効果があると感じます。
掃除というのは、すればするほど周囲がキレイになり、気持ちもスッキリします。

モヤモヤしている時私が最初にするのは、全てのモノをあるべき位置に片付け、それまで使用していたモノを机や床の表面からなくすことです。

片付けをしても気持ちがリセットできないときは、扉と窓を全て開け掃除機を一気にかけます。
大抵これで気分はスッキリします。しかしそうでない時もあります。そういう時は部屋のモノを磨きにかかります。磨くと言っても、雑巾で汚れを落とす程度ですが。

それでもモヤモヤが取れない時はトイレ掃除です。腕まくりをし便器の奥にまで手を突っ込んで、スポンジタワシでごしごし磨きます。結構汗もかきます。

ほとんどの場合、この掃除をしている間に、気分がスッキリとし、モノに対する感謝の念が湧いてきます。使わして頂いてありがとうございます、と。

掃除をマメにし、普段使っているものには感謝を気持ちを込めて「ありがとう」を言う。大切に使うモノ、大好きなモノに囲まれると、生活が気持ちの良いものになってくると思います。

掃除を続けて気がついたのは、掃除は御魂(ミタマ)磨きだということ。モノを磨けば磨くほど、自分の中が磨かれてきます。磨かれてくると少しの汚れでもすぐに気がつくように、心も磨けば磨くほど汚れがつけばすぐ気がつくようになります。

魂を磨くというのは、そういうことなのでしょう。何か漠然とした考えで魂をキレイにしましょうというのは無理な話なのです。行動と思いと言葉というものが魂を磨く道具なのです。
つまり、人生のあらゆる経験が魂を磨く場(あるいは汚す場)なのです。
人に語る言葉、今ここでの思い、普段の行い、全てが自身の魂を磨いているのか汚しているのかしているのです。

人生に行き詰まったり、悩んだり、気分が悪かったりした時は、ぜひ掃除をしてみてください。掃除を習慣にすればきっと魂が喜ぶと思います。
実は、外の世界に行うことは、自分の魂に行っていることなのですね。

その行いも、生きているからこそできるのですが。
生きていることに感謝します。

ありがとうございます。

褒め称える

モノの持ち方、集め方、扱い方は、その人が世界とどう関わっているかを顕著に表してしるのではないでしょうか。

例えば、孤独感や喪失感は、しばしば人を過食や過剰な買い物に走らせます。同じ人が気分が良い時には、大切にしているモノを人に躊躇なく与えることもあります。いつかそのモノを使うと言いながら家をゴミ屋敷にしてしまう人もいれば、後半生には3つのモノしか所有しない人もいます(写真)。

人が不要なモノを所有する時、それは自分と世界との分離感によって起こるようです。分離イコール孤立なので、世界と比べると自分というものが小さく思われます。小さい自我は自分を膨らませようとし、モノを所有することで、『これは私だ。これは私のモノだ。だから私は大きい、偉い。』と孤立感、世界との分離を解消しようとします。しかし、それはうまく行きません。うまく行かないことに気づけば良いですが、未だに優勢な現代の価値観は『まだまだ足りない、もっと所有して大きくなろう、“成功”しよう。』と自我を刺激します。

興味深いことに、人というのは自分の所有しているモノを欲しいとは思いません。モノが自分と一体化していると感じているのです。逆にそのモノは自分のものでない、自分と分離している、と考えるとそのモノを欲しいと思います。そしてそれを所有しようとします。人は分離感があるとモノを所有しようとします。そのものを愛しているというというよりは、そのものを所有することによって、分離から生じた小さな自我を膨らましている状態です。

自分の所有物を見直し、不要なモノを処分し、整理整頓することは、自我を整理整頓することになり、自分と世界との関わり、自分が世界とどのくらい一体化しているのか、どのくらい調和しているのかを見つめる機会を得ることにはなります。

モノを手放すということは、それによって、自我を小さくしていくことになり世界との一体化を容易にします。

モノを手放した後、残っているものに意識を注ぎ、それをこの世界での大切な借り物だと気付けば、ますます世界との一体化,調和に近づきます。

全ては借りものです。自分のモノなどないのです。この体でさえ借りたもの、預かりものなのです。不要なモノを手放し、残った預かりものを大切にすることは、世界と一体であり調和している現れでしょう。

調和した心は、咲いている花を見て、ああ綺麗だ、と感じ褒め称えます。世界と分離した自我は、花を自分とは別のものだと思い、その花を切り取って持ち帰り、こんな花を持っていると自我を満足させます。花を見た時に感動し褒め称えることは、私たちの世界との調和の体験を表しています。

モノを手放し、“預かりもの”を褒め称える時、私たちは世界と一体となっているのです。

それは今ここ感謝の現れなのです。

ありがとうございます。

*写真は、腰布・杖・水差しだけを持っていたと言われるラマナ・マハルシ。

シンプルに食べる

最近は、料理番組やグルメ番組が流行り、街には様々な種類の飲食店が建ち並んでいます。スーパーにはあらゆる種類の食品が並び、インターネットでも時間や場所を問わずどんなものでも手に入れられます。様々な商売・産業が、美味しいものを食べることを求めている人をターゲットにしています。
しかし、このグルメ市場はもう終わりだと感じます。

食事というのは命を頂くこと。動物や植物の命を私たちが頂いて生命を維持しているということ。
多くの人が、このことを思い出し始めています。美味しいもの(前頭葉を刺激するもの)をより多く食べることが、様々な問題を引き起こしていることに気づき初めています。

多くのモノで溢れた部屋と同様、余分な量と余分な味付けの食事は、様々な問題を引き起こします。部屋が掃除ができなくなり、ゴミ・汚れ・ホコリ・臭いで一杯になるように、体も同じように余分なものが溜まり、心臓疾患や脳卒中、鬱や不安、その他様々な問題を引き起こします。

シンプルに食べる、自分に必要なものを必要な時に食べるのがよいでしょう。余計なものを食べなくなると、今の自分に合った栄養を含んだ食事というのが分かってきます。自分の体内センサーがしっかりと働くようになります。生命エネルギーに乏しい食事をしなくなるでしょう。刺激だけの炭酸飲料やジャンクフードから離れるでしょう。加工された食品も本当に美味しいとは感じられなくなります。
そして、食事というのは食べる「モノ」ではなくて、自分の命を支えてくれる「命」だと理解します。

食事は授かり物です。以前に生きていた命を頂いているのです。
食事は私たちがその後に生きるための生命エネルギーを供給してくれているのです。
ですから、食事をするときは、命に対する感謝の気持ちと同時に、その頂いた生命エネルギーを大切に有意義に使おうという気持ちが湧いてきます。

シンプルに食べることは、自分自身を大切にするだけでなく、生命全体をも大切にすることになるのです。

ありがとうございます。

シンプルな方法
シンプルに話す
シンプルに考える
シンプルに見る

自己の体験

私たち生命、ありとあらゆるものがなぜ存在するのかについて、ずっと疑問に思ってきましたが、やはり行き着く答えは「自己の体験」になります。
あらゆる存在は自己を体験したくて存在しているのだと。

究極の現実では、存在というのは一体であり、全てであり無であるということになるのですが、それでは自己というものが体験できないので、一体から分離して(本当は一体なので分離していない、だけど分離したと思い込む)、自と他を作り出した、ということでしょう。

私たちの多くは、自分が全体と一体であることを忘れ、自分の感覚に焦点を置きすぎて生きているので、分離感の中で悩み苦しむことになります。
自己を体験するのは喜びなのです。自分である状況を選びそれを乗り越えることで自己を体験する喜びを得るために生まれてきたのに、何のために生きているのかを忘れてしまったのです。

その理由は、私たちが自分の生き方をしないで他人がそうあるべきだとする生き方をしようとしていることにあると思います。
自分がやること、自分がやりたいことをやらないで、他人や社会が求める生き方をしているうちに自分が体験したいことを忘れてしまったのです。
例えば、新聞を読みたいと思い、新聞を取りに隣の部屋に入ったら,皆がテレビを見ているので一緒に見てしまった、ということに似ているでしょう。

自分が何を体験したいのか忘れないためには、過去や未来のあそこに意識を置くのではなく。やはり「今ここ」に在ることでしょう。

「今ここ」に完全に在ることは、体と精神と魂が統合し調和と全体的な存在を自分の中に思い出させます。物理的世界を超え、自身の中に全体性を創り出し、現実の世界で与えられる限りの最高の意義を持たせることになります。人間の体がなぜこういう形なのか、なぜ宇宙を今見えているように見ているのか、なぜ私たちがさまざまな物事で悩んだり、努力をしたりしているのか、全てのことを直接に理解します。全ての存在、宇宙、全てのエネルギーが私と同意になります。私が宇宙に溶け込むと言うのでしょうか。

一滴の水が、「私は水滴だ」「私は雲だ」「私は雨だ」「私は川だ」「私は汗だ」「私は涙だ」などと言っていたのが、海に戻り「私は海だった、そして全てだった」と悟り(差取り)ます。

行き着くところは、自己の体験と生きていることへの感謝。
ありがとうございます。

モノが少ないことのメリット#4:電気を使わない

モノで溢れていた以前の私の部屋と比べると、現在の部屋は全く異なった空間になったのはすぐに分かります。それはモノがなくなったからに他ならないのですが、もう一つ少し経ってから気づいたことがあります。それは電気代が安くなったということ。つまり電気使用量が減ったということです。

私の以前の部屋に限って電気を使用していたモノを挙げてみると、次のようになります。

テレビ,エアコン、パソコン(数台)、CDプレーヤー、スピーカー,プリンタ、蒸留水器、部屋の電灯(電球5つ),デスクスタンド。
ノートパソコンの充電、携帯電話の充電、Bluetoothイヤフォンの充電、カメラの充電、ICレコーダーの充電、電話の子機の充電、電子辞書の充電(4台)、iPodの充電、テレビの待機、CDプレーヤーの待機、プリンタの待機。

今思いつく限りではこれだけですが、まだ他にもあるかも知れません。
こう見てみると、現代社会は電気がないと成り立たない社会になっているのが実感できますね。

これらのうち減らしたのは、
パソコン3台、CDプレーヤー、ICレコーダー、電子辞書2台、電灯3つ、そして、全ての待機電力。

不要なモノを処分したことで、電気を使うモノがなくなるので、これらの電気代がかからなくなり、無駄なエネルギーを使わず環境にも良いです。また、いやいや使っていた電気機器を気に入ったものに取り替えることで、ほぼ新しく購入した製品は消費エネルギーの少ないものになります。
さらに、スイッチ付きタップを使っているので、待機電力はゼロです。

おかげで以前と比べると電気代はかなり減りました。

大抵の家庭では、機器の充電や待機電力でかなりの電気を使っています。不要なモノ、電気機器を処分することは、財布にも地球にもやさしいことなのです。
エネルギー不足の現代にぴったりの方法ではないでしょうか。

 

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

自分で決めたことを自分の力でやり遂げる

私が大切にしていることの一つに、「人から言われたことではなく、自分で決めたことを自分の力でやり遂げること」というのがあります。
一見してみると、人から言われたことも、それが有名人や実力のある人の言葉なら素直にやって、実際それをやり遂げればうまくいくのではないかと思うのですが、どうもそれではだめなようです。

これは私が医学部受験や英語、ヨガやバレエの指導をしてきた上で分かったことなのですが、生徒にアドバイスをすると「はい」と受け答えをしそれを実行しているだけの人はあまり成長がないのですが、逆にあまり言うことを聞かなくても、自分でテーマを見つけ、あるいは私が何気なく言ったことから自分なりの課題を見つけ実行していく人が伸びているのです。

生徒たちを観察していると、彼らにとって教師としての私は、学ぶ模範としてではなく、自分の課題を見つけるきっかけとして存在するということです。自分の問題点の鏡として利用していると言っていいでしょう。ですから、何か問題点を指摘されてそれを直すことよりも、自分の問題点を自分で見つけ、それを解決していくことに集中しているのです。

これに反対する人もいるでしょう。他人が正確な指摘をしてそれを修正していく人は伸びているのではないか、と。確かに、一時的にはそう見えるかもしれません。しかし、長い目で見ていくと、その人は自分で自分の課題を見つける習慣がなくなり、結局自分で考えることをしなくなります。

もし他人が指摘したことを実行しても、大抵、それは自分の課題としてとらえていないことが多いので、空回りな行動をしたり、嫌になったり飽きたりします。

もちろん、他人が指摘したことが自分の課題としていたことと一致すれば、それは真の成長になるでしょう。

このことは、モノとの関係と密接に結びついているのではないでしょうか。
自分が所有すると選んだモノに囲まれている時は、喜びの中で生きていますが、他人の価値観によって所有したモノに囲まれている時は、おそらく不要なモノ、無駄なモノだらけになるのではないでしょうか。

不要なモノを処分していくと、このことがよく分かってきます。自分が本当に大切にしているものを選び所有することは自分の成長につながるのです。逆にマスコミや他人が持つべきだとするモノに囲まれていると成長できなくなります。
他人にどう見られるか、どう思われるかを気にするのではなく、自分が自分をどう思うかが大切なのです。そして自分で決めたことを自分の力でやり遂げることが、成長になるのです。

自分の周りのモノを見つめてみましょう。それは自分が本当に選んだモノですか。他人の価値観で所有していませんか。そうであれば手放しましょう。
また、自分の心を見つめてみましょう。今考えていることは自分で選んだ思考ですか。他人の価値観をそのまま自分の価値観だと思っていませんか。そうであれば手放しましょう。

この人生は、他人の価値観を生きるためにあるのではないのです。自分が決めたことを自分で経験していくためにあるのです。「自分の決めたことを自分の力でやり遂げる」ことが、自身の成長になるのではないでしょうか。