毎瞬が感謝

朝起きてから、今ここ感謝に在るのを前提に行動していくと、不思議なことが起きます。

例えば、私の一日で見ると、
朝、目が覚め、今日新しく生まれたことに感謝。
太陽に感謝。
空気に感謝。
水に感謝。
朝まで体を休ませてもらったベッド、布団や枕に感謝。
トイレに感謝。
上下水道に感謝。
洗面所に感謝。
感謝できることに感謝。
一分間、自身の存在全体で感謝。
朝ご飯を食べられることに感謝。
お米に感謝。
お米を作ってくれている人に感謝。
お米に関わる人全てに感謝。
納豆に感謝。
サラダに感謝。
おいしくて感謝。
おかずに感謝。
コーヒーに感謝。
新しい報道を提供してくれる新聞に感謝。
同じくテレビに感謝。
社説を音読できることに感謝。
IPadに感謝。
Macbook Proに感謝。
部屋に感謝。
部屋を掃除できることに感謝。
歯ブラシに感謝。
ひげそりに感謝。
ドライヤーに感謝。
仕事場に連れて行ってくれる車に感謝。
目的地に行ける道路に感謝。
行き交う車に、人々に感謝。
車の中でヴォーカルトレーニングができることに感謝。
仕事に感謝。
生徒に感謝。
人間関係に感謝。
仕事を一生懸命できたことに感謝。
様々な気持ちを味わえることに感謝。
経験が成長になることに感謝。
昼食を味わいながら感謝。
移動するのに使う自転車に感謝。
トレーニングジムのスタッフに感謝。
トレーニング器具に感謝。
合気道に出会えたことに感謝。
合気道の仲間に感謝。
様々なことができる自分の体に感謝。
水に感謝。
爽快感という感覚に感謝。
再び人間関係に感謝。
シャワーに感謝。
水に感謝。
清潔な衣服に感謝。
自分が恵まれていることに感謝。
ホッとできることに感謝。
仕事に使うパソコンに感謝。
それを通じて得られる情報に感謝。
大切な人に感謝。
大切な人がそばにいることに感謝。
自分が幸せで在ることに感謝。
日本の入浴という習慣に感謝。
文章が書けることに感謝。
ブログを読んでくれる人に感謝。
インターネットに感謝。
いつも適切なアドバイスをくれる友人に感謝。
自分が今ここにいることに感謝。
家族に感謝。
生きていることに感謝。
これまで支えてきてくれた人に感謝。
先祖に感謝。
先祖の大切さを教えてくれた叔父に感謝。
直截的、間接的に自分に影響を与えたあらゆるものに感謝。
感謝によって全ての本質が垣間見られたことに感謝。
自分が気付いていない感謝の対象に感謝。
今日一日感謝でいられたことに感謝。
全てに感謝。
自分に感謝。
今ここに感謝。

有り難うございます。
全ての前提が感謝になり、その在り方から生まれる行動や状況が全て感謝の対象になります。
いつも奇跡の瞬間を過ごすことになります。

ありがとうございます。

モノが少ないことのメリット#5:見本を見せられる

私が人間の研究を始めてから何年も経ちますが、その間多くの本を読み、多くの人の話を聞いてきましたが、ほとんどの本や人が「モノを所有することには幸せはない」と言っています。
しかし、そう言っていながら、私も含め多くのモノを所有している人がほとんどでした。

私が仕事上で多くの家庭で観察してきたことの一つに次のことがあります。
親があることを言葉で教えていることを実際に親自身が実行していない場合、その子供が親から受け取るメッセージはその言葉の内容ではないのです。一方では良いことを言いながら他方では言葉で言ったことと違うことをしても良い、というメッセージを受け取るのです。子供はそれを真似します。
これと同様に、私たちが何かを伝えようとする時、人に伝えているメッセージはその言葉を発している人の生き方そのものなのです。

不要なモノをたくさん所有しながら「モノを所有することに幸せはない」と言っている人が周囲に発信するメッセージは、「私は嘘をついています」というメッセージにしかならないのです。特に子供たちに対しては。

モノを所有することには幸せはない、というメッセージを伝えられるのは唯一、自身がモノを所有しないで幸せであることなのです。

自分の言葉と自分の行動を一致させることが、子供たちや周囲への真のメッセージになります。
私たちはそのままの私たちで幸せなんだ、と。

世界は新しい時代に入っています。今後私たちはますます多くの物事を手放さなくてはならないでしょう。それができていないと奪い合いに巻き込まれるでしょう。不要なモノを手放し、必要なところへ譲り与え、いつも自由な気持ちで生きていけたらと思います。

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

褒め称える

モノの持ち方、集め方、扱い方は、その人が世界とどう関わっているかを顕著に表してしるのではないでしょうか。

例えば、孤独感や喪失感は、しばしば人を過食や過剰な買い物に走らせます。同じ人が気分が良い時には、大切にしているモノを人に躊躇なく与えることもあります。いつかそのモノを使うと言いながら家をゴミ屋敷にしてしまう人もいれば、後半生には3つのモノしか所有しない人もいます(写真)。

人が不要なモノを所有する時、それは自分と世界との分離感によって起こるようです。分離イコール孤立なので、世界と比べると自分というものが小さく思われます。小さい自我は自分を膨らませようとし、モノを所有することで、『これは私だ。これは私のモノだ。だから私は大きい、偉い。』と孤立感、世界との分離を解消しようとします。しかし、それはうまく行きません。うまく行かないことに気づけば良いですが、未だに優勢な現代の価値観は『まだまだ足りない、もっと所有して大きくなろう、“成功”しよう。』と自我を刺激します。

興味深いことに、人というのは自分の所有しているモノを欲しいとは思いません。モノが自分と一体化していると感じているのです。逆にそのモノは自分のものでない、自分と分離している、と考えるとそのモノを欲しいと思います。そしてそれを所有しようとします。人は分離感があるとモノを所有しようとします。そのものを愛しているというというよりは、そのものを所有することによって、分離から生じた小さな自我を膨らましている状態です。

自分の所有物を見直し、不要なモノを処分し、整理整頓することは、自我を整理整頓することになり、自分と世界との関わり、自分が世界とどのくらい一体化しているのか、どのくらい調和しているのかを見つめる機会を得ることにはなります。

モノを手放すということは、それによって、自我を小さくしていくことになり世界との一体化を容易にします。

モノを手放した後、残っているものに意識を注ぎ、それをこの世界での大切な借り物だと気付けば、ますます世界との一体化,調和に近づきます。

全ては借りものです。自分のモノなどないのです。この体でさえ借りたもの、預かりものなのです。不要なモノを手放し、残った預かりものを大切にすることは、世界と一体であり調和している現れでしょう。

調和した心は、咲いている花を見て、ああ綺麗だ、と感じ褒め称えます。世界と分離した自我は、花を自分とは別のものだと思い、その花を切り取って持ち帰り、こんな花を持っていると自我を満足させます。花を見た時に感動し褒め称えることは、私たちの世界との調和の体験を表しています。

モノを手放し、“預かりもの”を褒め称える時、私たちは世界と一体となっているのです。

それは今ここ感謝の現れなのです。

ありがとうございます。

*写真は、腰布・杖・水差しだけを持っていたと言われるラマナ・マハルシ。

シンプルに食べる

最近は、料理番組やグルメ番組が流行り、街には様々な種類の飲食店が建ち並んでいます。スーパーにはあらゆる種類の食品が並び、インターネットでも時間や場所を問わずどんなものでも手に入れられます。様々な商売・産業が、美味しいものを食べることを求めている人をターゲットにしています。
しかし、このグルメ市場はもう終わりだと感じます。

食事というのは命を頂くこと。動物や植物の命を私たちが頂いて生命を維持しているということ。
多くの人が、このことを思い出し始めています。美味しいもの(前頭葉を刺激するもの)をより多く食べることが、様々な問題を引き起こしていることに気づき初めています。

多くのモノで溢れた部屋と同様、余分な量と余分な味付けの食事は、様々な問題を引き起こします。部屋が掃除ができなくなり、ゴミ・汚れ・ホコリ・臭いで一杯になるように、体も同じように余分なものが溜まり、心臓疾患や脳卒中、鬱や不安、その他様々な問題を引き起こします。

シンプルに食べる、自分に必要なものを必要な時に食べるのがよいでしょう。余計なものを食べなくなると、今の自分に合った栄養を含んだ食事というのが分かってきます。自分の体内センサーがしっかりと働くようになります。生命エネルギーに乏しい食事をしなくなるでしょう。刺激だけの炭酸飲料やジャンクフードから離れるでしょう。加工された食品も本当に美味しいとは感じられなくなります。
そして、食事というのは食べる「モノ」ではなくて、自分の命を支えてくれる「命」だと理解します。

食事は授かり物です。以前に生きていた命を頂いているのです。
食事は私たちがその後に生きるための生命エネルギーを供給してくれているのです。
ですから、食事をするときは、命に対する感謝の気持ちと同時に、その頂いた生命エネルギーを大切に有意義に使おうという気持ちが湧いてきます。

シンプルに食べることは、自分自身を大切にするだけでなく、生命全体をも大切にすることになるのです。

ありがとうございます。

シンプルな方法
シンプルに話す
シンプルに考える
シンプルに見る

自己の体験

私たち生命、ありとあらゆるものがなぜ存在するのかについて、ずっと疑問に思ってきましたが、やはり行き着く答えは「自己の体験」になります。
あらゆる存在は自己を体験したくて存在しているのだと。

究極の現実では、存在というのは一体であり、全てであり無であるということになるのですが、それでは自己というものが体験できないので、一体から分離して(本当は一体なので分離していない、だけど分離したと思い込む)、自と他を作り出した、ということでしょう。

私たちの多くは、自分が全体と一体であることを忘れ、自分の感覚に焦点を置きすぎて生きているので、分離感の中で悩み苦しむことになります。
自己を体験するのは喜びなのです。自分である状況を選びそれを乗り越えることで自己を体験する喜びを得るために生まれてきたのに、何のために生きているのかを忘れてしまったのです。

その理由は、私たちが自分の生き方をしないで他人がそうあるべきだとする生き方をしようとしていることにあると思います。
自分がやること、自分がやりたいことをやらないで、他人や社会が求める生き方をしているうちに自分が体験したいことを忘れてしまったのです。
例えば、新聞を読みたいと思い、新聞を取りに隣の部屋に入ったら,皆がテレビを見ているので一緒に見てしまった、ということに似ているでしょう。

自分が何を体験したいのか忘れないためには、過去や未来のあそこに意識を置くのではなく。やはり「今ここ」に在ることでしょう。

「今ここ」に完全に在ることは、体と精神と魂が統合し調和と全体的な存在を自分の中に思い出させます。物理的世界を超え、自身の中に全体性を創り出し、現実の世界で与えられる限りの最高の意義を持たせることになります。人間の体がなぜこういう形なのか、なぜ宇宙を今見えているように見ているのか、なぜ私たちがさまざまな物事で悩んだり、努力をしたりしているのか、全てのことを直接に理解します。全ての存在、宇宙、全てのエネルギーが私と同意になります。私が宇宙に溶け込むと言うのでしょうか。

一滴の水が、「私は水滴だ」「私は雲だ」「私は雨だ」「私は川だ」「私は汗だ」「私は涙だ」などと言っていたのが、海に戻り「私は海だった、そして全てだった」と悟り(差取り)ます。

行き着くところは、自己の体験と生きていることへの感謝。
ありがとうございます。

モノが少ないことのメリット#4:電気を使わない

モノで溢れていた以前の私の部屋と比べると、現在の部屋は全く異なった空間になったのはすぐに分かります。それはモノがなくなったからに他ならないのですが、もう一つ少し経ってから気づいたことがあります。それは電気代が安くなったということ。つまり電気使用量が減ったということです。

私の以前の部屋に限って電気を使用していたモノを挙げてみると、次のようになります。

テレビ,エアコン、パソコン(数台)、CDプレーヤー、スピーカー,プリンタ、蒸留水器、部屋の電灯(電球5つ),デスクスタンド。
ノートパソコンの充電、携帯電話の充電、Bluetoothイヤフォンの充電、カメラの充電、ICレコーダーの充電、電話の子機の充電、電子辞書の充電(4台)、iPodの充電、テレビの待機、CDプレーヤーの待機、プリンタの待機。

今思いつく限りではこれだけですが、まだ他にもあるかも知れません。
こう見てみると、現代社会は電気がないと成り立たない社会になっているのが実感できますね。

これらのうち減らしたのは、
パソコン3台、CDプレーヤー、ICレコーダー、電子辞書2台、電灯3つ、そして、全ての待機電力。

不要なモノを処分したことで、電気を使うモノがなくなるので、これらの電気代がかからなくなり、無駄なエネルギーを使わず環境にも良いです。また、いやいや使っていた電気機器を気に入ったものに取り替えることで、ほぼ新しく購入した製品は消費エネルギーの少ないものになります。
さらに、スイッチ付きタップを使っているので、待機電力はゼロです。

おかげで以前と比べると電気代はかなり減りました。

大抵の家庭では、機器の充電や待機電力でかなりの電気を使っています。不要なモノ、電気機器を処分することは、財布にも地球にもやさしいことなのです。
エネルギー不足の現代にぴったりの方法ではないでしょうか。

 

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

自分で決めたことを自分の力でやり遂げる

私が大切にしていることの一つに、「人から言われたことではなく、自分で決めたことを自分の力でやり遂げること」というのがあります。
一見してみると、人から言われたことも、それが有名人や実力のある人の言葉なら素直にやって、実際それをやり遂げればうまくいくのではないかと思うのですが、どうもそれではだめなようです。

これは私が医学部受験や英語、ヨガやバレエの指導をしてきた上で分かったことなのですが、生徒にアドバイスをすると「はい」と受け答えをしそれを実行しているだけの人はあまり成長がないのですが、逆にあまり言うことを聞かなくても、自分でテーマを見つけ、あるいは私が何気なく言ったことから自分なりの課題を見つけ実行していく人が伸びているのです。

生徒たちを観察していると、彼らにとって教師としての私は、学ぶ模範としてではなく、自分の課題を見つけるきっかけとして存在するということです。自分の問題点の鏡として利用していると言っていいでしょう。ですから、何か問題点を指摘されてそれを直すことよりも、自分の問題点を自分で見つけ、それを解決していくことに集中しているのです。

これに反対する人もいるでしょう。他人が正確な指摘をしてそれを修正していく人は伸びているのではないか、と。確かに、一時的にはそう見えるかもしれません。しかし、長い目で見ていくと、その人は自分で自分の課題を見つける習慣がなくなり、結局自分で考えることをしなくなります。

もし他人が指摘したことを実行しても、大抵、それは自分の課題としてとらえていないことが多いので、空回りな行動をしたり、嫌になったり飽きたりします。

もちろん、他人が指摘したことが自分の課題としていたことと一致すれば、それは真の成長になるでしょう。

このことは、モノとの関係と密接に結びついているのではないでしょうか。
自分が所有すると選んだモノに囲まれている時は、喜びの中で生きていますが、他人の価値観によって所有したモノに囲まれている時は、おそらく不要なモノ、無駄なモノだらけになるのではないでしょうか。

不要なモノを処分していくと、このことがよく分かってきます。自分が本当に大切にしているものを選び所有することは自分の成長につながるのです。逆にマスコミや他人が持つべきだとするモノに囲まれていると成長できなくなります。
他人にどう見られるか、どう思われるかを気にするのではなく、自分が自分をどう思うかが大切なのです。そして自分で決めたことを自分の力でやり遂げることが、成長になるのです。

自分の周りのモノを見つめてみましょう。それは自分が本当に選んだモノですか。他人の価値観で所有していませんか。そうであれば手放しましょう。
また、自分の心を見つめてみましょう。今考えていることは自分で選んだ思考ですか。他人の価値観をそのまま自分の価値観だと思っていませんか。そうであれば手放しましょう。

この人生は、他人の価値観を生きるためにあるのではないのです。自分が決めたことを自分で経験していくためにあるのです。「自分の決めたことを自分の力でやり遂げる」ことが、自身の成長になるのではないでしょうか。

人格が個性を支える

私たちが常々話題にすることの一つに人の個性というものがあります。
やることが細かいとか、オットリしているとか、こだわりがあるとか、気が利くとか、そのようなことです。

これらの個性というのは、時と場合によって呼び方が変わるようです。物事にとらわれないと言われるか鈍感と言われるか、気が利くと言われるかおせっかいと言われるか、率先的と言われるか向こう見ずと言われるか、同じ個性が違う呼ばれ方をするのです。
考えてみると、個性というのはその人が一番良く使う道具のようなものです。道具を使う時と場合によって解釈のされ方も違ってくるのですね。

ほとんど人の個性というのは生まれもって身に付いているもの、あるいは三つ子の魂百までと言われるように3歳頃までに身につけたもののように思われます。
私の場合、小さい頃から抽象的なことばかり考えている割りには、人の前ではふざけてばかりいました。一人で行動することが好きで集団行動ができませんでした。このような言い方で表現している私の個性は、使い方によっては人を傷つけることもあるし、逆に人や世の中の役に立つこともはずなのです。

私は人を指導することが多いのですが、そこで気がついたのは、人が欠点と思っている性質ほど大切なものはないということです。欠点として現れる行動というのは強いエネルギー(個性)に支えられていることが多いのです。それは使い方が間違っているから欠点に見えるだけなのです。使い方を変えればそれは長所になるのです。

その個性はもともと持っているものなのですが、ここで問題になるのがそれを使う「人格」です。個性が良いものとして表現できるのか間違った現れ方をするのかはこの「人格」によるのではないでしょうか。

個性というのは生まれ持っている性質で、人格というのは育てることができるものだと思います。

ここで思い出したことがあります。私がプロのバレエダンサーを目指し始めた頃、ある高名なフランス人の指導者のレッスンを受けた時の話です。

ある一連の振り付けを練習していた時に、顔の表情や体の抑揚を表現しながら踊っていたのですが、その人に、「とっても個性があり表現が豊かですね。。。しかし、今は自分の個性を出さないで、しっかりと形だけを練習しなさい。個性は出そうとしなくても出てくるものです。3年間は自分の個性を出すのを忘れて基礎だけを練習しなさい。そうすればあなたは立派なプロになれるでしょう」と言われたのです。この言葉はプロになるまでずっと頭から離れませんでした。今でもそうです。
私はこの言葉を「個性を扱う人格を鍛えなさい。あなたには個性を扱う人格がまだ足りません」というふうに理解しています。

幼児にナイフやライターを持たせては危ないですね。同じように人類が核エネルギーを利用するのにはまだ人格が足りないようです。
持っている力やエネルギーである個性を扱えるだけの人格を育てることが、私たちがやるべきことなのではないでしょうか。

そしてその人格が最期に行き着くところは感謝だと感じます。

ありがとうございます。

迷ったら掃除

何か良いことがあった時や気分がいい時、そういう時は何の問題もなく感謝でいられるのですが、やはり人間というのは何かのきっかけで不平不満が出てくるし、不安や失望感に襲われることがあります。

私の周りの多くの人から、「そういう不安定な時にどうすれば、そのような今ここ感謝にいられるのですか」、という質問がしばしば出てきます。
このような人は、「もう一歩成長したい」という意志がありながら、その一歩をどうしても踏み出せない、どうしていいか分からない、やってもうまく行かない、というふうに思っていることが多いようです。
話を聞いていくと、大抵は何をすべきか分かっているということ、しかし、それを実行できないようです。それはなぜかという理由を探ってみると、大抵、そのように思う人ほど無駄なものを多く所有している傾向があります。不要なモノを所有し、それを無理に使おうとしている場合がほとんどです。また身の回りの整理整頓ができていません。自身はそれに気が付いていないようです。
答えは簡単なのです。余計なことをやり過ぎているだけなのです。その余計なことをやり過ぎているというのは、必ず生活空間に現れているます。言い換えると余計なものを持ちすぎているのです。整理、整頓、掃除、片付け、処分が足りないのです。
お勧めするのは、「迷ったら掃除」と「不要なモノの処分」です。
今ここで感謝の中にいないということは、つまり心に汚れがあるということです。その在り方は必ず現実世界に現れています。生活空間に現れているのです。
ですから、自分が生活空間をどれだけ整理整頓していると思っても、不平不満、不安失望があれば、それでは(心の)掃除がまだ足りないということなのです。
生活空間は心の現れであり、そこには必ず私たちの在り方が現れています。
整理整頓はしています、掃除も相当やりました、でも感謝は感じられません、と言ってる人はまだまだ手放す必要があるのです。余計なモノを処分していないのです。
とことん処分して、とことん掃除してください。
迷いがあるうちは掃除が足りません。
掃除をし、不要なモノを手放したら、今ここ感謝が見えてくるでしょう。
そして、そこから新しい行為が生まれてくるでしょう。やりたいことを実行しているでしょう。
そしてそれをやっていれば、残るは有り難いことだけです。感謝だけです。
ありがとうございます。

タオルはシャワーで洗う

私は郊外の温泉施設でサウナに入るのが好きなのですが、そこに何度か通っている時にあることに気がつきました。それは私がタオルの洗い方で自然に節水に貢献しているということです。

以前、モノを最小限にするというシンプルライフを実行している例として、タオルを年に三枚しか使わないことについて書きましたが、もう一つ自然に実践していたのが、タオルの洗い方です。
最近はどこの温泉施設でも「節水にご協力ください」などの注意書きがあったり、シャワーやカランが10秒ほどで自動的に止まったりと,工夫しているようです。

実は私はカラン(蛇口)を使いません。したがってタライを使いません。

*ここで雑学です。カランとは「鶴」を意味する「kraan」というオランダ語が語源なようです。首の長い蛇口は鶴をイメージさせますね。

なぜカランやタライを使わなくなったのかというと、時間がかかり、その割にはタオルがキレイにならないからです。

まず私はタライにお湯をためている時間を待っていることができません。最近の給湯器はだいぶ性能が良くなりましたが、お湯は水を沸かしてから出てくるので、その分水圧も水量も少なくなります。それを待っている時間が長く感じられます。

そして、タライでタオルを洗うと何度もお湯を交換しないとタオルはキレイにならないということ。石鹸だらけのタオルを最初にタライのお湯の中で洗うと、タオルの石鹸がお湯に溶け込むのですが、その石鹸が溶け込んだお湯の中で洗っていてもキレイになりません。キレイになるまでに何度もお湯を交換しなければなりません。しかし、汚れが溶け込んだお湯で洗うので完全にはキレイになりません。

そこで私がやっているのは、シャワーのお湯にタオルを広げて直接さらすという方法です。この方法だとタオルにキレイなお湯を注ぎ続け、汚れたお湯は流れ落ちるので、完全にタオルの石鹸を落とすことができます。そして時間ほとんどがかかりません。

実際、まず泡だらけのタオルをひろげてシャワーにかざし石鹸を落とします。軽く一回絞りもう一度シャワーにさらしタオルの繊維の中に入っている石鹸を落とします。もう一度絞りシャワーにさらしてキレイにします。最後にタオルを絞れば石鹸汚れは全て落ちます。

しかも、この方法だとタライ一杯分のお湯しか使いません。タライにお湯を入れてタオルを洗う方法だと、(私が温泉施設で観察したところ)その3~5倍のお湯を使うことになります。

この方法は、皆さんあまりやっていないようです。何年か温泉施設で観察しているのですが、私一人です。

節水にもなるし、タオルもよりキレイになる。

ぜひ皆さんやってみてください。