シンプルに話す

私たちの生活の中でも高度なコミュニケーションの方法が話すということです。

自分がどんな言葉使いをしているのか観察したことがある人は、あまりいないのではないでしょうか。おそらく話すことを職業とする人くらいでしょう。

不要なモノを手放すことと同じように、不要な言葉使いというものを、一度は考えてみるとよいでしょう。

モノを処分する時、最初はゴミを捨てるところから始まりますが、言葉使いについても捨てるべきゴミ同様のものがあります。

その捨てるべき言葉使いは

1、嘘、偽り。

2、陰口、二枚舌。

3,悪口、誹謗、中傷。

4、無駄口、噂話、世間話。

例えば、言葉を相手に与えるプレゼントだと考えてみましょう。

嘘、偽りを与えるでしょうか。正直さ、誠実さのプレゼントのほうがよいでしょう。

陰口,二枚舌、悪口などより、尊重する言葉、和解の言葉、友好的な言葉使いが役に立つのではないでしょうか。

噂や世間話は、無駄以外の何者でもありません。

上の4つの言葉使いを手放すだけで、どれだけ話の内容が深い意味を持ち、どれだけコミュニケーションを調和へ導くか分かるでしょう。不要な言葉使いを手放すだけで、話す言葉が意味のあるものとなり、真実を表現するものになります。本当の自分の考えや意思に近づくものになるのです。

 

シンプルな方法
シンプルに食べる
シンプルに考える
シンプルに見る

笑みが伝えること

今ここ感謝、この時私たちはどんな表情をしているのでしょうか。
思うに、それは笑みではないでしょうか。

喜び、感謝、至福、恍惚、感動。
全ての表情は笑みになるのではないでしょうか。
この現実では、思いより実際の表現、行動・形のほうがまだ強力です。
ですから、今ここ感謝という在りかたを実現するために、笑うこと、ほほ笑むことは現実世界では有効な方法です。
何があっても、微笑んでいることです。それは周囲の世界、人々にも強力な効果が在ります。人を本来の自分に戻します。

本来の自分とは、自然な自分、宇宙と調和した自分、全てと一体である自分です。
調和すると自分は世界と共振するでしょう。笑みは宇宙の振動です。

笑みは私たちを自分自身に戻します。
笑みは問題を解かします。
笑みはお互いを結びつけます。
笑みは恵みです。

今ここ感謝であることを伝えたい時、どうしても言葉では伝えられないことが多いのですが、その時には微笑むのが一番です。どうぞ笑っていてください。

笑みを絶やさないでいましょう。

微笑んでいると、その在り方が世界へこんなメッセージを発信しています。
「私は感謝でいっぱいです。ありがとうございます。」

モノが少ないことのメリット#3:モノを探さなくてよい

ある調査によると、私たちは探し物に一日に10分ほどを費やしているそうです。

探し物をすると、仕事を中断しなければならなかったり、予定がくるったり、あるいはそれが原因で人とトラブルになったりする場合もあります。

やはり原因は、その探し物をおいて置くべきところに置いていなかったり、他のガラクタに埋まって見つからなかったり、というところにあるようです。

これまで書いてきたように、不要なモノを手放して、持っているモノは在るべき場所に在り、家の中の表面(床面、机面、壁など)には何も置かないというシンプルライフを実行していると、モノを探すのが楽どころか、モノを探すという行為さえ要らなくなります。

まず、モノを置くべきところに置いていないとすぐに気がつきます。何もない表面に何か置き放しだとすぐ分かります。ですから探す必要が在りません。

ガラクタがないので、その中に埋もれることもありません。

私の極端な例ですが、以前膨大な量の本を所有していた時、1つの本やCDを探すのには積み上げられたダンボール箱を下ろすことから始まりました。探しているものがどのダンボール箱の山にあるのか見当をつけて下ろして開けてみます。そこになかったら次のダンボールを開けてみます。運がよいと4箱目くらいで見つかります。運が悪いと数十箱を下ろして開けてみなければなりません。その間に手も服も真っ黒になります。舞い上がったホコリを吸い込みます。腰も痛み始めます。

本やCDを探すのに不便を覚えるたびに、ダンボール箱の中から本やCDを選びなおし棚に並べます。しかし、また次に探すときは同じことの繰り返しです。

現在は、シンプルライフの基本を守り、表面には何も置かないので、探し物は全くしません。

モノが少ないと本当にいいことばかりです。

 

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

感謝でアホに

今ここで、感謝の状態に在ると、どんどんと欲求や執着心やこだわりが消えていきます。
自然に心から汚れが、薄皮を剥ぐように取れていきます。
毎瞬毎瞬、毎日毎日、だんだんと心が軽く明るくなってきます。
これを続けていくと最後には何が残るのでしょう。
例えてみれば、タマネギの皮を剥ぐようなものでしょうか。タマネギを剥いていくと、どんどん際限なく皮が出てきます。最後まで剥くと、何も残りません。言い換えると、タマネギを存在せしめた空間が残るのでしょうか。タマネギを最後まで剥いたら、空間だけが残った。空間と一緒になった。
感謝で心を綺麗にしていくのは、それと同じようなことです。これまで溜めてきた知識や判断から解放され、あらゆる存在と一体となるのです。心が無になるのです。何もないイコール全てと一体である、なのです。これに気付きけば気付くほど、人はアホになれます。
反対に自我というエネルギー体は一つの生き物でもあるので、自分を大きくしようとします。自我のエネルギーは大きくなればなるほど限定に向かいます。これが私だ。こう感じているのが私だ。こう動いているのが私だ。こう見えるのが私だ。
限定すればするほど、一体としての自分では無くなり、調和が無くなり、つながりが無くなり、消滅の道を歩みます。
もう現在は既に、これまでの常識が消滅する時代になっています。
今ここ感謝に在ることが自然な時代です。

欲求や執着やこだわりという自我でさえ、感謝で扱いましょう。
得るものも失うものも、もともとは自分のものではなかったのです。
得ることも失うことも調和の中での一つの体験です。
感謝で在れば感謝の体験です。
あらゆるものを感謝して手放せること、アホになること、それが「今ここ感謝」です。

ありがとうございます。

シンプルに考える


モノとのシンプルな関係がモノを手放すことから始まるように、「シンプルな考え」も不要な考えを手放すことから始まります。
不要なモノといのは、そう判断するのも手放すのも、目に見えるので比較的簡単に分かります。置きっ放しとか、ホコリが被っているとか、目に見えるので比較的楽に判断ができ手放せます。モノを手放すことが進むにつれて、自分とモノとの調和した関係ができてくるのです。
モノとの調和した関係ができれば、考え方も調和したシンプルなものになるのですが、一体そこではどんな考えや思いを手放していくのでしょうか。

不要な考えとは次のようなものです。

1、怒り。
もしもこの怒りというのが目に見えたら、かなり強烈でしょう。暴れて部屋中を打ち壊している感じです。頭の中はグチャグチャになっている状態です。これは片付けや整理整頓以前の問題ですね。手放したほうが良いでしょう。

2、先入観、偏見、決めつけ。いろいろなものがありますが、そのような種類の考えです。
例えば、他人が何かを持っているから自分もそのモノを持っているとなると、それは使わずに部屋や倉庫でホコリを被り、私たちの住居を汚すことになります。
同じように、先入観や偏見は実際の状況から離れた考え方なので、使えない考えなのです。私たちの頭の中の不要なゴミとなってしまうのです。これを手放せば、私たちの頭の中はスッキリします。

3、過剰な欲求。
あれもしたいこれもしたい、あれも欲しいこれも欲しい。モノと同じように考えというのは私たちの心の部屋に置かれます。いろいろなもので埋め尽くされている部屋では様々なモノに注意が移り、落ち着かないように、過剰な欲求は頭の部屋でも調和を失い、自分が何をしたいのかが見えなくなります。

4、不平、不満。
自分が作り上げている状況を他人のせいにする、被害者意識です。モノが不要だと知りながら手放さない人です。そして自分が変われないのもモノのせいにする人です。何も進まない考え方です。決心して前に進みましょう。

5、憎み、恨み。
モノで例えると、部屋がモノで溢れているというよりは、「ゴミ」で溢れている感じでしょうか。そしてそのゴミを他人の部屋に投げ入れる行為です。

6、後悔。
不要なモノを捨てないで、捨てられない理由を無理に考え出しているようなものです。大切なことに注意を向けられなくなります。捨てましょう。

7、ためらい、躊躇。
モノを使うかも知れないと取っておく行為と同じ。結局無駄になります。次のステップに進みましょう。

ここに挙げた考え方を手放すと、次第にシンプルに考えるようになるでしょう。
シンプルな考えもモノと同様に手放すことから始まります。

シンプルな方法
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シンプルに話す
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モノが少ないことのメリット#2:お金がかからない

所有するモノを少なくすることでメリットの中で、まずどんな人も挙げるのは、お金がかからないということです。

所有するものが少ないというのは、モノをなるべく増やさない、つまりなるべく買わないということです。モノを買うのにはお金がかかります。その買うのに使うためのお金がそのまま残るのです。

かつての私は、本やスポーツギア、靴や衣類などにお金をかけていました。本代は毎月約20万円、ゴルフセットは何セットも購入し、靴や衣類は数回身につけたら買い替えていた始末です。

今は本代はほぼゼロ、洋書はAmazonのKindle版が1冊数百円くらいで購入できるのでお金もかからず、パソコンに入っているので場所も取らず、ブックオフに売りにいく必要もありません。ゴルフは性に合っていないのできっぱりやめました。今は合気道に励んでいます。靴は普段は黒を一足と茶を一足、トレーニングとサッカー用に一足ずつ、これらを大事に履いています。衣類は一年を通して、ズボンが4着、半袖シャツが5着、長袖シャツが4着、上着(ダウンも含めて)5着ほどです。仕事もプライベートもデートも飲み会も買い物も、どんな時でも全て同じものを着ています。かつて使っていたお金がかからないので、本当に助かります。

また、モノが多くあると、それを管理したり維持するためのお金がかかります。

例えば自動車を所有していると、保険や税金、駐車場代やガソリン代などがかかりますが、2台以上持っている人が1台にするだけでも、かなりのお金が節約できます。

衣類はクリーニングが必要なものはクリーニング代がかかります。

最近ではモノを保管するためのレンタル倉庫を借りている人も多いでしょう。レンタル倉庫は毎月5000円とかあるいは1万円以上かかります。モノを少なくするだけで、これらの余計なお金がかからずに手元に残るのです。

パソコンを1台持っているだけで周辺機器やそれを使うための電気代やインターネットへの接続料などがかかります。

モノというのは、それを買うお金、維持費や管理費、使用料や処分料などがかかるのです。モノを減らすとそのものに伴った余計なお金がかからず、その分お金が貯まることになるのです。貯まったお金はより重要なものに使うこともできます。

考えてみれば単純なことなのですが、自分はお金が貯まらないと思っている人がいたら、自分が不要なものを持っていないか、それにどのくらいのお金がかかっているのかを検証してみてください。モノを少なくすることが、どれだけお金を節約できるかが分かるでしょう。

 

モノが少ないことのメリット
#6:自由になる
#5:見本を見せられる
#4:電気を使わない
#3:モノを探さなくてよい
#2:お金がかからない
#1:掃除が楽

モノが少ないことのメリット#1:掃除が楽

整理術や片付け術などでは必ず言われていることですが、不要なモノを手放して床や机などの平面からモノがなくなると、掃除が本当に楽になります。

モノがあると、例えば掃除機をかけるにしても、そのモノを移動して掃除をしなければなりません。またモノ自体も別個に掃除しなければなりません。掃除の後には再びもとの位置に戻す手間もかかります。
私の場合は、以前部屋がモノで溢れかえっていた時、まず掃除さえしませんでした。掃除をすると恐ろしく気が滅入るからです。本が詰まったホコリだらけのダンボールの間には掃除機のヘッドが入らないので、掃除をあきらめるか、重いダンボールを一つずつ下ろし移動してから掃除するしかありません。本が詰まったダンボールはとても重いのです。15キロとか20キロ、ダンボールによってはそれ以上の重さです。これを何十個も移動したらかならず腰を痛めます。

タンスや机の上などは、小さな置物や香水、ビタミン剤やカップなどで一杯で、それを移動しないと掃除などできません。本棚の上には使わない袋類やバッグなどが覆い被さり、触れると落ちてきそうなので触ることさえできませんでした。

したがって、私が掃除をするのは、ひどいときは大晦日に1回と、汚くて我慢ができなくなる頃に1回の、合計2回くらいしかしませんでした。普通の掃除に何時間もかかるので全くやる気が起きませんでした。当時、親しい友人からは、私の部屋に入ると靴下が真っ黒になるからスリッパを出してくれと言われたり、他人が部屋に入った途端くしゃみをしだすほどでした。

今では、掃除機をかけるのは2分で終わります。簡単に終わるので家にいられる時はほとんど毎日掃除しています。床や机や棚の上には何も置いていないので、モノを移動する必要もありません。ウェーブ ハンディワイパーで一拭きです(^^)。

 

人それぞれ持っているモノや収納の仕方は異なるでしょうが、やはりモノの量が多いと掃除が大変です。モノが少ないと掃除が楽になり、掃除ももっと行き届いたものになります。また掃除の時間が減るので、より大切なことに時間をかけることができます。
モノが少ないと本当に楽です。

私はこれを身をもって体験しました。

シンプルに見る

私たちの社会はモノや情報で溢れかえり、自分たちの環境を正面から見ることをあえてさせないようになっています。ちゃんと見てみると異常なことは一目瞭然なのですが、スッキリした社会になると一時的に損をする人たちがこれをさせないように脅したり刺激したりしています。

私たちの家の中も余分なモノで溢れ、そのグチャグチャな環境を見たくないので、敢えて考えない習慣がついていました。

しかし、不要なモノを手放し周囲がスッキリとしてくると、モノの一つ一つの性質が見えてきます。これまで見ようとしないで避けてきた状況を見ようとする態度ができてきます。そして、モノの在り方が見えてくると同時に、今まで習慣的に行ってきたことや考えてきたことにも違った光が当てられます。

これは何のためにここに在るのか。これを所有し使うことは私たちにどんな影響があるのか。なぜこれを持っていたいのか。これはここにあるのがベストなのか。そのような疑問が自然と湧いてきます。

おそらくこの辺りでは、使っているモノや必要なモノが手元に残っているのが一般的でしょう。しかし、ここで質問です。

使っているモノは手放さないほうがよいのか。

自分から見たら、使っているモノは確かに持っていて良いはずです。でも、その自分が使っている理由は何でしょう。必要のない欲求からそれを使おうとしていることはないでしょうか。

この段階にくると、自分の視点およびモノからの視点を超えて、自分とモノとの関係性が何によって成り立っているのかが見えてきます。

私の場合は、持っていたいと思っていたはずのモノに対してある違和感を感じ始めました。頭ではそれを持っている完璧な理由がきちんとあり、それを計画的に使っているのですが、どうしても気持ちの中に嫌なムズムズ感というのでしょうか、そういう感覚があるのです。考えている頭と心が、あるいは頭と体が一致していない感覚です。理性的な観点から見て正しいと思っていたことが、心の奥底ではそうではない、あるいは体そのものが否定しているのです。

私は違和感のあるモノは手放しました。頭では持っているべき理由だと思っていたのは、欲求が作り上げた「理由」と名付けられた「言い訳」なのです。人の持っている価値観や理由というのは、過去の経験を材料にして頭の欲求が作り上げたものです。そこから見た今ここは純粋に経験することができません。現代の多くの人の生活に現れているように余計に物事を複雑にします。

理屈を手放し、心の目で物事を見るようになると、敏感なセンサーがきちんと機能し始めます。その時の状況に調和した見方ができるようになります。自分と自分以外とが一体となった見方になるのです。物事を一瞬にしてシンプルに見ます。

モノを手放すことは、そのようなことにもつながっているのではないでしょうか。

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シンプルに話す
シンプルに考える

過不足なく

シンプルライフの実践は、今の世の中では所有物を減らしていくことで、モノとの関係が調和のとれたものになっていき、それと同時に、人間関係や仕事なども調和のとれたものになります。
調和というのは、言ってみれば、バランスが取れている、過不足がないことではないでしょうか。
モノについては多くもなく少なくもなくピッタリの量があることです。
私は合気道をやっているのですが、合気道の技というは、まず相手と気を結びそれから導くという技の掛け方をします。相手あっての技なので、速すぎても遅すぎてもうまく掛からないのです。ちょうど良いタイミングと力加減があるのです。一体感、調和というものが一番大切なものと言ってもいいでしょう。
モノや行動、人間関係なども、過不足ない調和のとれたものが良いのです。頑張ってもいけません。怠けてもいけません。ちょうど良いところがあるのです。スポーツや稽古ごとなども、ちょうど良い練習量と集中力を使う時が一番伸びるようです。
シンプルライフというのは、減らすことに重点が置いてあるように思えますが、それは物事を過剰に追い求める現代だからそういうことになるのです。シンプルライフは、過剰なものの場合は減らし、不足しているものの場合は増やし、バランスをとるということです。中庸です。中道です。
何か問題がある、物事を変えたい、自分を変えたい、人間関係を変えたい、私たちは様々なことを動かそうと悩んでいるでしょう。しかし、中道が大切です。バランスが大切です。調和を目指して生きていく時、それは一番うまく動いています。それはとても遅い変化に見えるかもしれませんし、あるいは一瞬で変わるかもしれません。どちらも調和の結果その速さで変化しているのです。それに気がつかずに調和からはずれ、無理に押したり引いたりすると、問題はもっと複雑になります。
どんな物事も変化しています。それに対して私たちはいつでも関わっています。複雑に関わると物事は複雑になります。シンプルに関わると物事はシンプルになります。
私たち自身がシンプルになればなるほど、周囲の状況がシンプルに美しく在るでしょう。

実践

「今ここ」に在ると、実践者になります。体験者になります。
「踊る阿呆に見る阿呆、踊る阿呆なら踊らにゃそんそん」
そんな言葉が思い出されます。
今ここに在る時は、踊りを見ているといつの間にか自身も踊っているのです。

今ここに在ると、いつでも、鑑賞者から実践者に変わります。今ここの世界から離れることがないからです。今ここの世界に積極的に調和しようとします。心と体が躍動してくるのです。

例えば、音楽を鑑賞しているときに体が自然にリズムを取り、あるいは歌い始めます。子供たちを観察すると、それが本当に自然な行為であることに気付きます。子供たちは今ここに在るのでしょうね。

心が動かされる行為やパフォーマンスを目の当たりにすると、自分自身がそう在りたい、そうしたい、という欲求が湧きあがり、その行為をしようとします。体験しようとします。

観察しているだけ、批評しているだけ、分析しているだけでは、「今ここに在る」から離れています。どうぞ実践者で在りましょう。体験者でありましょう。なぜ今ここに生きているのに、今ここから離れる必要があるのでしょうか。分離の中に生命はありません。

生命を知るには、それとともに生きてください。分離分解しないでください。
例えば、自分が飼っている犬を理解する時、脳や体を解剖して調べますか。それとも共に人生を楽しみ悲しみを共有しますか。答えは簡単ですね。

あなたは今ここに参加していますか。実践者でありますか。実践者でいるときだけ、生命を知るでしょう。

ありがとうございます。