モノが少ないことのメリット#1:掃除が楽

整理術や片付け術などでは必ず言われていることですが、不要なモノを手放して床や机などの平面からモノがなくなると、掃除が本当に楽になります。

モノがあると、例えば掃除機をかけるにしても、そのモノを移動して掃除をしなければなりません。またモノ自体も別個に掃除しなければなりません。掃除の後には再びもとの位置に戻す手間もかかります。
私の場合は、以前部屋がモノで溢れかえっていた時、まず掃除さえしませんでした。掃除をすると恐ろしく気が滅入るからです。本が詰まったホコリだらけのダンボールの間には掃除機のヘッドが入らないので、掃除をあきらめるか、重いダンボールを一つずつ下ろし移動してから掃除するしかありません。本が詰まったダンボールはとても重いのです。15キロとか20キロ、ダンボールによってはそれ以上の重さです。これを何十個も移動したらかならず腰を痛めます。

タンスや机の上などは、小さな置物や香水、ビタミン剤やカップなどで一杯で、それを移動しないと掃除などできません。本棚の上には使わない袋類やバッグなどが覆い被さり、触れると落ちてきそうなので触ることさえできませんでした。

したがって、私が掃除をするのは、ひどいときは大晦日に1回と、汚くて我慢ができなくなる頃に1回の、合計2回くらいしかしませんでした。普通の掃除に何時間もかかるので全くやる気が起きませんでした。当時、親しい友人からは、私の部屋に入ると靴下が真っ黒になるからスリッパを出してくれと言われたり、他人が部屋に入った途端くしゃみをしだすほどでした。

今では、掃除機をかけるのは2分で終わります。簡単に終わるので家にいられる時はほとんど毎日掃除しています。床や机や棚の上には何も置いていないので、モノを移動する必要もありません。ウェーブ ハンディワイパーで一拭きです(^^)。

 

人それぞれ持っているモノや収納の仕方は異なるでしょうが、やはりモノの量が多いと掃除が大変です。モノが少ないと掃除が楽になり、掃除ももっと行き届いたものになります。また掃除の時間が減るので、より大切なことに時間をかけることができます。
モノが少ないと本当に楽です。

私はこれを身をもって体験しました。

シンプルに見る

私たちの社会はモノや情報で溢れかえり、自分たちの環境を正面から見ることをあえてさせないようになっています。ちゃんと見てみると異常なことは一目瞭然なのですが、スッキリした社会になると一時的に損をする人たちがこれをさせないように脅したり刺激したりしています。

私たちの家の中も余分なモノで溢れ、そのグチャグチャな環境を見たくないので、敢えて考えない習慣がついていました。

しかし、不要なモノを手放し周囲がスッキリとしてくると、モノの一つ一つの性質が見えてきます。これまで見ようとしないで避けてきた状況を見ようとする態度ができてきます。そして、モノの在り方が見えてくると同時に、今まで習慣的に行ってきたことや考えてきたことにも違った光が当てられます。

これは何のためにここに在るのか。これを所有し使うことは私たちにどんな影響があるのか。なぜこれを持っていたいのか。これはここにあるのがベストなのか。そのような疑問が自然と湧いてきます。

おそらくこの辺りでは、使っているモノや必要なモノが手元に残っているのが一般的でしょう。しかし、ここで質問です。

使っているモノは手放さないほうがよいのか。

自分から見たら、使っているモノは確かに持っていて良いはずです。でも、その自分が使っている理由は何でしょう。必要のない欲求からそれを使おうとしていることはないでしょうか。

この段階にくると、自分の視点およびモノからの視点を超えて、自分とモノとの関係性が何によって成り立っているのかが見えてきます。

私の場合は、持っていたいと思っていたはずのモノに対してある違和感を感じ始めました。頭ではそれを持っている完璧な理由がきちんとあり、それを計画的に使っているのですが、どうしても気持ちの中に嫌なムズムズ感というのでしょうか、そういう感覚があるのです。考えている頭と心が、あるいは頭と体が一致していない感覚です。理性的な観点から見て正しいと思っていたことが、心の奥底ではそうではない、あるいは体そのものが否定しているのです。

私は違和感のあるモノは手放しました。頭では持っているべき理由だと思っていたのは、欲求が作り上げた「理由」と名付けられた「言い訳」なのです。人の持っている価値観や理由というのは、過去の経験を材料にして頭の欲求が作り上げたものです。そこから見た今ここは純粋に経験することができません。現代の多くの人の生活に現れているように余計に物事を複雑にします。

理屈を手放し、心の目で物事を見るようになると、敏感なセンサーがきちんと機能し始めます。その時の状況に調和した見方ができるようになります。自分と自分以外とが一体となった見方になるのです。物事を一瞬にしてシンプルに見ます。

モノを手放すことは、そのようなことにもつながっているのではないでしょうか。

シンプルな方法
シンプルに食べる
シンプルに話す
シンプルに考える

過不足なく

シンプルライフの実践は、今の世の中では所有物を減らしていくことで、モノとの関係が調和のとれたものになっていき、それと同時に、人間関係や仕事なども調和のとれたものになります。
調和というのは、言ってみれば、バランスが取れている、過不足がないことではないでしょうか。
モノについては多くもなく少なくもなくピッタリの量があることです。
私は合気道をやっているのですが、合気道の技というは、まず相手と気を結びそれから導くという技の掛け方をします。相手あっての技なので、速すぎても遅すぎてもうまく掛からないのです。ちょうど良いタイミングと力加減があるのです。一体感、調和というものが一番大切なものと言ってもいいでしょう。
モノや行動、人間関係なども、過不足ない調和のとれたものが良いのです。頑張ってもいけません。怠けてもいけません。ちょうど良いところがあるのです。スポーツや稽古ごとなども、ちょうど良い練習量と集中力を使う時が一番伸びるようです。
シンプルライフというのは、減らすことに重点が置いてあるように思えますが、それは物事を過剰に追い求める現代だからそういうことになるのです。シンプルライフは、過剰なものの場合は減らし、不足しているものの場合は増やし、バランスをとるということです。中庸です。中道です。
何か問題がある、物事を変えたい、自分を変えたい、人間関係を変えたい、私たちは様々なことを動かそうと悩んでいるでしょう。しかし、中道が大切です。バランスが大切です。調和を目指して生きていく時、それは一番うまく動いています。それはとても遅い変化に見えるかもしれませんし、あるいは一瞬で変わるかもしれません。どちらも調和の結果その速さで変化しているのです。それに気がつかずに調和からはずれ、無理に押したり引いたりすると、問題はもっと複雑になります。
どんな物事も変化しています。それに対して私たちはいつでも関わっています。複雑に関わると物事は複雑になります。シンプルに関わると物事はシンプルになります。
私たち自身がシンプルになればなるほど、周囲の状況がシンプルに美しく在るでしょう。

実践

「今ここ」に在ると、実践者になります。体験者になります。
「踊る阿呆に見る阿呆、踊る阿呆なら踊らにゃそんそん」
そんな言葉が思い出されます。
今ここに在る時は、踊りを見ているといつの間にか自身も踊っているのです。

今ここに在ると、いつでも、鑑賞者から実践者に変わります。今ここの世界から離れることがないからです。今ここの世界に積極的に調和しようとします。心と体が躍動してくるのです。

例えば、音楽を鑑賞しているときに体が自然にリズムを取り、あるいは歌い始めます。子供たちを観察すると、それが本当に自然な行為であることに気付きます。子供たちは今ここに在るのでしょうね。

心が動かされる行為やパフォーマンスを目の当たりにすると、自分自身がそう在りたい、そうしたい、という欲求が湧きあがり、その行為をしようとします。体験しようとします。

観察しているだけ、批評しているだけ、分析しているだけでは、「今ここに在る」から離れています。どうぞ実践者で在りましょう。体験者でありましょう。なぜ今ここに生きているのに、今ここから離れる必要があるのでしょうか。分離の中に生命はありません。

生命を知るには、それとともに生きてください。分離分解しないでください。
例えば、自分が飼っている犬を理解する時、脳や体を解剖して調べますか。それとも共に人生を楽しみ悲しみを共有しますか。答えは簡単ですね。

あなたは今ここに参加していますか。実践者でありますか。実践者でいるときだけ、生命を知るでしょう。

ありがとうございます。


床の間

以前紹介した『新・片づけ術「断捨離」』の中には、収納を「見えない収納」、「見える収納」、「見せる収納」の3つに分けて、それぞれの空間に対してのモノの占有率を7割、3割、1割りとしています。これは家の中をスッキリさせるには、とても良い基準になると思います。

詳しく知りたい方はこの本を読んでください。

ここではシンプルライフでの「見せる」方法を紹介します。

壁や机の上に様々なモノを飾って楽しんでいる人は多いでしょう。壁には好きな絵画やアイドルのポスター、机や窓際には植物や縫いぐるみや細かな置物、その他様々なモノを飾って楽しんでいることでしょう。

しかし、シンプルライフでお勧めするのは、モノを見せるのは「垂直面に一点」、「水平面に一点」だけです。

日本の家屋にはよく床の間があります。床の間の壁には掛け軸、床には花などを飾ります。壁という垂直面に一点、床という水平面に一点だけを飾っています。これは本当に美しいものです。この方法をシンプルライフは採用しています。

床の間がある家ではそれを使用すれば良いのですが、床の間がない場合も多いでしょう。私の家にもありません。その場合、自分で家の中に一カ所だけ床の間と同じような空間をつくります。何度も繰り返しますが、家の中に一カ所だけです。しばしば、玄関、リビング、和室、寝室など全ての空間に飾りを置いているのを見かけますが、これはお勧めしません。ただ一カ所です。シンプルですが本当に美しいです。

理想は家の中に一つですが、家族の一人一人の趣味があり自分の部屋に見せる空間を自由に作りたいという人はそれでもよいでしょう。基本は、その部屋の一つの垂直面(壁)と一つの水平面(テーブルなど)を決め、そこに一点ずつ飾るようにします。他には何も置きません。

水平面には、花瓶に挿した季節の花や植物を置くのも良いでしょう。あるいは気に入っている置物などでも良いでしょう。

垂直面には、絵画や書、または気に入った柄や色の布一枚を飾るのも良いでしょう。寒い季節には温かい色のモノを置くなど工夫してみてください。

これを行う当初は寂しく感じるかもしれませんが、シンプルライフに慣れてくると、この美しさを感じられるようになります。

ぜひ「床の間」の方法を行ってみてください。

心の部屋の片付け

シンプリストはモノに対して執着せず手放しますが、モノではなく心ではどんなモノを手放すのでしょうか。

心の在り方でそこに残しているのは、感謝です。それは知足であり、共感であり、交友であり、尊重であり、和合であり、正直であり、誠実であり、そして喜びであるのです。

そこに至るには、やはり不要な心を手放すしかないのです。

その不要な心は、不平、不満、物惜しみ、恨み、憎悪、快楽、慢心、飽くことなき欲求、退屈、疑念、不安、コントロール、嘘、いつわり、怒り、散漫、などです。

これらは、私たちの生活の中で、余計な情報が押し寄せてくるように、いくらでも私たちの心の中に侵入してきます。

モノを手放すうちにこれらの余計な心の状態も手放すようになってくるのですが、心の面でも何が余計で何が必要なのかを、あらかじめ知っておいた方がよいのです。

状況がなんであろうと、不要な心の状態は必要ありません。これは心という空間を乱すだけなのです。心を一つの空間と見なしてください。実際、本当にそうなのです。心というのは一つの空間、部屋であって、そこに何を入れるのかは私たちが自分で行っていることなのです。状況がこうだから私はこう思う、というのは、私たち自身がそう思う状態を選んでいるだけなのです。

誰かがこんな嫌なことを言った。それをモノだと考えてみてください。貰わないでいましょう。もう貰ってしまった? それなら捨ててください。心の空間をキレイに保ってください。心はあなたの魂の部屋だと考えてください。

心の部屋には、本当に大切なものだけを置きましょう。

私の心の部屋に残しておきたいのは、感謝です、清明正直です。

皆さんの心の部屋には何を置きますか?

深い体験

今ここに在る、とは、実は体験を深めることと同じことです。私たちは過去の経験に照らして、喜びや楽しみを味わおうとし、痛みや苦しさを避けようとする思考習慣を続けてきました。このような思考習慣は、私たちを今ここから遠ざけます。そしてその「喜び」とか「楽しみ」、「痛み」とか「苦しみ」とレッテルを貼った体験をエネルギー的な荷物として背負い込むことになります。

今ここに在ることは、その「喜び」や「痛み」と名付けられた体験をレッテルを貼らずに受けいれ感じることなのです。懸命に感じるのです。それは感じることによって「喜び」や「痛み」というものではないと気がつきます。その名付けていた体験が初めてのことであり、どんなに貴重なものか、どんなにありがたいことなのかが感じられます。
この体験を深めるということは、喜びや痛みだけではありません。あらゆる習慣化した体験が、真にありがたいものに変わります。
食事をしているとき、口に入れた食べ物を本当に味わってみましょう。食物の命と自分の命が一体化します。運動している時には、呼吸と筋肉の躍動をしっかりと感じてみましょう。どんなに自分の魂が喜んでいるかが分かるでしょう。
どんな体験であっても、今ここにあり深く味わえれば、それを通して魂は喜びます。
「ああ、生きている!」と。

ありがとうございます。

「今ここ」と丹田

双葉山

丹田(ハラ)を強くすることについての重要性は様々なところで言われてきました。
健康になる、強くなる、頭が良くなる、などの効果もあげられています。
しかし、その本当の意味は、丹田の強さが「今ここ」に在ることとつながっているということなのです。物質的なものを超えて人間の存在を観察すると、丹田の位置にその存在の中心があります。今ここから離れると、その中心に輝いている球状の光の玉を曇らせたり歪めたりしていると観察できます。
つまり、今ここに在ることは、その丹田の玉の汚れを落とす、余計なものを剥ぐことになります。人間というのは実はもともと光り輝いているのですが、それに汚れがついている状態が、苦しみや迷いになっているのです。
自分の中心である丹田を意識していることは、同時に、自分ではないものである汚れを自分に寄せ付けないことであり、汚れがないということは丹田がキレイに輝いていることであり、純粋に今ここに在るということなのです。
丹田に意識を置いていれば、自然に汚れが落ちていき、今ここに在ることになるのです。ここにある写真の二人は「今ここ」丹田の良い例です。

ラマナ・マハルシ

モノ以外も手放せます

モノを手放すことは、どれほど大きな意味を持っているのでしょうか。

私のように本に執着していたのは、そこに固定された行動、パターン化された心の状態が守れる、といった一種の安心感があったからだと思います。周囲の状況がどんなに変化しようが、自分のパターンの中からはずれなければ心が乱されることもないし、心が乱されそうになったらいつでも本を読んでそこに没頭することで安心感を得られるのです。

しかし、もちろんそこには本当の安心感などありません。世界に関わらずに、つまり自分の世界、経験を広げずに、自分を偽って生きているのです。モノを手放せない人はそこに偽の安心感を見出そうとしているのです。

なぜモノを所有することで安心感を得ようとするのでしょうか。 モノというのは人がこの世で一番コントロールできる(と思い込んでいた、あるいは社会がそう思わせていた)からではないでしょうか。いつの間にか、あなたはこれこれを持っていると安心ですよ幸せですよ、と思い込まされていたのです。そしてその誰かが言った幸せを得るためにモノを持つことに夢中になってしまったのです。

モノの所有というのは、コントロールできないものをコントロールしようとすることであり、コントロールできない現実からの逃避であり、思考の固定化であり、そして、自分の成長や変化を妨げるものなのです。

そういったモノを手放すことによって、あるいは預かりモノとして大切にすることによって、その他のことも手放し始めます。後悔や期待、先入観や偏見、ルールやコントロール、主義主張などを手放し始めます。毎日毎日が、一瞬一瞬が、生き生きと感じられ、一体感と調和の中で生き始めます。

モノを手放してみてください。手放しながら自分の心の変化を感じて、自分の固定した心があれば見つめてみましょう。うまく行くときも行かないときもあるでしょう。
しかし、続ければ続けるだけ自由と生き生きとした感覚を得られるでしょう。

 

Day 10 : そして、調和

モノとの関係から始まったシンプルライフは、モノや人間との関係、状況や自然との関係が感謝の中で調和したものになってきます。
無駄なモノ、無駄な行為、無駄な人間関係、無駄な環境というものは、実は私たちが過去や未来にとらわれていて、今ここにない状態の現れだったのです。

今ここに在ると真の意味での調和を体験します。意識の過去や未来あそこやここへのブレがなくなるので、自然に調和するのです。よく言われるような「今ここに集中しなさい」というような集中力などいらないのです。集中力というような力での対立はそこにはありません。ただ余計なものをなくしただけなのです。それだけで調和が現れます。そこには真の生命という最高のパフォーマンスが現れます。

物事がうまく行かない時、気分がすぐれない時、自分の本当にやりたいことが見つからない時、そのような時には、身の回りの不要な物の処分や片付けをしてみてください。迷っているときは過去や未来にとらわれて、今ここにいないものです。まずはシンプルライフの基本に戻ってみてはどうでしょうか。いらないものを処分し、モノをあるべきところに戻し、使っているモノは感謝の気持ちで使う。モノの調和から心の調和を思い出し、人生を調和の中で過ごしていきましょう。

シンプルライフにはゴールはありません。スタートがあるだけです。そこから、ただ「今ここ」に気づき、感謝と調和の中で変化していくだけです。現代の思考は調和からかけ離れているため、調和の中に在るには多くの努力が必要に見えますが、全くそうではありません。自分でないものに気づくことで、本当の自分(実は自分以上の存在)を思い出すということなのです。思い出すと、自分は世界と一体になり変化そのものになります。

私が言葉で表現できるのはここまでです。あとは自分で体験するしかありません。このような言葉さえ要らなくなるのです。

そして、再び不要な言葉を手放すことから始まります。

Back to Day 1.

My Journey
Day 10 : そして、調和
Day 9 : 他人のガラクタ
Day 8 : ミニマリスト Minimalist
Day 7 : 自分とモノとの関係
Day 6 : モノには戻る場所がある
Day 5 : モノとの生きた関係
Day 4 : 必要なものはない
Day 3 : ようやく部屋に空間が
Day 2 : 本、本、本
Day 1 : 部屋の乱れは心の乱れ