Day 2 : 本、本、本

さて、私のシンプルライフの旅は本の処分から始まりました。
なぜ、本なのかというと、本が所有物の中で一番多かったからです。
私は読書好きで、学生の頃から毎日のように本を読んでいました。多い日には毎日6冊ほど読んでいました。それに比例して買う本も多く、大学を卒業してからは毎月20万円ほど本代に使い、年間500冊以上は読んでいました。これらの本が溜まりに溜まっていたわけです。

まず最初に、絶対読まないであろうという本を処分することから始めました。
当時はブックオフではなく、一番近くにある古本屋を利用しました。
全集本の処分からです。プラトン全集、アリストテレス全集、岩波講座哲学、岩波東洋思想全集、岩波物理学全集、ロマンロラン全集、泉鏡花全集、シェークスピア全集、様々な全集を売り払いました。
次に文庫や新書です。 扱いが悪いためホコリだらけシミだらけの本をダンボール一箱当たり数万円という価格で買ってもらいました。

その後、語学書(語学書は英語をはじめ、フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、韓国語、中国語、ラテン語、古代ギリシャ語など数千冊)、哲学書(主に西洋哲学書)、英語のペーパーバック(シェークスピアから流行り本数千冊)、スポーツ本などを処分し、最後に自己啓発関連、医学書、芸術関連書、辞典類を処分しました。これを行うのに2、3年かかっています。 後半はほとんどブックオフに持っていきました。売り物にならない本も処分してくれるので助かりました。

一ヶ月に一度くらいのペースで、数十箱の本を車に詰め込みブックオフに売っていました。車の助手席、後部座席、トランクをすべて埋め尽くす量を運んでいたので、重量で車のサスペンションがつぶれたまま運転したので、サスペンションがすぐにいかれてしまいました。

結局自分の中で決心したのは、本は本棚2つに収まる量だけを所有する、ということでした。その後1、2年はそれで満足していました。自分ではよくやったと思っていたのです。

とにかく本の量がすごかったので、他のものには頭が回らなかったに違いありません。まだまだ様々なものを所有していましたし、本も外出しても数冊持ち歩いては読んでいました。
10年ほど前にヨガを習っていたのですが(今は指導しています)、指導者の人たちが皆、私の持ち歩いている本を見て「余計なものをいろいろ背負っていますね」と言っていましたが、気にはなっていたのですが、その時もその意味はあまり実感できませんでした。 まだまだ余計な知識大好き人間でした。もちろん何がいけないのかは理解していませんでした。

To be continued.

My Journey
Day 10 : そして、調和
Day 9 : 他人のガラクタ
Day 8 : ミニマリスト Minimalist
Day 7 : 自分とモノとの関係
Day 6 : モノには戻る場所がある
Day 5 : モノとの生きた関係
Day 4 : 必要なものはない
Day 3 : ようやく部屋に空間が
Day 2 : 本、本、本
Day 1 : 部屋の乱れは心の乱れ

Day 1 : 部屋の乱れは心の乱れ

部屋の乱れは心の乱れ、とよく言いますね。
最近まではこの言葉にそれほど深い意味を感じませんでした。しかし、今流行りの片付け術の本を読み、所有物を絞り込み、整理整頓を実際に行ってみると、これほど深い言葉はないと思い始めました。
そう思うまでに、本当に長い時間がかかりました。

片付けというものを始めたのは数年前でしょうか。読書好きな私は、毎日数冊、多い時は10冊ほどの本を読み、また読む本が無くならないように、それ以上に本を買っていました。思想書や語学の本は街の本屋さんの数倍の蔵書量でした。
読んだあと手放しても良い本はダンボール数十箱単位で人にあげていました。ある時は後輩に30箱の本を貰ってもらい、その後輩は一部屋を書庫に変えたほどでした。
本だけではなく、自分が活動しているあらゆる分野の道具や関連物が家に溢れかえっていました。例を挙げると、パソコン4台(もちろん1台しか使っていない)、スノボー3枚(全く使っていない)、スノーボードウェア上下5セット(1セットを1回使っただけ)、サッカーボール5個(時々一つをリフティングに使っているだけ)、語学書(英語、ドイツ語、フランス語、韓国語、イタリア語、スペイン語、ロシア語。一言語につき100冊ほど、計数百冊。英語の一部しか使っていない)。一度ずつしか着ていないスーツやジャケット類、それを保管する意味のない縦型洋服ダンス。。。
その他いろいろ。
もちろん部屋は本とスポーツギアの入ったダンボールで埋め尽くされ、ベランダにも体を横向きにして段ボールの間をすり抜けないと出られないほど(冬は壁中が段ボールで埋まっているので非常に暖かかった)。ものが多すぎて掃除機がかけられずホコリだらけ、いや、ホコリがもはや土になりかけているほど溜まっていました。

いつから片付けを始めたか記憶が薄いですが、おそらく当時流行った「そうじ力」の本(舛田光洋)を読んだ頃からでしょうか。それが5、6年前でした。

ダンボール倉庫と化した部屋を初めて汚いと思い始めたのが5、6年前なのです。
「部屋の乱れは心の乱れ」のレベルではないですね。その例えが正しければ、私の心は腐敗状態でした。
しかしその時も、それほど自分の心が混乱状態だとは思っていなかったのです。

そしてそ、こから私のシンプルライフの旅が始まります。

To be continued.

My Journey
Day 10 : そして、調和
Day 9 : 他人のガラクタ
Day 8 : ミニマリスト Minimalist
Day 7 : 自分とモノとの関係
Day 6 : モノには戻る場所がある
Day 5 : モノとの生きた関係
Day 4 : 必要なものはない
Day 3 : ようやく部屋に空間が
Day 2 : 本、本、本
Day 1 : 部屋の乱れは心の乱れ

全てに完璧さを見る

私たちは、状況や物事にどんな気持ちや印象をもつでしょうか。

何かが自分の身に起こった時、どんな感情を持つでしょうか。
そこに、それはそれで良しとする感情、つまり状況や物事に完璧さを見ることができるでしょうか。周りの全てのものの中に、完璧さをみることができるでしょうか。全てのことの中の荘厳さに気づけるでしょうか。

その状況や物事の完全性に気付き始めると、物事が在るべき姿、美しさが見え始め、それを表現し始めます。
それは普段の行為として、例えば掃除や整理整頓であったり、清潔にすることであったり、すっきりとした考え方をすることであったりということに現れます。
物事の内にある輝く本質が表現されるべきものだと知るので、それが自ずから表現できるものは表現させ、表すのを助けることができるものは助け、見つめるだけしかできないものは見つめるようになるのです。

できる限り物事を在るがままにしようとします。在るがままとは、そのままということではありません。その物がどこにどんな風に在るものなのかが理解でき、そこに在るよう助けるでしょう。
また、秩序だった考えをし、美しい言葉使いをするでしょう。人に対してもその中に光を、完璧さを見て、その通りのものを引き出すのです。
それは自分自身にも当てはまります。自身の中に完璧さを見ると、自分の才能、健康などが在るがままの最高の状態になるでしょう。
自身に完璧さを見る人には、自然とこの言葉が心に浮かびます。
私は愛なり光なり。
どこかの誰かが同じようなことを言っていましたね。

ありがとうございます。☆☆☆

世の中で一番必要なこと

今ここに在るという在り方と、自分が世の中でしなければならないことは一体どんな関係があるのか、と私たちは疑問に思います。

世の中には自分の意志とは関係なくやらなければいけないことがあるのではないか。世の中には行う必要があることがたくさんあり、そのことを考えると、今ここにあることは後回しになってしまうのではないか。家族を養うため、子供を育てるため、生きていくため、そうして生きているのに今ここに在ることは本当に利益になるのか、と。

しかし、その疑問自体が物事をうまく行かなくする原因なのです。
今ここに在ることは、必要なものは何もないと悟ること、必要なものは今ここに全てあると悟ることなのです。そして、実は、世の中で一番必要なのは、私たち自身が今ここに在り、その結果生き生きとしているということなのです。

もし、自分を生き生きとさせて、今ここに在る状態にしてくれるものがあるなら、その生き生きさせてくれるものをどんどんやったほうがいいのです。
生き生きしている人を見て文句を言う人が出てくるかもしれません。それはその文句を言っている人の問題なので気にする必要はありません。生き生きしていることを否定する人の理屈によってやめないでください。いずれ文句を言う人に対しても、今ここ生き生きは良い影響を与えます。

世の中に必要なのは「今ここ・生き生き」の輝きなのです。
でも、死ぬ時はどうするって?大丈夫です。そういう人は、生き生きと死んでいくでしょう。死も生も変化なのですから。

全ては在り方の絶え間ない変化です。変化の今ここに、生き生きと在りましょう。

それが、世の中で一番必要なこと。

ありがとうございます。

全てで在ること

「今ここ」に完全に在る、それは体と精神と魂が統合し、全人的な存在になることです。
それ以前には、自己という制限された存在の中に意味を見いだし、自己以外のものに意味を見出し、それを所有することによって自分の存在を主張してきました。
しかし、今ここに完全にあれば、宇宙の大きなパターンと融合し、その秩序を理解することができ、智というものは直接知であり、自分の人格を周りの全てと統合することになります。
今ここは聖なる場所で、無限に広がる今ここの現実性を超越した状態に繋がります。物理的世界を超え、自身の中に全体性を創り出し、その存在に現実の世界で与えられる限りの最高の意義を持たせることになります。
人が生きていることの意味、人間の体がなぜこういう形なのか、なぜ宇宙を今そう見えているように見ているのか、なぜ私たちがさまざまな物事で悩んだり、努力をしたりしているのか、全てのことを直接に理解します。
「私」というものはいなくなり、全ての存在、宇宙、全てのエネルギーが私と同意になります。私が宇宙に溶け込むと言うのでしょうか。
一滴の水が、「私は水滴だ」「私は雲だ」「私は雨だ」「私は川だ」「私は汗だ」「私は涙だ」などと言っていたのが、海に戻り「私は海だった、そして全てだった」と悟ります。
私以外のものとの差が取れるのです。これこそ差取りの本当の意味なのでしょうね。
そして、全ての物事に対して、感謝の気持ちがあるだけなのです。

ありがとうございます。

自と他

なぜ世界には自分があり、自分以外の他があるのでしょう。
それは体験のためです。
体験するためには自と他が必要なのです。
宇宙は最初(時空を作り出す前は)、自だけでした。しかし自だけでは『体験』がないのです。
自を分けて、自と他を作り出せば、自は他を認識し働きかけることができます。そこで時空間ができます。そういう言わばゲームを作り出したのです。しかし究極の宇宙は自だけなので、そこでは自も他も一緒です。そして時空の分離はありません。
自と他、そしてそれが結びつくことによる新たな自他の創造。これがさまざまな時空レベルで経験されています。

肉体三次元世界では自と他が設定されているので、他の中に自を見ることができるのです。
時空間の中では、今ここに在るというその在り方自体は目に見えないので、他を見て自分の在り方の結果であり鏡である現実を見て、自分の在り方を認識します。

自他がもともと一つの自であった痕跡が私たちが自分たちのことを「私」や「自分」と呼ぶことに表れています。私たちは意識の奥では、自分たちがたった一つの同じ存在だと気づいているのです。
この地球上の70億の私は、一つの私がこの地球上で70億通りの体験をするためにあるのです。
また、人だけでなくその他の動物、植物、鉱物など、また異なったレベルで「私」というものを体験しているのです。

そのことを思い出すと、あらゆる体験、あらゆる物事、あらゆる人々を感謝で受け止めるようになるでしょう。

在るのは感謝だけです。

☆☆☆


モノがこころになる時代

一つの時代がおわりつつあるのを感じます。

モノや情報で溢れかえっている時代は、もう無くなりつつあります。

もっと多くの財産、もっと多くの知識、もっと良い学校、もっと良い仕事、もっと多くの年収、もっと良い頭脳、もっと早く、もっと幸せになること、もっともっとという時代がもう無くなります。
それを支えてきた情報やテクノロジー、そしてそれを支えてきた価値観自体がもう役割を終えました。
多くの人が、自分の意識やこころが最高のテクノロジーであり、世界が自分のこころの鏡であると気づき始めています。
自分の生きている世界で何かを求めたり否定したりすること自体が、ただ自分の存在を宣言している行為だということだと知り始めたのです。

新しい生き方をしている人は、周囲の状況・世界に対する解釈は、自分の在り方が出ているということを知っています。
これからは、“モノ”は無くなります。
“モノ”は“こころ”と同一なのです。
近い将来、私たちの考え方の中には、買ったり捨てたりする“モノ”というのは、ほとんど無くなるでしょう。
買うのではなく預かる、捨てるのではなく感謝で手放す。モノを買ったり捨てるという考え方が、自分自身のこころを買ったり捨てたりすることだからです。

今ここでの自分を見つめて、何が不足なのか、何が不満なのか思い起こしてみてください。
何かが足りないと感じたら、それは自分が世界に対して、つまり大きな自分に対して与えていないものなのです。
物質として経験しているこの世界は自分のこころの鏡です。すべての経験が今ここでの自己存在の宣言なのです。
人も動物も自然もモノも、すべてはこころです。
モノがこころと同じように思えるなら、あなたはもう新しい世界の住人ですね。
ありがたいことです。

ありがとうございます。

7つの感謝の解説(7)

「7.人に何かをしてあげたら感謝しましょう。」

何かをしてもらう、例えば、席を譲ってもらう、荷物を運んでもらう、道を教えてもらう、商品を買ってもらう、褒めてもらう、プレゼントをもらう、などをしてもらった時に感謝を想起するのは簡単で在るかもしれません。
しかし逆の行為、自分が、席を譲ってあげる、荷物を運んであげる、道を教えてあげる、商品を買う、褒めてあげる、プレゼントをあげる、などをした時に感謝をするのです。

人に何かをしてあげるということは、自分の感謝を表現する貴重な機会なのです。人に何かを「させて頂いている」といったほうが良いでしょう。何かをしてあげるためには、してもらう存在が必要です。
そのしてもらう相手や対象の存在に感謝するのは自然なことなのです。

親切をするには、親切にされる人が必要です。医者になるには、病人がいなければなりません。医療行為をさせてもらえる人がいなければ、医者がする行為はないのです。
学校などでの先生の行為は生徒の存在に支えられ、席を譲る行為は譲られる人の存在に支えられているのです。

あらゆる行為がその行為の対象の存在に支えられているのです。このことを知ると今後はできるだけ多くの機会に、「〜をさせて頂いてありがとうございます」と想起することでしょう。「私」という存在が「私たち」というより大きな存在になるでしょう。私たちという言葉さえ調和の中に消え去り、世界との一体感だけとなるでしょう。全ての存在が自身の最大の可能性を実現し、輝きだすでしょう。

7つの感謝。何度も読んで下さいね。
読むたびに何か新しいものに光を当てるでしょう。

読んでいただいて、ありがとうございます。

7つの感謝の解説(6)

「6.人に何かをしてもらったら感謝しましょう。」

人に何かをしてもらった時、それが近しい人ほど感謝を現わすのが難しいようです。
それは、やはりそのしてもらっている行為に慣れてしまっているからだと考えられます。当たり前だと思ってしまっているのです。
生きていること自体がとてつもなく大きな感謝の対象であるのですから、プラスアルファ何かをしてもらうということはそれ以上の感謝の対象なのです。

命を授かった上に、他人に何かをしてもらう。どれだけありがたいことでしょう。
私たちは生まれた時には一人では助けなしでは生きられない存在でした。生まれた最初から何かをしてもらって生きているのです。
自分で何かをできるようになったのも、自分以外の人に助けられた結果なのです。

今ここがいつでも生きるスタート地点だと考えると、これから生きていくのにずっと人に何かをしてもらうことでしょう。
その基本的な感謝は、私たちを生命の基本に立ち返らせてくれます。

人に何かをしてもらう時に感謝をすると、
生まれてから今まで、自分一人で生きてきたのではないのだ。ずっと何か自分以外のものに助けられて生きてきたのだ。
そういう思いが心を満たします。

感謝に在る時、私たちはあらゆる存在と結びつき、調和の中で自神を持って生きていることでしょう。
新しい時代には,皆がそう在ることでしょう。

今ここ感謝ですね。
有り難いことです。

何かをしてもらうという範囲を広げると、感謝は一層広がります。
それは次の(7)で。

ありがとうございます。

7つの感謝の解説(5)

「5.使っているものに感謝しましょう。」

使っているものの最初に来るのは、自分の身体ですね。
生まれてきた時に最初に使いはじめ、死ぬまで使わせてもらう身体は、最初に感謝の対象になります。
自分の身体に感謝すると、身体はいかに活動するのか、いかに休むのか、いかに食事を取るのか、などを自然に伝えてくれます。
それに調和しないと身体に不調をきたします。
身体は私たちが調和の中に生き、自神を現わすように最大限に助けてくれるのです。

自分の身体と同様、使わしてもらっている全てのものが、感謝に答えます。
日常生活で使う様々なもの、住んでいる住居や使っている家具、衣服やパソコン、歯ブラシやトイレ、ペンやテレビ、車や自転車、帽子や靴、花瓶やライト、メガネやカップ、その他仕事で使っている様々なもの。

どんな小さなものも、私たちの生きる手伝いをしてくれています。私たちの世界を結びつけてくれています。
使っているもの一つ一つに感謝すると、行為そのものがものに伝わり、そのものを大切に使い、大切にすればするほど感謝も深くなります。そして、使っているものに関係している人やものにまで感謝が広がっていきます。
そして、その物、物体だと思っているものは、生命その物であり、意志を持って反応してくるのです。

まずは、いつも使っているもの、手に触れたものに感謝してみてください。
徐々に、私たちが見えるもの見えないもの、あらゆるものに支えられていることに気が付くでしょう。
そして、そこにあるのは喜び、感謝だけになるでしょう。
調和に生きることになるでしょう。

今日もいろいろなことに気付かされました。

ありがとうございます。